―テーマ:「肉体」その他―
執筆者:吉澤久良・筑紫磐井・藤田踏青・仲寒蝉・北川美美・飯田冬眞・池田瑠那・深谷義紀・岡村知昭・清水かおり・堺谷真人・土肥あき子・しなだしん・
(戦後俳句史を読む)吉澤久良・北村虻曳・堀本吟・筑紫磐井
時実新子の句/吉澤久良
こぶしにしても女のまるいこぶしかな 時実新子
『月の子』第一章「四時の汽車」(昭和29年~38年)所収。
今回のテーマは「肉体」である。近年大流行の身体論のせいで「身体」という言葉はよく聞くのだが、「肉体」という言葉は、眼にすることが少なくなった。個人的な語感の問題だが、「肉体」という言葉と「身体」という言葉とは、ややニュアンスが違うように思う。「肉体」の方がなまめかしく、ややノスタルジックな響きさえ伴う。「身体」は、身体論で客観的に分析され切り刻まれ冷たいピンセットで扱われている素材という印象があるのに対して、「肉体」には情緒や情感がまとわりついている。
肉体とは、自己のアイデンティティー確認の基盤であるとともに、束縛でもある。感情は肉体に縛られる(ただし、身体論では感情ばかりでなく思想さえも縛られる)。例えば蚊に噛まれて痒いだけでイライラするし、指先を少し切っただけでテンションは下がる。さらに私たちは環境に縛られ、世間の常識に縛られる。
さて、掲出句である。肉体の他の部分ではなく、しかも手のひらや指ではなく、「こぶし」である。手を握り締めて「こぶし」を作るという行為は、きわめて感情的な行為である。この句は、啄木の「じっと手を見る」というフレーズの延長上にあるのだろう。作中主体が自分のこぶしに向かって視線を落としているのは間違いない。手をかざしたりはしていない。視線が落ちるとは、内向の姿勢である。感情を反芻しているのだ。じっと見つめる肉体の一部分とは、手が最もふさわしい。鏡を使えば別だが、手とは唯一の可視的な自分自身である。だから、手を見るとは、自分自身との対話である。女であることについての葛藤、愛憎、反発、怒り、忍耐、諦め…。「こぶしにしても」という字あまりに、リズムの乱れがあり、整理しきれぬ感情の複雑さが読み取れる。女であったことがよかったか悪かったか、そんなに簡単に答えが出るはずの問題ではないが、掲出句では自分が女であることをつくづく感じているのは間違いない。「まるいこぶし」と、ひらがな書きであるのは当然だろう。
「こびしかな」の「かな」は適当であったか、やや疑問である。しかし、作者としては書きたかったのだろうなと想像する。「こぶしである」とか、「こぶしなり」とかいうように、川柳では断言調が好まれるが、そのように冷静に見据えるほど、自分が女であることについての感情が整理されていなかったのだろう。あるいは感慨に流れたのかもしれない。この連載では〈仮構された作中主体〉という視点で、言い換えると〈作中主体¬=作者〉という図式が成り立たない句を選ぶという基準で、時実新子の句を選んできたが、今回の掲出句では作者と作中主体はほとんど重なっている。「肉体」というテーマが体温を含んだコトバであったからだろう。
楠本憲吉の句/筑紫磐井
散る柳スリムK氏の背に肩に
昭和54年、『方壺集』より。
肉体といった場合に、楠本憲吉の全身をどのように表現するかは難しい。「我」では、精神的な意味が強いであろう。ところが、憲吉は不思議な表現を発見する。掲出の「K氏」である。もとより楠本憲吉氏の略称であるから、それ以上の情報が付加されているわけではないだろうが、彼の作品の中では「K氏」は妙に痩身の自己の肉体を際立たせているようなのである。
K氏が帰る愛と死をその双翼に
不惑K氏に夕陽全円熟れて落つ
蟻が蟻の屍運ぶ参道 K氏が去る
秋嶺見ゆ白面K氏の肩越しに
蟇とK氏の隠微な散歩で夏逝く森
中共見ゆ脚長K氏の双脚越し
眼(まなこ)窪ませてK氏の避暑期去る
金星泛べK氏山荘は四月尽
冬灯ちりばめK氏遺愛のボールペン
こんなたぐいなのである。確かに、「我」というよりは、小説の中の主人公のように客観化された存在が浮かび上がる。「A少年」「少女B」なら一層現代的だろうが、それだけ人の特定は難しい。「K氏」は目をつぶれば確かにそのシルエットが浮かび上がりそうな人物である、特に「K氏」の表記は軽薄な感じが楠本憲吉以上にふさわしい。ちなみにショートショートの神様星新一は、大半の主人公を「エヌ氏」にしている。中性的な感じがよい、「N氏」ではダメだというのである。ということで、昔の小説であれば、『阿Q正伝』の「阿Q」に相当するものといっておこう。
「柳散る」は秋の季語。芭蕉に、「庭掃いて出るや寺に散る柳」があるが、あまり上々の句とも言えない。もともと、連歌では「一葉散る」といい桐の葉と柳の葉を広・細一対にして初秋の風情としたが、前者には「桐一葉日当たりながら落ちにけり(虚子)」の極め付けの名句があるのに対して、後者にはない。案外この句など、芭蕉に匹敵する句と言ってもよいかもしれない。
*
なお参考までに。「我」に独特の表記をしている歌人に前田透がいる。
中国に行かぬ太郎が歩みおり今日乾き明日も乾かん舗道
企業使用人太郎が出口に佇ちおれば平俗米人笑みつつぞ来る
硝子かがやく資本の城に日が照りて太郎の負える責もむなしき
<我、汝に何を為せばぞ>斯く三次(たび)打たるることを太郎は許す
前田透の場合「太郎」が我である。膨大な全歌集を読み通すと、我の中に(歌人は、俳人に比べてはるかに我について語ることが多いのだ)時折、「太郎」が登場する。企業や資本主義の中での疎外された自己を歌うとき突然「太郎」が現れるようなのだ。
近木圭之介の句/藤田踏青
月の美しいからだを売る
「身体」とは頭から足に至る単なる総称であり、「肉体」とはその生きている身体を指す。しかし、掲句の「からだ」は明らかに生きているそれを意味しており、ひらがな表現によってしなやかな女性の肢体と「生」と「性」をも示唆している。掲句は昭和25年の作であり、下関か門司の港町の街娼への眼差しであろうか。「月の」で、その静もった光の中に照り映える女体を浮び上らせ、その静もりは哀しい性をも合わせて導き出している。
