戦後俳句を読む(第7回の1) ―テーマ:「音」その他―

―テーマ:「音」その他―

執筆者:仲寒蝉・筑紫磐井・藤田踏青・吉澤久良・土肥あき子・北川美美・池田瑠那・横井理恵

赤尾兜子の句/仲寒蝉

縄文人居ず深山蝉生き継ぎて     『歳華集』

 直接音が詠み込まれている訳ではないが、この句を読めば深山蝉の声が耳の奥から聞こえてくる。…ということで赤尾兜子の「音」のテーマの句としてこれを取り上げることにした。それにしても一風変わった句である。

こういう日本人の歴史に思いを馳せたような俳句はそれまでの、つまり『虚像』までの兜子にはなかった。そのきっかけは大阪外国語学校時代の同級生、司馬遼太郎との出会いではなかったか。兜子と司馬とは同級生と言ってもその交友関係が学生時代からずっと続いていた訳ではない。先に書いたように『歳華集』の序文は司馬によって書かれ「焦げたにおい」という題名が付けられている。如何にも司馬らしい分析的な文章であるが、その最初の部分を引く。

 赤尾兜子と私とは、大阪の上町台にある小さな学校で一緒だった。
 兜子は中国語をまなび、私はモンゴル語をまなんだ。それぞれ、このことは意味があったようにおもえる。卒業前、怱怱に兜子は京都大学へゆき、私はそれよりすこし前に兵隊にとられた。この間の記憶は、なにやらもうろうとしている。
 戦後、どちらも新聞社につとめたが、双方社もちがい、受けもつ仕事もちがったために、相会わなかった。小さな学校以来、二十年後の昭和四十年前後に再会し、濃密な親交を結びなおした。

 『歳華集』の前の『虚像』の出版が昭和40年であるから、兜子が司馬と再会したのはまさに『歳華集』に収録されている俳句を作った時代ということになる。ちなみに掲出句は昭和46年の作品を収めた「単飛」の章にある。この句集はそれまでの2冊(年代順では最も初期に当たる『稚年記』はまだ上梓されていなかった)と比べて自分の身辺や家族のことを詠んだ句が多くなる。さらに昭和43年の「佐世保にて」を皮切りに旅行の句が出現する。昭和45年には初めての西洋旅行にも出かけて

仔鴨食う巨き異国の男のなか
韮雑炊すする石の街中やたらに赤
狡きローマレモンのごとき男あり

などの作を残している。海外旅行は戦時中から戦後にかけて政府による規制が強く、回数制限などが撤廃されて一般大衆が観光としての海外旅行を楽しむようになるのは1970年代以降である。(ちなみに岡春夫の「憧れのハワイ航路」は昭和23年、「トリスを飲んでハワイに行こう」のCMは昭和36年。)その意味で兜子の海外旅行は一般人としては早い方であったと思われる。

 「単飛」の後の「先行の人(昭和47年)」には「司馬遼太郎氏に」の前書で

先行の人になおあり蝉の空

という句があるし、「陳舜臣氏夫妻と沖縄へ旅をして」との前書の句もあるから、確かにこの頃かつての同窓である司馬や陳との交友が再開されたのであろう。二人とも歴史をテーマにした小説家であり、その交友を通して兜子も歴史への興味を開かれていったのではないか。彼の句がそれまでの前衛前衛した詠み振りから徐々に伝統回帰してゆくのもこの『歳華集』あたりからなので、この二人の畏友が兜子の句風に何らかの影響を及ぼしたことは大いにあり得る。

