戦後俳句を読む(第7回の2)―テーマ:「音」その他― « 詩客 SHIKAKU – 詩歌梁山泊 ~ 三詩型交流企画 公式サイト

戦後俳句を読む(第7回の2)―テーマ:「音」その他―

―テーマ:「音」その他―

執筆者:清水かおり・飯田冬眞・岡村知昭・深谷義紀・堺谷真人・しなだしん

(戦後俳句史を読む(第7回)私性②) 吉澤久良・北村虻曳・堀本吟

戦後川柳/清水かおり

小鳥倒れ ことりと倒れ 声無き玩具     泉 淳夫
 (1902年~1988年・福岡)

 泉淳夫の第3句集『風祷』に収められた一句。

この句を読んだ時に感じた主体の挫折感は読んだ日のまま救済されずに残っている。

 小鳥のような脆弱な生き物と同化した意識が、玩具という無防備な感覚へと無残な姿を見せていく。ここでの「小鳥」「ことり」「こえ」という同音で始まる句語のたたみ掛けるようなリズムの効果は大きい。無声映画を見ているように、ゆっくりとコマ送りされるフィルムの中で「小鳥」が倒れていく。倒れた小鳥は作り物みたいに見える。動物の死後硬直した体はなぜか物質の重量が増したようで硬く冷たく映る。そんなリアルで客観的な情景もこの句にはあって、具象を基本とした淳夫らしい表現である。

 泉淳夫の作品が支持される理由のひとつに、真実の思いの表出がある。彼は咽喉の疾患により声帯を失っていた。何度目かの手術を経た後に上梓した句集が『風祷』であったことを考えると、ここで「声無き」に作者を見るのは自然な流れだ。おそらく作者もこの句への自己投影の感は否定しなかっただろう。しかし、読者は「声無き玩具」から作者の姿を見るだけではなく、そこに提出された生への挫折感を、懸命に生きる自分達の姿と重ね合わせた群衆心理の投影とも感じるのだった。淳夫作品で出会う作者の思いと読者の思いは共感というよりも、もっと深い心の層で取り交わされる言葉のようなものだったに違いない。

 この句の中で「ことり」と音を発しているものは、生き物の小鳥にしても、意識下の小鳥にしても「ことり」という擬態語ですべてを伝えている。こうした音の言語化は主観的なものだと思う。オノマトペの多さは日本語の特色のひとつと言われているが、「ことり」の言葉の選択には淳夫の情緒が作用しており、希望の倒れる瞬間がより鮮やかに創りだされていると感じた。

 「小鳥」と「ことり」の同音の取り合わせや、二段切れなどの形にも注目したが、何より、その情景の展開に集中させられる。芯のある一句の力というものだろうか。

齋藤玄の句/飯田冬眞

木の暗〔くれ〕の暗き主に呼ばれをり

昭和53年作。第5句集『雁道』(*1)所収。

年譜によるとこの年の春、玄は体調に異常を覚え、砂川市立病院に入院。直腸がんの診断を受けている。4月12日手術。7月5日に再手術を受けている。全句集の配列を見る限りにおいては、掲句は7月の再手術直後の作と思われる。

一読して不意を突かれた作者の不安な心象風景が、ぺたりと貼り付いてくるような不気味な読後感がある。夏の木立の下闇がみえてくるとともに湿った土のにおいが鼻腔によみがえる。ことに中七下五の「暗き主に呼ばれをり」の幻聴が、句全体に死の予感を漂わせ、象徴詩の趣すら与えている。

掲句は発表当時、特定の季語を持たない無季作品と解されていたようだ。それは、飯田龍太が「『雁道』の秀句」のなかで〈特定の季語を持たぬが、作品内容から「木の暗〔くれ〕」は下闇、あるいは木下闇と解すべきだろう〉(*2)と記していることからもうかがえる。現在では『角川俳句大歳時記』等が「木下闇」の傍題として「木の晩〔くれ〕」を取り上げており、掲句が用例として挙げられているものもある。ある意味、掲句が詠まれなければ季語「木の暗」は存在しなかったといえる。龍太が「木の暗」を「下闇、あるいは木下闇と解すべき」とした根拠は、不明だが、おそらく『万葉集』の歌が念頭にあったのではないだろうか。というのも、「木の暗」の詩歌における用例を探すと『万葉集』巻8の1487番歌「霍公鳥〔ほととぎす〕思はずありき木の暗〔くれ〕のかくなるまでになにか来〔き〕鳴かぬ 大伴家持」にまでさかのぼるからだ。