からだ売る青い石ゆびに 昭和28年
前句と同じような状況の句であるが、「青い石」はその虚飾として体を売る行為への僅かな抵抗感なのであろうか。「虚飾 指の」(昭和63年作)という圭之介の句もあった。
両句共に二句一章の構成の中で、下句が上句へと還流してゆく様は、売春という日々の生活の不毛をも重ねて見る事が出来る。因みに売春防止法は昭和31年に施行され、昭和33年3月までに所謂、赤線の灯は完全に消えた。赤線の語源は、戦前から警察では、遊郭などの風俗営業が認められる地域を、地図に赤線で囲んで表示した事によるが、その言葉も今では死語になりつつある。
「桃」
かのおんなの魂は
昇天してしまった
あとに残っているものは
脂粉の香を放つ
肉体のみである
桃の木の下に桃が
一個おちている
この詩は「近木圭之介詩抄」所収の昭和26年の作であり、上掲二句の間に発表されているが、その対象が街娼とは限らない。この肉体は死に包まれているが、「桃」という存在に香りとやわ肌、そして崩れやすい女性に対する静かな眼差しが感じられる。精神と肉体という対立形質にたてば、この肉体はモノローグとして「桃」に表象されているのであろう。
影も手がはたらいている 昭和49年
肉体を直接的では無く、影を通して間接的にその動きを表現している。それによって心象風景が拡がり、深められる効果があるようだ。「手」という一部分から体全体の動きへと、そしてそれから類推される生活そのものまでにまで思いが至るようである。更に「影も」という措辞により、忙しく働いている生き生きとした様が想像される。言葉の暗示性としての「影」は、言葉が持っている意味以上のある一つのものを表現しようとして暗示的な作用を作品の構造に及ぼしているのではないか。
影 完璧に歩はば 平成18年
この年、圭之介は94歳を迎えており、その影に肉体の衰え「老い」をはっきりと認める事が出来る。更にその十音の短律は、老人の影の小ささ、歩幅の短さを自嘲的に示してもいる。また、この様な「影」を通した間接的な表現方法の句は「層雲」の自由律俳句によくみられる。
つくづく淋しい我が影よ動かして見る 尾崎放哉
影もそまつな食事をしている 住宅顕信
顕信は特に放哉の句に心酔していた事もあり、各々の病の上に生まれて来た境涯句としての淋しさにも共通項が認められる。その身体的、経済的、社会的弱者としての否定性は私小説的な意味合いを持ち、石田波郷の「俳句は私小説である」にも相通じるものがある。
インフルエンザ。鼻の中に不安な地形がある 昭和51年
耳の形が夕日の形が 悪魔を吐く 平成3年
風が止んだままの形で背骨にいた 平成4年
「鼻」や「耳」や[背骨]といった身体の一部をもって心象を俳句化することはよくみられる傾向である。しかし、境涯句のように身体を己自身の存在感に引き寄せるのではなく、掲句のようにそれ等を硝子の向こうの世界において、二重構造のように眺めることによって作品のベクトルの拡がりを求めるのも新しい傾向であろう。
赤尾兜子の句/仲寒蝉
ふくれて強き白熱の舌吸う巨人工場 『虚像』
先に書いたように『虚像』の収録句数は168句と5つの句集の中で最も少ない。『玄玄』の747句は本人の選を経ていないので仕方ないとしても『歳華集』の500句はかなり多く、『稚年記』291句、『蛇』283句はわれわれが普通に目にする句集の規模であろう。それらに比して『虚像』は極端に少ない。
収録された俳句の作句年は若い順に『稚年記』昭和19~20年(2年)、『蛇』昭和19~34年(6年)、『虚像』昭和34~40年(7年)、『歳華集』昭和40~49年(10年)、『玄玄』昭和49~56年(8年)であるから『虚像』にも300句近くが収録されていてもおかしくはなかった筈である。なぜ『虚像』の句数が少ないのか、本当のところは分らない。兜子の作句数がこの頃少なかったのか、それとも句集に入れる際の選句が厳しかったのか。どちらもあり得ることのように思う。
前者については定型を外れた句は却って作り難いということではないかと思っている。以前『虚像』の頃の俳句が最も定型から外れ、字数も極端に長いものが見られることを指摘した。実際『虚像』のような作り方をしていてはとても多作多捨とはいかないだろうなと忖度する。字数の制限なく自由に作っていいなら幾らでもできると思うのは俳句を作ったことのない人であろう。後者についてはこの頃の兜子が前衛俳句の担い手として世間から注目されていたことと無関係ではあるまい。つまりは意に染まぬ俳句は発表できない立場だったのだろう。
「肉体」の句という題を見たとき、真っ先に浮かんだのは『稚年記』の
外套に口紅(ルージュ)埋めて枯木中
わが虚言愛し恋人の眸ぞ冰る
といった恋愛詠や、『蛇』のその名も「愛」という章の
腕へ顔うずめつくしてきらめく露
乳房へ露 露 触れぬちさきおののき
雪嶺のひかり恋しく唇を吸う
などといった男女の関係を詠んだ句であった。それはそれで兜子の青春時代の一齣として興味深いのだが、彼の俳句の中に置いてみるとメジャーとは言えない。前衛俳句の旗手として鳴らしていた兜子であってみれば掲出句の方が取り上げ甲斐があると思ったのである。尤も肉体を思わせる「舌吸う」という表現以外は兜子らしい極めて無機質な印象の句ではあるが。
さて、それでは掲出句の鑑賞に入ろう。「ふくれて強き白熱の舌」とは何であろうか。イメージとしてはかなり具体的な像を結びやすい。白熱し膨張した何かが舌のように見える、しかも舌のようではあってもそれは強い、つまり硬いか或いは柔らかくとも壊れ難いかなのであろう。「巨人工場」とあるのは恐らくとてつもなく巨大な工場のことと思われる。ここからは推測になるが、この「舌」は赤く灼けて流れてくる鉄鋼の板ではないか。神戸には神戸製鋼の本社があり明治時代から創業していたが、昭和34年1月には脇浜・岩屋の工場を統合して神戸製鉄所(灘浜地区)を新設したらしい。この頃の鉄鋼業界は日本の高度成長を支えた大きな柱の一つと言える。神戸製鋼の資本金も右肩上がりで行け行けどんどんの時代だった。兜子は毎日新聞の記者であったから、何かの機会にその工場を見て最新の設備の大きさと迫力に圧倒されたのではないか。