 さて「単飛」という聞き慣れない題名は「吉野にて四句」の中の一句から取られ一羽で飛ぶという意味らしい。掲出句も含めた「吉野にて」の四句を並べてみよう。

花から雪へ砧うち合う境なし
縄文人居ず深山蝉生き継ぎて
海人(あま)の神青羊歯山頂へ照り乱れ
霧の山中単飛の鳥となりゆくも

吉野という土地柄ともあり「砧」「縄文人」「海人の神」など古い時代へと心を遊ばせている感がある。縄文人は古事記に出てくる「国栖」のことを思ったのだろうか。それとも蝦夷のことか。神武東征以来、大和朝廷による相次ぐ弥生人の征服で縄文人は居なくなってしまった、しかしこの山中に深山蝉は生き継ぎ鳴き継いでいる、というのだろう。短い中に日本の古代に関する歴史観が籠められている。

楠本憲吉の句/筑紫磐井

オルゴール亡母(はは)の秘密の子か僕は

音といって、多くの人に思い出される憲吉の俳句はこの句であろうか。桂信子も憲吉の愛唱句としてあげていたと思う。それにしても桂信子という激しい女流と、いい加減な楠本憲吉が日野草城の同門で付き合いがあったということ自体面白く思われる。ただ桂信子のこの句の解釈は読み違いがあるように思われる。信子が述べているような母恋の句などではないように思うからだ。憲吉35歳の時に母親はなくなっているが、いかにも作りごとのような俳句である。だから私はむしろ次の句が好きだ。

終い湯の妻のハミング挽歌のごと

恐怖心が漂ってくるような句だ。憲吉の家庭俳句は、半分虚構、半分事実であろうし、ことによると沈黙したまま語らない危険な部分もあっただろう。フィクションとしてのクスモト家を憲吉全集からたどることはまことに面白い。ここには何らかの人生の真実がある。

ところである著名な女性俳人に、憲吉の俳句を読むようにすすめたところ、「女や火遊びに自信があるのだろう、読者が男ならおもしろいかもしれないが、女からすると感じがよくない、こんな男の本心が見えたらうんざりでこんな男は敬遠したい」と言われた。以来私の人格そのものを疑われているところがある。あまり人に俳句を読むことを勧めるのは考えものだと反省している。

しかし、源氏物語の光源氏だとて、同時代人だと見たらたまったものではない。憲吉もなくなっているからこそ安心して句を鑑賞できるのだ。

「終い湯」につかっている妻は一見謙虚に見えるが、湯に浸りながら鼻歌で歌う「挽歌」は夫の心胆を寒からしめるものがある。湯船の中で開放された意識の中で、どこかうっすらと夫のなくなったあとの年金や保険金を想像したり、再婚の可能性もまだまだ捨てたものではないと思っているかもしれない、若干の殺意があったっておかしくはない。良妻賢母を詠むことに慣れている俳句に対して、シニカルな真実を憲吉は提供する。川柳とは全く異質だ。笑ったあとで顔面が凍りつくようだ。

おそらくどんなに愛している妻にしても、5%ぐらいはこうした意識があるはずである。ことによると95%納得する妻もいるかもしれない。そうした真実を、ことのほか憲吉は愛していた。憲吉しか詠めなかった世界である。憲吉を読むと、世の常の愛妻俳句など嘘っぽくて読めなくなる。

近木圭之介の句/藤田踏青

大寒、かぜの中まぎれなく鉄うつ音のす
人臭い港。 シャボン玉に似る汽笛がいい

 開高健が大江健三郎といっしょにモスクワに行った時の話である。開高はその中で「朝から晩まで毎日毎日おなじものを食べているせいであろうか、私がブウと鳴らすと彼もブウと鳴らし、ひょいと顔をだして、いまのはフランス語では“ブリュイ”というのでしょうか、”ソン“というのでしょうかと聞く。音響学的には前者でしょうが会計学的には後者でしょうと答える。と書いており、面白い分類である。音響学は音の成因、性質、作用などを研究する物理学の1部門であり、音色などが身体に影響を与える音響生理学などにも関連している。一方、会計学は財政状態と経営成績とに関するもので、音響学と会計学との間に「人間」を据えた場合には、それぞれが生理学的状況と経済水準状況によって「人間」が影響される事を示唆しており、判断分析の起点の相異がもたらす概念の位置付けを示している。