ちなみに『万葉集』において木の下闇の意で用いられる「木の暗」「木の晩」を含む和歌・長歌は10首あり、そのうちの7首に「ほととぎす」が登場する(*3)。「ほととぎす」は、死出の山を越えてくる鳥、冥途の鳥と伝えられてきた。つまり「死」を象徴させる鳥である。若い頃から日本および西洋の詩歌に耽溺してきた玄にとって、そのことは周知のことだったはずだ。木下闇でほととぎすの声を聞いたという実体験を万葉歌の伝統を踏まえて「死出の田長」から「冥途の主」、「暗き主」と詩語に昇華させたのではないか。

そう考えるならば、なぜ玄が、上五を「下闇の」あるいは「木下闇」とせずに「木の暗」としたのかが理解できるだろう。飯田龍太が言うように「下闇では主〔あるじ〕に輪郭がありすぎてしまう」「暗〔くれ〕と暗〔くら〕きと、その異音の屈折に托した情念に作品のいのちがある」から(*2)とするのが妥当な解釈であるのだろう。そのことに異論はないのだが、ここではさらに一歩踏み込んで、「木の暗」の語を日本の詩歌史のなかに位置づけて考えてみた。


*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 

*2 飯田龍太 「『雁道』の秀句」 『俳句』昭和55年6月号所収 角川書店刊

*3 中西進・校注 『万葉集』 昭和55年 講談社文庫 

なお「木の暗(木の晩)」と「ほととぎす」を含む7首は下記のとおり。巻数のあとの数字は新編国歌大観番号。

○霍公鳥〔ほととぎす〕思はずありき木の暗〔くれ〕のかくなるまでになにか来〔き〕鳴かぬ 大伴家持 巻8-1487

○木の晩〔くれ〕の夕闇なるにほととぎす何処〔いづく〕を家と鳴き渡るらむ  大伴家持 巻10-1948

○多胡〔たこ〕の崎木の暗茂〔くれしげ〕にほととぎす来〔き〕鳴き響〔とよ〕めばはだ恋めやも 大伴家持 巻18-4051

○木の暗になりぬるものをほととぎす何か来〔き〕鳴かぬ君に逢へる時 久米広縄 巻18-4053

○…木の暗の 四月〔うづき〕し立てば 夜隠〔よごも〕りに 鳴く霍公鳥〔ほととぎす〕… 大伴家持 巻19-4166(長歌)

○…木の暗の繁〔しげ〕き谷辺を…鳴く霍公鳥〔ほととぎす〕… 大伴家持 巻19-4192(長歌)

○木の暗の繁〔しげ〕き峰〔を〕の上〔へ〕をほととぎす鳴きて越ゆなり今し来〔く〕らしも 大伴家持 巻20-4305

青玄系作家の句/岡村知昭

爆音に声を獲られて道化めく   林田紀音夫

 「青玄」昭和29年(1954年)2月号掲載、第一句集『風蝕』に収録。

 少し離れたところにいる相手に何か伝えようと呼びかけてみようとするのだが、轟く「爆音」に自分の声が紛れてしまって相手は「はあ?」と疑問のまなざしをむけて来る。ならばとばかりに声を張り上げてみるのだが、何度やっても自分の声は「爆音」にかき消されてしまうばかりでどうしても届かない。これではどうしようもないと今度は身振り手振りで伝えようとするのだが、それでも伝わっているのかいないのかは実に心もとない。だんだんと大きくなる身振り手振りで何とか相手になにごとかを伝えようとする自分の姿は確かにサーカスの道化役のそれかもしれない。道化役を見物客として笑っていた自分が、いまは笑われても仕方ない姿を周りに見せているのがどうにもたまらなく哀しくてならないのだが、その気持ちをこらえて大きな身振り手振りは繰り返されるしかないのである、私のこの思いがなんとか相手に届いてくれないか、との願いをすべての身振り手振りに込めて。