一読すれば荒唐無稽なおとぎ話とも取れる詠み振りだが種を明かせば上記のようなことではなかったかと考えている。読者のご批判を伺いたい。
三橋敏雄の句/北川美美
晩春の肉は舌よりはじまるか
「肉体」というテーマに官能的と思える句を選んだ。掲句、大正男の肉欲を想像させる。戦争の前線にいた男のセックスに違いがあるのだろうか。肉欲は率直である。けれど「はじまるか」である。舌という部位から身体の肉がはじまるのでしょうか、という率直な意味はもちろん、情事がはじまる予感をせしめるのである。現代の草食系男子というのは男の正道でない子供ということになり(よって男子なのだろう)、迷わず肉欲の男が男なのである(迷うことなく肉を選んだ@『男の滑走路』作詞・横山剣)。では、「晩春」とは何なのか、単なる季語としての背景ではあるまい。人生の季節で「晩春」を迎える男のエロス、同時にタナトスの到来を予感する寂寞の感が背景にある。「春」という語が俗であり雅であることを改めて想う。読み手側の心拍数の上がる句ということに違いはない。
敏雄の官能句と思わせる句には、したたかにエロティックなものと、母者ものといわれるものがあるが、前者は男性視点で語られることが多く、後者は女性からの支持が多いようだ。実際、加藤郁乎は掲句を『眞神』のなかの最高作としていた(*1)。女は「する」ことにより、男は「みる」ことにより官能が刺激されるという説(*2)が関係しているのだろうか。
時代背景としての話になるが、敏雄より10年若い吉岡康弘の『吉岡康弘写真集』(*3)は予想以上に強烈だ。人体、女性性器が肉のオブジェとして石ころ同様に映っている。篠山紀信氏が公然わいせつで家宅捜索を受けたレベルの露出度ではない。愛は肉からはじまる場合がある、いや、はじまるのである。「見ること、それは眼を閉じること」は、ヴォルスの言葉である。戦後1960年代、世界的に前衛(avant-garde)といわれる芸術活動が盛んだった。
掲句が収録されている『眞神』に下記の肉体に関連する句もある。
肉附の匂ひ知らるな春の母
「春の母」とは何者なのか。単なる季節ではない『眞神』の時空とでもいえるものが春、青春の母。母の肉附の中に隠れている自分、水子かも一寸法師かもしれない自分を母は知らない。「春」という言葉により淫靡さを思いがちであるが、それ以前に自己のルーツと思える句であり『眞神』のキーとなる句と思える。二句とも昭和46年の作である(「肉附」の句が100句目、「肉は舌より」の句が102句目である)。
體溫を保てるわれら今日の月 『疊の上』
人閒も他の生物ぞ泣き泥鰌 『長濤』
肉體に依つて我在り天の川 『しだらでん』
敏雄は肉体を聖なるエロス、霊、たましいの宿る物体として捕えている。前述の吉岡康弘の女性性器も同じく聖なる物体なのである。遡れば、アルチュール・ランボーの『太陽と肉体』を見ても肉体を突き放しているところに詩として共通点を感じる。更に遡って聖書における肉(ヘブライ語:バーサール)は「霊」と対比された人間の物質的な部分、全存在を意味している。敏雄句そのものになるが、「肉体に依って我あり」のとおり人間の聖なる原点が肉体そのものだ。詩歌をつくるものに敏雄句の肉体に潜むようなエロスの神は、そう簡単に降りて来てはくれないだろう(*4)。
そして掲句、またも、係助詞「は」の使用句である。
*1)『俳句季刊』昭和49年1月号/書評集『旗の台管見』(コーベブックス刊)収録
*2) 『オール・アバウト・セックス』鹿島茂/文藝春秋2002年
*3) 吉岡康弘(写真家1935-2002年)1961年、読売アンデパンダン展に出品した写真作品が「ワイセツ」との理由で開催4日目にして撤去された。吉岡康弘はそれに抗議するかたちで、撤去された作品を主に写真集『吉岡康弘作品集』を自費出版した(1962年)。寄稿者に中原祐介、滝口修造、黛俊郎、安部公房、勅使河原宏、石元泰博が名を連ねる。
*4) とはいえ、「女は無意識にエロスの句をつくる」と三橋敏雄がよく言っていたようだ(故・山本紫黄談)。やはり女は「する」こと、あるいは出産という生殖の神秘が無意識に言葉に働くのだろうか。
齋藤玄の句/飯田冬眞
青葦原ふたつの目玉なにもせず
昭和52年作。第5句集『雁道』(*1)所収。
句集では、「風土」の項で取り上げた〈いつの日の山とも知れず夏大空〉の次に配列されている。この句は、〈知れず〉という受動的なことばを用いながら過去と現在という記憶の揺らぎを〈夏大空〉によってとらえた秀句であった。
この年の三月、六十三歳の玄は前立腺手術のために北海道の砂川市立病院で一ヶ月余りの入院生活を送る。掲句は退院後の作であると思われる。自註を見るとこうある。
見渡す限りの青葦原。それを見ている二つの目玉。青葦原を見る他は何もしない目玉。しまいには青葦原も見なくなった目玉。(*2)
上五〈青葦原〉と中七以下のフレーズとの間に、ある行為とそれに伴う時間の経過が省略されている。軽く切れながら繋がっていく句の構造は、晩年の玄の作風でもある。〈青葦原〉という大きな景色と〈ふたつの目玉なにもせず〉という微細な描写を並べたことで、シュルレアリスムの絵画を見た時のような不思議な印象を与える。それは、肉体からふわふわと〈ふたつの目玉〉が抜け出して、空間に静止した状態で〈青葦原〉を見下ろしているイメージとでもいおうか。やがてその目玉は〈なにもせず〉に宙に浮いたまま消えてゆき、〈青葦原〉だけが風に揺れている。前句の〈いつの日の山とも知れず夏大空〉