 前句は昭和24年の作であり、戦後に生きる人間の姿が「鉄うつ音」を通して力強く浮び上ってきており、「鉄うつ音」は数字にも還元されるものであろうから、これは会計学的分類に入れても良いかな、と考える。この作品に先立って栗林一石路の「鉄を叩いて人間が空のどこかにいる(昭和4年作)」の句があり、圭之介はその作品も意識していたのではないであろうか。

 後句は平成16年の作であり、人臭い港といっても戦後の様な重苦しい生活感はそれほど感じられない。それは句読点、一字空白などの手法でかなり詩的にまとめられている事にもよるのであろう。そしてシャボン玉の球面に次々に現れる光彩の如く、様々な汽笛の音色にも軽快さがあり、「音」に焦点が集約されているため単純に音響学的分類に入ると思われる。

銅版画の挿絵。何処かの林で寂しい風が吹いていた   昭和52年作
木の実が鳴るのは無意味におもえたが         平成2年作

 これら両句の「音」は異空間の中で鳴り響いている。作者にとっての今現在という空間と、それに呼応するかのような過去というか、デジャビュのような空間がそれである。眼前にある銅版画の挿絵の中に吹く風、そして記憶の中の林で吹いていた風。頭上で木の実は鳴っているが、空白の頭の中では無音でしかない存在。無意味の意味を圭之介は追い求めているのであろうか。

月が明るく暗い指で鳴らす楽器            昭和30年作
耳を喪った月 時間が木々に明るい          昭和52年作

 前句の月の明るさがもたらす楽の音は、暗い思いの回復につながる要因となろう。後句の月の沈黙は時間を透明にし、無音の安らぎと内的な曙光へと導いてゆくのであろう。月の能動的な面と受動的な面との照応が懐かしいもののようにもたらされてくる。


 *「現代日本文学大系・開高健集」筑摩書房・昭和47年刊

時実新子の句/吉澤久良

掌の中に響き鳴く蝉握りしめ   

『月の子』第一章「四時の汽車」(昭和29年~38年)所収。

梅崎春生の『桜島』に、主人公の「私」が蝉を握り潰す場面がある。「私」は終戦直前の桜島に配属されている兵曹である。ある日、見張り台へ行く途中、グラマンの機銃掃射に遭う。何とか命拾いをして見張り台に着くと、何度か話をした見張りの兵は、今年最初のつくつく法師が鳴く木の下で、先ほどの機銃掃射で死んでいた。思わず「私」はつくつく法師を捕まえる。掌の中でか弱い虫が思いがけなく強い力で羽ばたく。見張りの兵のあっけない死とつくつく法師の生命力とにめくるめくようなギャップを感じ、「私」は思わず蝉を握り潰す。

新子もこの小説を読んだかもしれない。掲出句と似たモチーフの句をあげる。

掌に光る蛍の息に息を和し
百匹の蛍を握りつぶすかな

いずれも『月の子』所収。「掌に光る」は第一章「四時の汽車」(昭和29年~38年)、「百匹の蛍」は第五章「天まで花」(昭和52年~)所収。

「息を和し」という対象への一体化と「握りつぶす」という嗜虐がある。一体化と嗜虐とはベクトルの方向の差があるだけで、どちらの句も「蛍」に自己を投影している点では変わらない。「掌に光る蛍」は実体であろうが、一句の中での重みという点で言えば、「蛍の息に自分の息を」和すという心理の添え物である。その心理は平凡なロマンチシズムで、取り立てて言うほどのものではない。二句目は、「百匹の」と書かれた時点で、この「蛍」は実体ではなく観念であると判断できる。「蛍」は作中主体の心理を引き出すための道具立てにすぎない。結局は、この二句に書かれているのは作中主体の心理だけである。その意味で、この二句は平板である。