 上掲の1句において自分の声をかき消してしまった「爆音」が、いったいどこからもたらされたものなのかは一切明らかにはされていないが、雑誌掲載時の上掲句の前後を見てみると、

鉄橋の下の古風な薄暮に遇ふ
汽車鳴りて夜は遠国へ行くごとし      

といった句があるところからして、上掲句の「爆音」は線路沿いで目の当たりにした列車の通過音と見るのが適当だろう。さらに見てみると、鉄道の響きをモチーフにしたと作品としては、

機関車の滾りて黒き声発す        (昭和28年6月号、句集未収録)
ことごとく車輛ひびけり金魚沈む     (昭和28年9月号 同上)
重車輛過ぎてあはれに梁軋る       (昭和29年8月号 同上)

といったものがあり、どの句においても列車の響きは自分自身の存在のあり方を強く脅かしかねないものとしてそれぞれの作品に表われてくる。「黒き声」は蒸気機関車の黒い車体と相まって自分に迫り、とどろき渡る通過音に無力であるしかない「金魚」に「梁」にはは自分自身の無力さの表れがはっきりと込められている。

 列車の通過音を表す言葉としては飛行機や自動車のほうが似合っていそうな「爆音」より「轟音」のほうがふさわしく思えるところもあるが、それでも紀音夫は「爆音」を選び、とどろく音に振り回されている自分自身を「道化」と描くことによって、耐えられないほどの自分の卑小さと、その現実を引き受けなければならない現実を笑ってみようとしたのかもしれない。それは自嘲とか自虐とかいった言葉にはどうも収まりきれないものを持っているのだが、どこかで自分を笑う存在に対して自分のいまの「道化」の姿を見せつけようとしているかのようでもある。紀音夫の耳には列車の通過音に工業地帯の重機たちが発する機械音の響きが途切れることなく響き渡っている。そんな「爆音」のまっただなかにあって、卑小極まりない自分自身の像をなんとか立ち上がらせようとする紀音夫、この前年(昭和28年)には同人誌「十七音詩」が創刊、俳人としての歩みは日々の鬱屈の中にあっても着実に進みつつあった。

成田千空の句/深谷義紀

藁打つ音くぐもり轍深みゆく

第一句集「地霊」所収の句である。

「音」にまつわる千空の句は、前回の「色」の句に比べるとその数は少ないが、二つの傾向に大別されるように思う。

一つは、作品の対象そのものとして「音」が採り上げられたもの。

牛飼ひの大声秋の戸口より        「人日」
早苗饗のあいやあいやと津軽唄      「天門」

畜産に携わる男の野太い声、早苗饗で披露される十八番のあいや節。いずれも津軽の郷土色豊かな作品である。

他方、現実世界ではなく、心象風景のなかの「音」を捉えた作品もある。

娶らんとこころに藁戸藁の音       「地霊」
墨磨れば墨の声して十三夜        「白光」

こちらは多様多彩である。

津軽の地で生涯を送った千空であるが、存外(と言ってしまうと語弊はあるが)その作品の幅は広い。とりわけ「墨磨れば」のように繊細な感覚が発揮された作品に心惹かれるものが多い。他の例を挙げれば、

ハンカチをいちまい干して静かな空    「地霊」
冬深し秤が元へ戻る音          「〃 」

などである。「冬深し」の句は、実際には秤の微かな音を耳にしたことで一句が生れたわけであるが、描かれているのは冬の厳しさに向かい合う心である。

さて、掲句である。上記分類の“止揚形”とでもいえようか。この句も、冬の夜、戸内で藁を打つ音を聞いたことが制作の契機になっているが、そこから眼を転じ、戸外の雪道に思いを馳せたことで詩情が生れた。轍の深さは雪の多さや冬の厳しさの象徴であり、更にはその地で生き抜く人々の暮らしぶりが見えてくる。津軽に生きた千空らしい一句だと思う。