では、山を見ていた作者が〈夏大空〉の視点にすり替わって、記憶の中の山や眼前の山、そして死後の山を見下ろしていたが、それとは異なる趣を持つ。目玉のあったもとの場所には、暗い穴がぽっかりとあいている。もはやそこには魂すら宿っていない。下五〈なにもせず〉が虚脱した作者の心理状態を暗示させる。青葦原の実景は作中主体の眼前にありありと映っている。しかし心はすでに肉体から遊離して、うつろである。そうした無音で無色の精神世界が描かれているともいえるだろう。なまなましい〈ふたつの目玉〉が肉体性を象徴しているとするならば、それが「見る」という機能を果たさなくなったとき、心もまた、なにもしないということになるのだろう。死者の視点といってもよい。
こうした機能不全に陥った肉体を詠むことは何を意味するのだろうか。肉体の意の「肉」あるいは「肉〔しし〕」という語を読み込んだ句をいくつかあげてみよう。
しんしんと肉の老いゆく稲光 昭和47年作
痛まねば肉〔しし〕といふもの春惜む 昭和49年作
流燈を送るは肉〔しし〕を櫓〔やぐら〕とし 昭和50年作
最初の句では、稲を豊かに実らせると信じられてきた光、つまり稲妻と深く静かに老いに蝕まれてゆく作者の肉体との対比が視覚的に把握されている。ここでの肉体は稲光という自然によって照らし出されたことで、回避することのできない「老い」を自覚したという生きるものの哀しみが描かれている。二句目では、病による痛みがなければ肉体を意識することができなかったという作者の述懐を〈春惜む〉という詠嘆的な季語に重ね合わせている。痛覚と季節の移ろいを対比させた点はユニークだが、情感が勝ちすぎて、詩としての純度が高いとは言えない。三句目には、流れ去る燈籠をたたずんで見送ることで、生の実感を味わっている作者がいる。肉体とは死者の魂を見つめ続けるだけの櫓のようなものという認識は、痛切。
睡りては人をはなるる露の中 昭和53年作
病中の作という背景を知らずとも〈人をはなるる〉の一語から強い詩情を受け止めることができる。生の悲しみに溺れることなく実景をとらえる目のたしかさがある。肉体から目や魂が遊離して実景だけが存在するというモチーフは、掲句やこの句のほかにも繰り返し詠まれている。滅び行く肉体を凝視することで至りついた静寂さをたたえた智慧の光をこれらの句から感じる。
*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載
*2 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊
永田耕衣の句/池田瑠那
薄氷と遊んで居れば肉体なる
薄氷と遊ぶ。
まずリアリズムの文脈で読めば、料峭の頃、溜まり水に薄っすら張った氷に触れ、ひいやりとした感触や、指に触れる先から解けて水になってゆく様を楽しむ。そうしているうち、熱や質量を持つものとして、自分の肉体を強く意識する。ひいてはそこから、「自分」とは肉体そのものだと観ずる、ということになろうか。精神体だけの「自分」など在り得ず、誰しも肉体なしに世にとどまれないのだが、人はしばしばそのことを忘れて暮らしている。薄氷という、最も儚いものに触れて、「自分」が「この肉体である」こと、その逃れ難い不可思議を思う。
そうした薄氷と遊ぶ耕衣翁の姿にも実感があるが、リアリズムを超えた文脈で読み返すと、また違った趣が出て来る。薄氷とは、「夢の世」である現世の、万象の喩であり、生きて現世にあることは、仮初の肉体を持って薄氷と遊んでいるようなものだ、という風な。薄氷と遊べば、薄氷は忽ち水になる。そのあえかな美しさをあわれと見る自分(=自分の肉体)も、7割ばかりは水から成っている訳で、本質的には薄氷と大差ないもの。無論、儚さから言っても――、この世ならぬ遥かなところから眺めれば、薄氷と殆ど変わらぬものであろう。
「肉体」の一語が一句の中で、薄氷と対置される、ある重みを持つ物のようにも思われ、また薄氷と同じくこの上なく儚いもののようにも思われる。重層的な味わいを持ちつつ一句の印象が軽やかなのは、中七「遊んで居れば」の伸びやかさ、とらわれのなさによるものだろう。早春の日射しを反す薄氷の輝きも、この肉体の生も、仮初のものだからこそしかと楽しんでやろうという静かな意気込みも感じられる。こういう「遊び」上手の人は長生きしそうだなあ、と思う。97年の長命を全うした耕衣、80歳前後の作。(昭和56年刊『殺祖』より)
成田千空の句/深谷義紀
虫送る生身の潤び女たち
第四句集「白光」所収。
松明の灯の連なりが揺れ、晩夏の夜の湿った空気が肌にまつわる。農村行事、虫送りの光景である。神事の色彩もあるため、実際にはこの行事に恐らく女性は参加していなかったのであろうが、千空はそこから女性たちの「肉体=生身の潤び(ほとび)」の確かな存在を感じ取ったのである。
千空には、ある種の野趣を感じさせる作品がある。例えば、
快晴や土筆ちんぽこいちめんに 「忘年」
雄の馬のかぐろき股間わらび萌ゆ 「白光」
などである。これらの作品を読んで、初めに想起したのは金子兜太の、
曼珠沙華どれも腹出し秩父の子
であった。この二人は創作活動においてほとんど交わることがなかった筈だが、それぞれがお互いを語るとき、お互いが抱く親近感が伝わってくる。それは二人が同年代であることに加え、こうした野趣を二人が根底に有していたことが影響していたからだと思えてならない。
掲句にも、そうした野趣が認められる。そして、この野趣は「原郷としての津軽」を意識してこそ生まれてくるものである。横澤放川は、掲句について「濃厚な風土体質」を指摘し、千空の作品は「その風土が時代における人間性の普遍に達している」と言う(角川書店「俳句・成田千空の生涯と仕事」より)が、同感である。