「蛍」の二句よりも、掲出の「蝉」の句の方が優れている。なぜなら、「蝉」の句には異物が書かれているからだ。異物と作中主体との緊張感があり、さまざまな心理の陰影を読者に想像させる。句に奥行きがある。作者が書いたことをそのまま受け取れば読みが終わる「蛍」の二句との違いである。

人間に捕まえられた蝉や蛍は、人間の気まぐれで運が決まる。蝉や蛍自身に自分の運を決めることができないように、人間も自分の運を決めることができない。蝉や蛍への感情は、自分自身への感情であり、生きていること自体への感情である。心が強い時は生命力への共感となり、心が弱っている時は生命力への反感となる。共感と反感は、寛容と不寛容と言いかえてもよい。

「響き鳴く蝉」であるから、蝉は逃れようと必死で暴れているのだろう。掌の中で響き鳴く蝉の鳴き声、暴れる蝉の振動の感触には、生命あるいは本能というブラックボックスへの根源的な気味悪さがある。この蝉の生命力の、ある意味まがまがしいとさえ感じられる生々しさが、作中主体の心の揺れを引き出し、句に生彩を与えている。作中主体にとって、その鳴き声と感触はおののきをおぼえるほどのものではなかったか。「掌の中」の「蝉」を握り潰すのか、いとおしむのか、どちらであるかは書かれていない。「響き鳴く蝉」を「握りしめ」たまま、作中主体はなすすべもなく立ちつくしているのかもしれない。

稲垣きくのの句/土肥あき子

三時間ドラマ三時間見て夜の秋

 昭和55年11月号の「春燈」に掲載された作品である。

 きくのは蒲田松竹のサイレント時代の映画女優であった。その後トーキー作品となってからは『春琴抄』(1935)と『家族会議』(1936)の二本しか出演作品はない。松竹が蒲田から大船に移転する機会に、20代で見切りをつけたような女優業だったが、年代というよりサイレントからトーキーへの大きな転換期についていけなかったのかもしれない。女優時代を振り返るような文章を一切残していないきくのではあるが、昭和14年東宝映画が開設された頃には

すみれ好き東寳が好き嫁仕度(「縷紅」昭和14年9月号)

があり、また

映画みにゆく出来こころ柳の芽(『榧の実』)

など、女優を辞めたあとも、映画は好んで観ていたようである。

 しかし、掲句の〈三時間ドラマ〜〉の句では、ドラマ自体には積極的な興味も期待もまるで込められていない。見るでもなくつけていたテレビドラマを、エンディングまで見てしまったのだ。気がつけば映画よりずっと長い、3時間という時間を無為に過ごしてしまったことに、我ながらあきれ果てているといった風情である。人恋しさに音を求め、またストーリーを追ってしまったことへ、秋の夜長というだけではない、女優をしていた身ゆえのわびしさと自嘲がにじむ。

 映画監督でもあり同結社「春燈」の同人でもあった五所平之助が1981年に亡くなった折り、きくのはテレビの追悼番組に出演した。カメラ慣れしているはずのきくのは、出演者のなかでも際立って凛として美しかっただろうと想像したが、実際には画面の向こう側のきくのは、どこか居心地悪そうに、四方から映されるカメラに終始緊張の面持ちであったという。

三橋敏雄の句/北川美美 

正午過ぎなほ鶯をきく男

掲句、至る所で鶯が鳴いている光景が浮かぶ。けれど、この男、鶯を本当に聞いているのであろうか。「正午過ぎなほ」これは、小原庄助さんを兼ね備えつつマニアックでマイペースな男である。午前中からずっと鶯の声を聞き、午後になってもまだ聞いている。「きく」と書いてあるが、この男、実は「聞いていない」と解釈する。それは、「なほ」からくるもので、尋常ではないことを想わせ、想像力が働く。男に焦点を当て、この男が別の事、言うなれば人生について思い巡らしていると想像する。往々にして三橋作品から音が聞こえない気がする。