堀葦男の句/堺谷真人

機械の中をころげ去るものなにかが嗤い

 『機械』(1980年)所収。

天窓から射す光の中を綿ぼこりが舞う織物工場。耳を聾する自動織機の稼動音にまじり、一瞬、機械の中を異物がころげ去る乾いた音がした。まるで悪意に満ちた何者かの忍び笑いのように。

生産現場の責任者にとって、異音は面倒な事態の始まりを意味する。操業を一旦止めて異状の有無を点検しなければならない。場合によっては、機械を分解して異物を回収し、組み立て直してから再起動させることになる。その間、工場の稼働率は下がり、悪くすると、生産計画、労務管理、そして納期にまで影響が及ぶ。葦男自身は工場の現場責任者ではなかった。が、リスクに敏感な「生産現場の耳」は持っていた。だから、面倒な事態を瞬時に直覚し、そこに機械の悪意を感じたのかもしれない。

 葦男は形象詩としての俳句の可能性を窮めようとし、柔軟にして鋭敏な視覚の働きを見せたが、音や声を詠むことに消極的であったわけではない。第一句集『火づくり』の冒頭近く、新婚生活のスケッチである

戸を繰つて妻朝鵙の声の中

書に朝日大根刻める音きこえ

などの作例に始まり、解離性大動脈瘤に倒れる直前、1993年1月の新年詠

わが撞きし音の中なる初景色  『過客』

に至るまで、生涯にわたって健全な聴覚の働きを示す作品を数多く残している。

 しかし、その一方、『火づくり』後半、「地の章」「火の章」に相当する時期、すなわち、1952年から1962年に至る約10年間の壮年期作品には、どこか病的な音表現、不安神経症的な聴覚の句がしばしば現れるのだ。

機銃音よりひややかに計機自動せり
ぼくという蜜の流出 浴びる電話
音でたたかう局員の胃にどさどさ封書
音が刺さつた脳たちが過ぎ濡れるベトン

機銃音よりも冷酷な自動計算機の音。自己の内面を溶融、流出させる電話のベル。そして、人々の胃や脳に日々過大なストレスを与える騒音や命令・叱責の声。これらの作品には前衛俳句を生み出した時代のアクチュアリティ=前期高度成長期の躍動感と疲労感が、聴覚的表現により色濃く焼き付けられている。

さて、ここで冒頭の句にもどる。

筆者は先ほど「生産現場の耳」と書いた。だが、機械の異音に嗤笑を聞く葦男の聴覚は、すでに単なる産業戦士の職業的聴覚という範疇を超えていよう。機械の声が聞こえる耳。それは山川草木に憑りつく精霊と対話する古来のアニミズムとは一見無関係に見えながら、実は深いところで通底する「反自然的アニミズムの耳」ともいえるのではないだろうか。

上田五千石の句/しなだしん

水透きて河鹿のこゑの筋も見ゆ     五千石

第一句集『田園』所収。昭和42年作。この句の自註(*1)には、

甲州下部温泉に、高野寒甫、鈴木只夫と遊ぶ。下部川の清流に眼を洗い、河鹿の笛に耳を浄めた。

とある。

下部(しもべ)温泉は、甲府の南側、富士山の西側に位置し、下部川の上流域にある温泉で、古くは“信玄の隠し湯“と云われた温泉街である。

去る六月初旬、私もこの下部温泉に脚を向けた。私がこの地を訪れたのは、この下部の近くの一色というところで螢を見るためで、少しであるが、久しぶりに螢を見ることもできた。宿泊したのは、下部温泉の中でも老舗と言われる“湯本ホテル”である。この湯本ホテルは下部川の川沿いにある、築30年という鄙びた宿だ。

客室の窓の下は下部川で、その川瀬の音の大きさにやや戸惑った。それと同時に聞こえるのが、清流にしか棲まないと云われる河鹿蛙の声である。河鹿笛は清らかな瀬音に相応しい美しい声で鳴き、普通声のみが聞こえるだけでその姿を見るのは難しいと云われるが、この日、偶然に姿を見ることもできた。

五千石もこの地で河鹿笛に親しんだのだろう。

ちなみにこの下部温泉は虚子が逗留したことでも知られており、逗留時の作「裸子をひつさげあるくゆの廊下」があり、当地には「裸子」という俳誌もあって俳句が根付いている。