さらにもう一人、この句から連想するのは同郷の画家棟方志功である。志功の絵に描かれた女たちはいずれも生命力に溢れている。しかもその生命力は時空を越え、永遠性を感じさせるものである。譬えて言えば「縄文の生命力」だ。津軽は縄文の地であり、掲句の「火と女たち」から縄文の匂いが色濃く漂ってくるのである。
青玄系作家の句/岡村知昭
航空機胃の上を過ぎる
戦後の俳句における「肉体」の一句というテーマを考えていくと、ふたつの身体のありようが浮かび上がってくる。ひとつは結核療養者に代表される「病める身体」、このモチーフの作品として当時から反響の大きかったのが石田波郷の『惜命』である。もうひとつは労働をモチーフにした「働く身体」、こちらのほうは「社会性俳句」との絡みもあってモチーフとしての存在感を増してゆくことになる。どちらもそれまでに書かれなかった訳ではないのだが、これまでとモチーフの扱い方において大きく異なる点と考えられるのは、どちらの身体も個人的であると同時に、これまで以上に社会的な存在感を持つようになってきたところではないだろうか。もちろんいま挙げたような簡単な割り切りでは漏れる部分も多いはずなので、これからもさらに考えを深めていけるようにしたいと思っている。今回はひとまず「病める身体」の側面を見ていくことにしたいが、そうなると一番に登場するのは当然のことながら病床から「青玄」を引っ張り続けている日野草城その人である。
掲出句は昭和25年(1950)7月号初出、句集「人生の午後」に収録。句集の章扉にはこの年の病状について「一月、発熱を押へてストレプトマイシン5グラム注射、効果顕著。」「病状は前年より安定し、作つた俳句の数も多かった」と記されている。
病める身体に鞭打つかのようにようやくの食事を済ませて、疲れ切って横たわっているというところであろうか。病める身体への意識は食事を済ませてより鋭くなっているのか、胃の中では先ほど口から入れたばかりの食べ物をどうにか消化しようとするうごめきが感じられてやまない。自分の家の上空を通り過ぎる飛行機がとどろかせる爆音の大きさもまた自分の体に強く響き渡り、病める体にさらなる疲れをもたらしていくのである。
一句を支えているのは「航空機」と「胃の上」の位置関係の把握の仕方である。病床の自分と上空の航空機との間にある屋根瓦、天井といったものは一切省かれており、さらには自分自身の身体そのものではなく「胃」に焦点を絞ることによって、病める自分自身の身体を揺さぶってやまない「航空機」の存在をより高め、一句から浮かび上がってくる像を鮮やかなものとしている。このあたりの構成のうまさはさすが草城と言うところで、無季俳句の作り手としての力量は、この一句からも十分に伝わってくるのである。
ここで気をつけて見ておきたいのが「航空機」の存在だ。空から自分の身体に押し寄せてくる音のとどろきや物象から来る威圧的な存在感といったものを、どうして一句に的確に把握できたのかを考えるとき、草城の自宅「日光草舎」が大阪空港からそれほど離れてはいない大阪府池田市にあることも影響しているだろう。戦前から軍用空港として使われていた大阪空港は、敗戦後は連合軍に接収され「伊丹エアベース」と呼ばれていたという(大阪空港が「伊丹空港」とも呼ばれるのはその時の名残と言われる)。昭和25年の6月には朝鮮戦争がはじまり、空港と朝鮮半島を行き来する軍用機の数は日々増していったであろうことは想像に難くない。掲出句が作られた時期はおそらく朝鮮戦争のはじまる前なのだろうが、ただ「病める身体」を自宅に横たえることしか出来ない草城は、毎日絶えずのしかかって来る軍用機の爆音を自分の身体で受け止めながら、ようやく訪れたと思われた静かな時間が、再びも戦争の危機にさらされてしまっているのを「病める身体」の視点ゆえに微細に感じ取っていたのかもしれない。
先ほど引用した句集「人生の午後」の章扉には次のような記述もある。「三月、温子豊中桜塚高校卒業、進学の志を捨てて母校事務室へ就職」。自らの「病める身体」がもたらしてしまった家族の苦難の一端を草城は記す。このとき草城の身体には病魔だけではなく家族の生活の苦難が、さらには再びの戦乱への恐れもがのしかかっていたのだろうが、「病める身体」は全身でそれらを受け止めながら自らの求める「戦後俳句」と向かい合うのである。
戦後川柳/清水かおり
これは父かリンゴに浅く歯型を残し 岩村 憲治(1938年~2001年・京都)
岩村憲治に「戦後川柳」という呼び方はしっくりこない。存命であれば、おそらく現代の川柳界を牽引していたであろうと思われる年齢だからだ。若すぎる死であった。戦後川柳という大きなテーマの「戦後」は半世紀以上もあるので、戦後に出版された句集と考えて、あまり生年や時系列にこだわらずに作品を選出している。そのせいか時代と照応させていくということとは少し離れた鑑賞になってくる。
川柳の手法で肉体を比喩として使うことは一般的だ。俳句が自然界や静物に主体の意識を重ねるように、川柳は身体を通して主体の想いを表現した作品が多い。肉体に肉体以上の意味を持たせたいと考える傾向があるようだ。ここでの掲出句には具体的な肉体は書かれていない。しかし「これは父か」と書いた瞬間に父という肉体の持ち主が出現してくる。この父は実際の父ではなく、主体自身の父性を指していると思われる。リンゴに象徴される個としての人生、そこに残す歯型は力なく薄いものだという現実感に満ちた作品と読めた。「歯型」の抵抗が作品に内圧を感じさせている。
鏡のなかに育つ樹がない眼をあらう
鏡に映る将来の希望がないという。あるのは今現在の生命を見つめる自分の眼だけだ。その眼を洗うという行為は極限の渇望を感じさせるものがあり、せつない。
これら二句はテーマに沿って抽出したこともあって、私性の強い一面が押し出された。私達は、憲治の若き日の社会性川柳や、その抒情作品にみられる、やわらかく鋭い精神性が、病苦の重圧を受けながら更に上昇していく姿を『岩村憲治川柳集』に見ることができる。
堀葦男の句/堺谷真人
これやこの痩脛皺腹初風呂に