凩や耳の中なる石の粒 (*1)  『しだらでん』
梟や男はキャーと叫ばざる

すさまじい凩の音よりも耳に入った石粒が気になる。男はキャーと叫ばない。やはり筆者に「音」は聞こえてこない。白泉は、「玉音を理解せし者前に出よ」「マンボでも何でも踊れ豊の秋」「オルガンが響く地上に猫を懲す」「鶯や製茶會社のホッチキス」などの音から起因する句、それも一拍ずれているような音が聞こえる気がするが、敏雄の「音」は消えている。極め付けなのは、下記の句。

長濤を以て音なし夏の海  『長濤』

映画の中でミュートをかけたように意図的に数秒間「音」が消え、映像だけが流れる効果に似ている。敏雄は、唯一、音楽が苦手だったようだ。「やはり」と思ってしまう。それが俳句の上で効果となっている。「音」を読者に届けるのではなく「言葉」による音の想起を促している。ひとつの物音も俳句を通し読者に想像させる力を持つのである。欲しいのは言葉、そして俳句ということか。

「鶯をきく男」、ウィスキーグラスを片手にただ遠く流れた時間そして人生を想っている気がしてならない。

李白の詩がある。

 『春日醉起言志(春日 酔より起きて志を言ふ)』(*2)

 處世若大夢  世に處(を)ること 大夢の若し
 胡爲勞其生  胡爲(なんすれ)ぞ 其の生を勞する
 所以終日醉  所以(ゆゑ)に終日醉ひ
 頽然臥前楹  頽然として前楹に臥す
 覺來眄庭前  覺め來りて庭前を眄 (なが)むれば
 一鳥花間鳴  一鳥 花間に鳴く
 借問此何時  借問す 此(いま)は何の時ぞと
 春風語流鶯  春風 流鶯に語る
 感之欲歎息  之に感じて歎息せんと欲し
 對酒還自傾  酒に對して還(ま)た自ずから傾く
 浩歌待明月  浩歌して明月を待ち
 曲盡已忘情  曲尽きて已に情を忘る

「鶯をきく男」の句は李白の詩そのものである。マーラー(*3)はこの李白の詩を原作とし連作歌曲『大地の歌(Das Lied von der Erde)』を1902年48歳のとき作曲している(*4)。そして敏雄は、1969 (昭和44)年49歳のときに掲句を得た。俳句形式となった17音は読者の脳波に変換され響き渡るのである。李白をもとにマーラー、敏雄と古典は永遠に人を酔わせ新たな名作を生む力がある。

敏雄は、永い船上勤務で、ひとり、遠く陸を想う時間を過ごしたであろう。「なほ鶯をきく男」はやはり酒を呑みながら世をながめている男であったか。鶯の鳴声(「なお鳴く鶯」すなわち「老鶯」であろう)は、敏雄の中で静かに消されている気がする。


*1)ちなみに白泉に「木枯や目より取出す石の粒」がある。

*2)李白(701-762年)『李白詩選』(松浦知久訳/岩波文庫)

*3)マーラー(Gustav Mahler, 1860 – 1911)

*4) 1986年サントリー・ローヤルのCM(http://www.youtube.com/watch?v=NSlVsnMbZ48)『大地の歌Mov. 3』(http://www.youtube.com/watch?v=lb9KnrrvDc8)が使われた。

永田耕衣/池田瑠那

後々に茄子の鳴く音ぞ残るらん

ノチノチニナスノナクネゾノコルラン。ナ行音が繰り返され、一種の呪文のような風情のある句。耕衣が自宅・田荷軒で茄子を植木鉢に育て、時に食材とし、時にはその実が朽ち果て乾き切り、ミイラ状になってしまうまで鑑賞したというエピソードは、とみに知られるところである。茄子を詠んだ句には「茄子や皆事の終るは寂しけれ」(『冷位』)「秋茄子己に浅く沈滞せよ」(『殺仏』)「元旦や枯死淡々の茄子三つ」(『物質』)等もある。また、この茄子の観察が後年「衰退のエネルギィ」ということを提唱するきっかけになったとも言われる。