なお、この“湯本ホテル”には、虚子逗留時の記念写真が残っており、宿の主人にその写真の幾つかを見せていただいた。きっと虚子も河鹿を聞いたはずである。

さて、今回のテーマ「音」について、はたと困った。五千石に「音」という文字を使った句はほぼ無く、音を喚起させる句さえ非常に少ないのだ。

渡り鳥みるみるわれの小さくなり     五千石
萬緑や死は一弾を以て足る
水馬水ひつぱつて歩きけり
いちまいの鋸置けば雪がふる
女待つ見知らぬ町に火事を見て
これ以上澄みなば水の傷つかむ
たまねぎのたましいいろにむかれけり

などの五千石の代表作を見ても、音を感じさせる句が無い。それどころか、そこにあるのは深い無音と言ってもいい。

五千石の作句は、“眼前直覚”という言葉からも、自らの研ぎ澄まされた視覚と、そこから得られる情念から産み落とされていたのではないかと思うのである。

そういう意味で、冒頭の「河鹿」の句はとても貴重な「音の一句」である。しかし、実はこの句も、「河鹿笛」を読みながら、その聴覚から”こゑの筋“という視覚への転換がなされていることは見逃せない点である。


*1 『上田五千石句集』自註現代俳句シリーズⅠ期(15)」 俳人協会刊

戦後俳句史を読む(第7回)・・・私性② 吉澤・北村・堀本

吉澤:前回の問題に戻ってみて、一部では《作中主体=作者》という構図から抜け出る動きも目立ちつつある。

23ページのメロン図について       森茂俊
カモメ笑うもっともっと鴎外        小池正博
 ララランリリリンララルラ曲がり切りなさい 兵頭全郎

 これらの句は日常的な意味や経験にも結びつかないし、作中主体が作者ではないのは明らかである。

北村:まあ音で言えば、70年代後半のロック、パンク・ミュージックみたいなものだ。パンクの場合は、以後に最も影響を与えたジョニー・ロットンなどは、髪を緑に染めているのを見込まれてセックス・ピストルズというグループにスカウトされたという伝説があるぐらいで、壮大な技巧主義に陥っていたロック界に対する反逆となっていた。だから音は直線的で非調和だけども、歌詞は(モーレツ否定的な)メッセージに満ちている。

上の吉澤の挙げる川柳は、自己の確立とか、主題主義といったものからの訣別を目指すものであって、文章として意味を結ばない。茂俊の句など、文脈もないから当然作中主体どころではない。川柳ばなれしたクールなデザインがメリットだろうか。

このような句も、変わりたいという志を持つ川柳人の空気に置いて読むと、意味の外で作者の志向が見えてくる。それが推察できれば、全郎の句の「曲がりき」ることを勧めている意味さえ現れてくる。でもそれは深読みで、作品の独立性という点では弱い。明るさが取り柄であることは言うまでもないが。私の古い知己である正博の場合は、この句は鴎のくすぐりでナンセンスをつないでいるが、本来周到な技巧派と見る。パンクのメッセージのようなものも浮いてしまう時代、詠み方も読み方も難しいね。

ところで、このような文脈をたどれない句は、当然俳句にもあったと思うんだけど、どうなんだろうか。「未定」なんかではどうですか。

堀本:意図的に方法として、意味の攪乱を試みているのは、古いところでは、

 島津亮(意味の攪乱句の宝庫)、晩年に到るまで、前衛俳句時代の痕跡を残す。

 ひかる乳房へ棒状の黴もつ目 (『紅葉寺境内』昭26)       島津亮
  皇居・むらさきの陰茎の苔を刺繍する(昭34〜5)   
  いつか来るキャベツ畑にジェノサイド  (平成7〜8遺遺構)

出典   死後家族編集になる「島津亮の世界」より」

 さすがに、亮も晩年はだんだんわかりやすくなっているが、初期の感性を最後まで貫いている。加藤郁乎が、彼らの同人誌に、本来的な意味で前衛のなにふさわしい、といったことがある。

赤尾兜子(仲寒蟬の鑑賞に注意していてほしい。)