『過客』(1996年)所収。葦男にとって今生最後の新年となる1993年正月の作。
初風呂につかる。なみなみと溢れる湯の中で四肢をくつろげ、顔をさすっていると、気分は極楽、生まれ変わったようだ。が、湯を透かしてつくづく我が身を眺めると、やはり年齢相応の衰えは蔽うべくもない。なるほどそうか、これが世にいう痩せ脛と皺腹そのものなのだ。
葦男は同世代の中では長身であった。晩年、少し猫背になってからでも、筆者の目測で170センチは優に超えていた。学生時代、陸上競技で鍛え上げた肉体には相当の自信があったらしく、徴兵検査も甲種合格確実と観念していたという。しかし、1941年7月の検査結果は第三乙種合格。同時に胸部疾患の疑いを申し渡され、1年間を日本赤十字兵庫療養院で過ごすこととなった。25歳の時である。戦中戦後期はしばし小康を得るも、1949年6月に突然再発し、絶対安静2ヶ月、自宅療養1ヶ年を余儀なくされる。
黒揚羽声もがれたるわれに飛ぶ 『火づくり』
蒲団饐(す)うるにほひ生きんとするにほひ 同
酷暑去る十指の爪に溝鐫(え)りつけ 同
近現代俳句には「闘病の文芸」という一面がある。自己の肉体の変化や病状を客体視して叙述する子規の筆法をどこかで意識したのか、『火づくり』「水の章」の連作「鏡中の夏」には2度目の療養生活を淡々と叙する作品が目立つ。ただ、子規の肺患が重篤化し、やがて肉体崩壊の惨状を呈したのに対し、葦男の肉体は古傷を内に包み込んでゆっくりと生育する樹木の如く、二豎を制御することに成功した。年譜を見る限り、壮年期以降は大病に見舞われることなく年を重ねてゆく。
さて、ここで冒頭の初風呂の句である。
浴槽の中で痩せ脛と皺腹に対面する葦男は自己の肉体の衰えを嘆いているだけなのであろうか。筆者はそうではないと思う。加齢に伴う肉体の変化を興味深く観察し、あたかも一幅の俳画のような軽みをもってさらりと言い止める。そこには老いへの好奇心こそあれ、重くれた悲傷は見られない。
更に付け加えるならば、歌舞伎をこよなく愛し、酔って興至れば名場面の身振り・声色を披露した葦男にとって、例えば皺腹とは単なる老醜の即物的表象ではなかった。むしろ老年の侠気と気概とを(多少コミカルに)示す道具立てであった。
今になつて川越が娘と言ふて得心あらふか、
卑怯至極と思し召す御心根も面目なし、皺腹一つが御土産。
『義経千本桜』「堀川御所の段」。九郎判官に詰め寄り切腹しようとする川越三郎の科白である。ことによると葦男は湯気の中で音吐朗々と川越の声色を使いつつ、皺腹を撫してすこぶる上機嫌だったのかもしれない。
それにしても、「これやこの」という大時代な上五といい、「初風呂」というめでたい季語といい、この句には様式美を踏まえた遊びがふんだんに織り込まれている。自己の肉体を一個の形象として凝視する「リアリズムの目」を失わず、なおかつ状況を演劇的に俯瞰する「桟敷の目」も働いている。千両役者・葦男の面目躍如というところであろう。
稲垣きくのの句/土肥あき子
春暁の手を伸ばしてに触るるもの 「春蘭」昭和14年6月号所載
大場白水郎主宰「春蘭」に掲載された掲句は、きくのが投句を始めて3年ほどの作品である。
春暁が招く明かりに、漂わせた手に触れるものはなんだったのだろうか。
きくのの俳句のなかで、もっとも印象的に登場する肉体は「手」である。女優を辞めたのち、茶道教授をしていたこともあり、ひときわ仕草の美しさを意識していたのかもしれない。茶道の無駄のない流れるような所作は、すべて美しい手の表情によってより際立つ。
春愁やはたらかぬ手の指ほそく 『榧の実』所収
随筆集『古日傘』のなかで「手」という文章が残されている。銀座の「Y」という額縁屋で、あるとき画帳を出され、手型を押してくれ、と頼まれたという。「(中略)見ると、もうたくさん押されてあって、画家、作家、俳優、音楽家といったような芸術家が多く、墨で押された手型にも濃いのうすいの、べとべとなのといろいろあり、傍らにそれぞれサインとわた手によせる文字がつづられている。『おお、いとしのが手よ』とかいてあるのは、如何にも指の長いソプラノ歌手であった。『お前はおれの最も親しいやつだ。おれの悪事をお前はみんな知っている』これは漫画家である。」と印象に残ったものを挙げているが、はたして自分はといえば「かいた文句は忘れてしまった」とつれない。つい最近、別の作家のエッセイを読んでいて、この「Y」という額縁屋が銀座8丁目にあった「八咫家」であることがわかった。現在は大田区千鳥に移転したそうで、早速画帳が今もあるか、あればぜひ見せてほしい旨をたずねてみたのだが、先代は亡くなり、電話口に出られた方は「話しは聞いた記憶はあるが、見たことはない」という返事だった。きくのは画帳にどの句を記したのだろう。手にまつわる句であったのだろうか。はたまた手型はべったり派か、薄墨派だったのか。まぼろしの画帳を今しばらく追ってみようかと思う。
春昼や男手を待つ壜の蓋 「春燈」昭和49年5月号所載
きくのに詠まれると男手も単なる労力ではなく、力ある色香を感じさせる。句集『冬濤』では、切なくも愛おしいくつもの手が登場する。
暖かやさしのべられし手に縋り
滝の音によろけて掴む男の手
春の夜の触れてさだかにをとこの手
触れし手のぬくもりのわがものならず
そして、中年以降の女であれば誰でも知っていることだが、年齢がもっとも如実に刻まれるのは顔でも髪でもなく、手である。60歳を目前としたきくのがことのほか情けなく思ったのは、老いの表情を見せるようになった我が手であった。
手袋の手の老いを愧づ人しれず 『冬濤』所収
上田五千石の句/しなだしん
どの石も蜥蜴の腹をあたためず 五千石
第一句集『田園』所収。
前回の「音」でも書いたが、五千石の作句は研ぎ澄まされた視覚が中心であり、今回のテーマ「肉体」「身体」についても、己の身体を詠った句、他人の肉体を詠った句、またそれを連想する言葉が使われた句は見出すことができなかった。