 さて掲句ではその茄子が「鳴く」という。亀や蚯蚓をも鳴くものとしてしまう俳人の感覚からしても、これには驚かされるのではないだろうか。茄子の鳴く音とは、一体どんなものだろう。身近で茄子を育てた耕衣には、成長していく茄子、枯れていく茄子が発する微細な音が聞き取れたのだろうか。

様々に想像を刺激されるところだが、ここで注目したいのは、「後々に」「残るらん」というフレーズである。これは「眼前の茄子が発している音が、後々までも残るだろう」とも読めるが、「今、自分が見、触れている茄子は何の音も発していないように思われるが、実は何らかの音を発しており、それは後々になってから人間の耳に聞こえてくるであろう」とも受け取れないか。(恰も、夜空一杯に広がる打ち上げ花火の煌めきに、その音が遅れて響くような具合で)

眼前の茄子も、作者も読者も、物質としての姿かたちを失った遥か後になって、茄子の鳴き声だけがふっと残っている。そんなこともあるかも知れない。人間は皆、今、現在の自分が感受できるものが世界のすべてだと思い込み勝ちである。この自分が感受できることなど、ごく僅かであるのに。また「この自分」自体も、刻々と変容してゆくというのに――。掲句は、そんな「今、現在の自分」に対する拘りを茶化し、空じる呪文のように聞こえて来る。ノチノチニナスノナクネゾ、ノコルラン。(昭和56年刊『殺祖』より)

中尾寿美子の句/横井 理恵

春あけぼの醒めて醒めゆく音をきく     『天沼』

 中尾寿美子の初心の頃の作品である。「水明」時代の叙情的な作風で、のびやかな美しさがある。春眠暁を覚えず。ゆめうつつの心地から、耳という器官を通して覚醒していく。だんだんと聞こえてくる音に焦点が合っていき、やがてぱっちりと目を開けたのだろう。「目覚める」前の、耳だけが「醒めて」いる時間、そのたゆたう時間をうたっているのである。「春あけぼの」という和語のリズムが、心地よい字余りとなっている。

 この句は「音」の句――音に焦点が合っている・合っていく句だと思われるが、それでも、春あけぼのの景の印象の方が色濃く、「音をきく」といいながら視覚的な句にも感じられる。寿美子の句では「音」と「景」との境がおぼろな感があるのである。更に、後の句集に見える寿美子の句の特徴の一つは、「音」を「見て」いることではないかと思う。

三椏の花の無口は身にひびく     『草の花』
誰がこゑか泰山木にきて咲けり    『舞童台』

 うつむいて咲く三椏の白と黄を「無口」「無音」と見る一方、上向いて咲く泰山木の白を「誰かのこゑ」が咲いたものと見る。耳を澄ませて花を見ることで、体の奥に音を感じているかのようだ。見ることと聞くこととがとけあった世界とでも言おうか。

つばな笛黄泉明るむと思はずや    『舞童台』
鶯やことりと吾れに老いの景       〃
むつつりと居て夕焼を濃くしたり    『新座』

 寿美子の中で、「聴覚」と「視覚」とは、ともに身体的な「感覚」として溶け合い、遥かな存在を感受する。つばな笛の句では、見えないはずの「黄泉」が可視化され、鶯の句では、聞こえないはずの「ことり」という音が響いてくる。そして「むっつりと」した肉体の「無音」が、夕焼けの色を濃くしてしまうのだ。

 音も景も、独立した存在としてあるのではない。すべては寿美子という感覚器を通してはじめて聞こえてくる・見えてくる存在として現れている。今ここにある「私」を通して世界を感じること、そしてその感覚をそのまま言葉にすること、それが寿美子の句の世界である。「感じる」ことの自在さは、見えないものでも「見る」ことを可能にしたのだろう。

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