 広場に裂けた木 塩のまわりに塩軋み   赤尾兜子 
 髪の毛ほどの掏摸消え赤い蛭かたまる  赤尾兜子

堀葦男(堺谷真人の鑑賞に注意していてほしい)

 ぶつかる黒を押し分け押し来るあらゆる黒  堀葦男『火づくり』

 彼らこそ、前衛俳句の中心になったひとたちで「旗艦」から「靑玄」、「天狼」から「雷光」、「梟」、「夜盗派」「縄」、と言うように転成したり解体したり別れたりして、おもに、同人誌に拠って彼らの句は発表の場を得ている。そういう前衛俳句時代の雰囲気の影響下に攝津幸彦、坪内稔典、大本義幸、らが、「日時計」「黄金海岸」という戦後世代の同人誌をだしはじめ、これもいくつか変転して現在の表現につながってきている。

 それから、重要な戦後作家として、加藤郁乎、阿部完市の二人の存在は忘れられない。

 ふらここでのむあみだぶつはちにんこ 加藤郁乎『形而情学』
 豊旗雲の上にでてよりすろうりい 阿部完市『軽のやまめ』

 郁乎については仁平勝が言葉あそびとしての俳句、完市については川名大が『現代俳句』などの熱心な解説で多少理解できるようになった。次に述べる、攝津幸彦などは、明らかに先代の彼ら前衛俳句から刺激を受けて色々な言葉遊びやシュールリアリズムの試行を重ねている。

坪内稔典、攝津幸彦、大本義幸等の同人誌「日時計」

 「発行所尼崎市南塚口町1−26−27坪内方」。頒価200円。同人には、1971年坪内稔典、攝津幸彦、ほか、澤好摩。矢上新八、鶴田(三宅)博子、糸山由紀子、馬場善樹など。見ていると隔世の感有り。

攝津幸彦「日時計」8号【攝津幸彦作品特集】より

《流体力学上、中、下》
 自殺系空中きりんうるむなり 《流体力学 下》。
 ゆふりらべのむどぼくりのゆふりらべ 《宙毒》
 やむなびびろふぞくけさむばろふぼふ 《宙毒》

  (と、以下17字の文字1行で21行の構成となっている。)

 これらは、ある種の身体感覚をくすぐる、ので、そういうところで読者に意味をつむいでほしかったのかもしれない。要は、この実験意識を是とする青春期の詩と俳句への関わり方が、現在へ導いている。

 お断りしておきたいことは、この例示は、当時の薄っぺらな同人誌「日時計」本誌の引き写しである。後に出される『鳥子』や『全句集』では、旧仮名文語文法に改められており。捨てられた句も多いが、原点という意味で発表当時のまま挙げている。攝津や坪内稔典らはこういう風に初期の実験俳句を通ってきている。この例示した「句」配列に、一貫したルールがあるのか、でたらめなのかどうかは不明。意味がとれそうなところがあるので、あるいは島津亮の句にあるような〈パズル解く檻と縞馬しばしば換え・亮〉、のたぐいの種明かしがあるのかも知れないが、暇な人は考えてみてほしい。ただ、これではとても大向こうの一般的な俳句の観念や俳句史の常識に拘る人たちの共感は得られない。しかしながら、狭い範囲であっても、既成の文学観へのアンチテーゼをもとめるその姿勢を共有したであろう、と推察する。現在だってあり得ることだ。

 「京大俳句」の上野ちづこが《意味からの遁走》という評文で、文化的価値観(パラダイム)が変わってきていることを主張した、そういう二十世紀末の時代思潮を反映している。

 攝津幸彦がとある日の雑談でいっていたことでは、赤尾兜子の「第三イメージ」という考えを、第五第六イメージあたりまで降りていきたかった、そうだ。だから、彼には、意味をまとめようとする志向はあるのだ。ただこの頃の「日時計」など同人誌は、それぞれが自分の方法を模索し自己決定しているのだから、「新しい俳句」と言う場合の幅や方法意識の多様性も、考えに入れておかねばならない。吉澤が挙げた川柳人達の言葉の配列のしかたや構想には、言葉遊び、ライトバースと言う意味で、前衛俳句の作家や戦後世代俳句青年の表現解体のあり方と似ている。川柳の今、と相通じる状況であると思うのだが、如何?