*
掲出句。強いて言えば、蜥蜴の「身体」を詠んだ句である。
だがこの句の面白いところは、蜥蜴の腹のことを自分の身体の感覚のように詠んでいるところだ。まるで己の腹で石ひとつひとつの温度を確かめたような断定のしかたである。
五千石の作句信条といえば「眼前直覚」だが、五千石はしばしばその眼前を飛び越え、対象物と同化して作品を成すことがあるように思う。
たとえば、
渡り鳥みるみるわれの小さくなり 五千石
は、その例として分かりやすいかもしれない。
この「蜥蜴」の句も、対象物である蜥蜴の「身体」と同化して、蜥蜴の感覚が五千石の「身体」を通じて言葉に成った作品ではないかと思うのだ。
*
第一句集『田園』は、章題とは別に、概ね二句ごとにタイトルが付けられた構成になっていることはよく知られたことで、この構成については否定的な意見が大半を占めるようだ。
この句を含む二句に付けられてたタイトルは「寒い夏」。このタイトルはいただけない。蜥蜴の腹があたたまらないのは、その年の「寒い夏」のせいだ、という答えになってしまっている。これは作品にとって大きなマイナスと言わざるを得ない。
いずれにしても、視覚を通り越して対象物と同化し、その言葉を表現する、こういう作句姿勢に学びたいと思った作品である。
戦後俳句史を読む(第8回)・・・私性3
堀本: 私性と言うことに関連して、想い出すことがある。
川柳と俳句など短詩型超ジャンルの「北の句会」をはじめたころ、連句に長けた人が来ていて、全く無知の段階から手ほどきを受けたことがある。
その時、一緒に連句を巻いた川柳人が怒ってしまった。自分の句を勝手になおした、と言うのだ。でも私には怒る理由が解る気がした。自分のかつての俳句の結社への反発によく似ていたからだ。初心者だから、連句のルールをまだ知らぬこともあったが、同時に、その人の川柳の作り方が自分一個の内面の表現をめざしたもの、共同製作するとか、付ける付けられるというルールを受け入れにくいのであった。連句ではその場に合わぬ「私性」は捨てられるのである。川柳人の立場では、いな、俳句にあっても、自分のモチーフを大事にする作者が消されることは認めがたい。これは、今でも根強く残っている。
しかし、私は、先ず連句での捌きの権限がひじょうに強いことに驚いた。それはルールであること、と納得したので私の場合はそのまますすんでいるが、自由詩を書いていたころは「下手でもいいから自分の思いを自分の言葉で」、と考えていたからだ、しかし、歌仙の仕組みにしたがってその共同製作に参加する過程で、自分の個性と署名性の自覚が消えてゆくこと、文台下りれば即ち反古なり、と言うその歌仙を巻く時間の平等が保証されているーこれも一種の舞台装置であること、その場の仮構性自体が連句のひとつの面白みであることも理解できる。詩の構造そのものが、このように、個も包みこんだ世界像を象徴的に完結させている。こういうのも、詩のあり方としてはめずらしいのではないだろうか。
俳句、もちろん一句独立の詩であると言う宣言自体が近代の作家主体の権利もとめる反映と見てもいいのだが、連句との葛藤は常にある。だが、結社の殆どのところが添削の権限を主宰にゆだねているのは、近代の作家意識と、この座の文芸としての俳諧連歌のを結合しているからだ。こういう形で俳句はだんだん短くなりながら、俳諧の制度をまだのこしているのだ、ともいえる。いまや、川柳でも急速に川柳のアイデンティティや連句俳句の詩形の相互理解は深まっている(はずだ)。
「私性川柳」の押しつけに自家中毒するあまり、川柳人が(吉澤やその同行者のように)、作品にあって私性を表現する必要がない(たとえ虚構化しても)、と感じはじめたのではないのか?もしそうであっても、その選択自体は止めるわけには行かない。それはそれで一つの立場だ。また、作者という自覚を得てゆくにつれて、句集を欲し、署名性を欲する、という個人の創作家=作家的志向が主張が強くなるのも当然ではないか。近代川柳の固有のモチーフ「私性」は、作品内容にではなくむしろ作家の方法の自由の主張として現れているのが川柳の時代的な現段階であろう。
そして、その姿勢は、従来のパフォーマンス的な川柳の共同性とどのように折り合い、改善させてゆくのか興味がある。
吉澤:川柳が一句屹立を目指しているのはその通りだが、「句集を欲し、署名性を欲する」ということには違和感がある。連句との関係で言えば、川柳も俳句も一句屹立を目指す文芸であるので、俳人でも主宰以外の人に自分の句を変えられるのは嫌がるだろう。要は、連句の場でのルールを受け入れるかどうかの問題であって、川柳の特質という問題ではないと思う。
さらに、「固有のモチーフ「私性」はむしろ作家の方法の自由の主張として現れているのが川柳の現段階であろう」という意見にも違和感がある。私性は川柳の固有のモチーフではなく、近代的個の確立とともに現れた。「私の思いを書く」のが川柳であると一般的に考えられてきて、90年あたりからそれを不自由に感じる川柳人が出てきた。多くの川柳にとって私性は固定観念であり、ごく一部の川柳人にとって、私性は自由ではなく桎梏であった。虚構やイメージや音韻による句は、思いが書かれていないという理由で否定されていたのである。川柳の先端では、私性の絶対性(言いかえれば、川柳の近代的個)が相対化されるという過程にさしかかりつつあるというのが現状である。
堀本:この意味は、川柳に於ける近代固有のモチーフとして言われている「私性」と理解してほしい。本格川柳、ひいては詩性川柳といわれる文学性追求の核は、「私」性の追究ということではなかったのだろうか?むろん、「私性」のみが川柳の表現としての特質とか本質ではないと私も思うのだが、しかし、目下の克服課題は、近代川柳の重要な特質として、「思いを述べること」が自己目的視されていることであったのだと、吉澤は言っているようだが。作り方もそうだし、読み方もそうだ。じつはそのことは、俳句でも、似てくるところがある。(特に女性の書き方など、私の評文のデビューもそうだったが、「女性俳句」という特殊なテーマがまずある。)。川柳人でも女性の「情念川柳」というようなもの。自己のモチーフにこだわっている。これは私にはひじょうに印象つよい。これも私性、あるいは自我追究のひとつのあらわれのように思ってきたのだが。