 彼らが、おとなしく結社で勉強していたなら、けっしてこういうかたちでは出てこられなかったはずだ。

 旧来の制度が古くなれば、同人誌などで、現況を撃革新の砦という使命感が強くでてくる。その意味で自由でありポレミークである、と言う無私の爽やかさがある。

 私性という問題への切り込み方は、これも時代に拠って重点が違ってくるのではないだろうか。

 戦後の前半の「前衛俳句」には、私=自我の統合主張を強く感じ、ニューウエーブには自我解体のいわば「私捜し」の迷いを見る。

 現在の川柳の新人達がどういう意味で作る「私」を構想し、そのもとに作品世界に虚構の「私」を入れ込んでいるのか。吉澤さんの分析などですこしづつあきらかになるだろう。

吉澤:上野ちづこの《意味からの遁走》という評文のことは知らなかったが、《意味からの遁走》という言葉で言っていることは何となくわかるような気がする。川柳では「意味」という言葉がそもそもきちんと定義されていないと私は思っている。ある言葉がある意味内容を表すという、シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の日常的な関係の範囲の中で「意味」という言葉が使われているように思う。極端な言い方になるが、前衛とはこの日常的関係を壊すことから始まったのではないか。摂津の「流体力学」の句を見るとそのように思える。よくは知らないが、堀本のあげる攝津の「やむなびびろふぞくけさむばろふぼふ」という句は評価されているのか?

 現代詩でも70年あたり以降のシュールレアリズムは、はっきり言って私にはついていけない。川柳でも表現解体が試行錯誤されているのだが、「やむなびびろふぞくけさむばろふぼふ」という形にはならない。誰も読んでくれないからだ。川柳の試みはさまざまにあるだろうが、とりあえず一つあげると、日常的な意味からの離脱という形がある。

オルガンとすすきになって殴りあう     石部明
びっしりと毛が生えている壷の中
縊死の木か猫かしばらくわからない
桜山らんぷは逆さ吊りがよい        清水かおり
エリジウム踵を削る音がする
果実を食べると海越えてくる蛇

 おそらくこれらの句は、日常的な言葉の意味に着地しない。「オルガン」や「すすき」が何を意味しているのか、「毛が生えている壷」とは何の象徴か、「逆さ吊りがよい」のはなぜか、などと考えても、あまり意味はないのではないか。無理やり解釈しようとすればこじつけられないこともないだろうが、無理やりの解釈では肝心なものがこぼれてしまいそうな気がする。しかし、コトバとコトバのつながり方によってもたらされる、ある感じがある。それを説明するのに、日常的な論理や意味では無理なのだ。堀本が(第6回)で「何かを喩えていたとしても、俳句からというより「詩」としては物足りないと感じることが多い」と言っていて、ほとんどの川柳はその通りなのだが、川柳の一部では、このように「直接的に」何かに結び付けにくい句も書かれている。仮にこれらが喩であるとしたら、狭い意味の喩ではなく、世界そのもののありようの喩とでもいうべきだろう。

堀本:吉澤の「よくは知らないが、堀本のあげる攝津の〈やむなびびろふぞくけさむばろふぼふ〉という句は評価されているのか?」という疑問について。

 このフレーズが「句」なのか、詩の一部なのか、もはやよくわからない。当時の批評も見あたらない。

 ただ、私は、攝津幸彦が、戦後世代の前衛俳人と言われる理由を了解するのは、こういう『鳥子』以前の模索の事例をみるからである。私がであったときには、彼はすでに、『鸚母集』のころで、すでに、形式という観念を受け入れていた。その時期からの彼に前衛性を認めるとしたら「しずかなる壇林」をめざす、俳諧師に足を突っ込んでいる立ち位置であった。しかし、若い日にこのような、チョー現代詩的な逸脱を試みた、ということがやはり、攝津幸彦に、転向と気づかせないハイレベルの転向を可能にさせたのである。それが前世紀末(昭和時代後半に成熟した団塊の世代のー「俳句ニューウエーブ」の存在理由だ。この軌跡と私性がどう絡むか、次の回で意見交換しよう。

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