それから、作者の現在の条件が創作動機や方法を大きく規定することがある。俳句でも問題は同じだ。それは立ち位置のちがいもあるし。個人差もあるかと思う。いっぽう、近代文学や戦後文学は、私小説が主流であるし、川柳でも俳句でも詩でも、むろん短歌でも、「作中主体=作者」とされてきた。
吉澤:近代文学や戦後文学で「作中主体=作者」となされていたという堀本発言については、疑義がある。作中主体が作者の体験や思想に色濃く染められているとしても、「作中主体=作者」とは言えないのではないか。
志賀直哉を私小説作家と言えても、第三の新人の安岡章太郎や内向の世代の古井由吉を私小説作家とは分類しない。詩で言っても、鮎川信夫の「繋船ホテルの朝の歌」や田村隆一の「幻を見る人」には、作者にとっての戦後の空虚感が反映されているが、ノンフィクションではない。作中主体は作者自身を背負っていても、何らかのデフォルメが施されているはずであり、厳密な意味では作中主、体は作者ではない。読者は書かれていることが作者の実感や実体験に裏付けられているのだろうと予想しながらも、幾分かは虚構が混ざりこんでいるはずだと想像している。そのデフォルメのされ方に作者の思考があると読み、作中の描写が本当の事実ではないと怒ったりはしない。
私が「戦後俳句を読む」で担当している時実新子の場合、その微妙な違いが重要だった。
堀本:「作中主体が作者の体験や思想に色濃く染められているとしても、「作中主体=作者」とは言えないのではないか。」《吉澤の疑義より》
うーん:ここは微妙に認識がずれる。戦後の表現意識は体験をはなれようとしても、「戦争」という私事にして普遍的な体験があった、「私」も自己の内面深く潜らざるをえない、言葉の外がわからそういうモチーフをとらせられる、と言う意味で、この時代の問題作や代表作家を、方法や姿勢を含めて「存在」の文学であり、「作家」であると称びたい気持ちがある。ほんとうの主役は「実際の私=作者主体」で、その実存探求に即して思想や方法の違いがでてきている。「作品の主語=作者」ではなくとも作者の思いを投影したものが殆どではないのだろうか?仁平勝はたしか、作品と作者の人生観を結びつける書きかたや読みかたについて、「人文主義」という言い方をしていた。日本では、「私性」は、知識人の実存追究の核のように考えられてきて、狭い意味での身辺告白もそこに含まれているはずだ。伝奇小説家や。泉鏡花のようなファンタジックな様式性を持つ人以外は、「私」やそれを抽象化した「個」の実存意識から出発しているのではないだろうか。「私」は仮構されることでひとつのカテゴリーとして自由に追究されはじめた、ともいえる。
そして、戦後文学、戦後詩、短歌。俳句の共通したテーマは、前代の国家主義全体性の強圧が個の表現の芽を容赦なく奪っていったところから急に解放された地点から始まっている。急に西欧的自由の観念が出てきたために、彼らはむしろ、与えられた外的な自由と自分の内面の統合に創作のテーマを集中したのではないだろうか?
詩で言うならば、彼らの戦後体験は鮎川信夫のように現在の自己の存在証明の為に。戦争の追憶を仮構していった、「橋上の人」、とか。「イシュメール」。「繋船ホテルの朝の歌」などは。ノンフィクションではないが、完全なフィクションではない。
しかし。戦後詩はその実在性を離れようとして、「喩」という仮構空間を切り開いた、これが詩や俳句に及んでいると考える。
もちろん、「私」に膠着しすぎることの弊害はある。でも私は、一概に私性を否定できない。詩で1960年代の鈴木志郎康のように「極私的」という独自のスタイルを開いた詩人もいるし、「私性」というカテゴリーの上でひらかれた言葉の領域は、戦後詩の必然的テーマだった。
川柳では、渡部可奈子は、わたしが知る限り「私性」それを普遍化し抽象化して「個」の領土を極めようとする作家であった。私性をおいつめて、かなり深い場面で内面世界を対象化している。
連句を受け入れるかどうか、というのは、言葉足らずで誤解されたのなら残念なので、個人差とか興味の問題であるとして。別の切り口を見つけよう。
連句と川柳の詩形の特質についていえば、個人差もあろうが、「私の存在証明」という立場が強烈だと、捌きが大幅に添削したり、点々と場面が変わる運行のルールには入りにくいだろう。私性川柳の立場で、作中主体=作者という理念が内面化している人では特にそうである。もちろん、だからといって私の立場からは、当時のそういう川柳的立場を否定しているつもりはない。また、連句のルールをもっと知れば、それをうけいれて、興味をもつかも知れないことだ。ただ、俳句でも、一作者による一句屹立の独立性を求める余り、連句を拒む人たちはいる。連句をやったら俳句が下手になる、とよく言われた。いずれも、やるやらないは本人の意志である。私などは。数人のレンキストの友人から、道をつけてもらったことは幸運だと思っている。
しかしながら、一つ、訊きたいことがあるのは、川柳ジャンルが、前句付けから独立する過程で、自己の詩形の近くに連句を置かなかったのは歴史的な事実であろうが、その影響をどう考えるか?俳句では、正岡子規が俳諧(連俳)否定したが、鈴木漠の力説しているのだが、子規は晩年はまた連句に関心を持ったそうだ。ともかく、高濱虛子が「連句」という言葉をつくったほど、連句と俳句とは相手を意識している。むしろ不即不離である。
吉澤:俳句は連句の発句から独立したものだから、連句を意識するのはある意味当然のことと言える。しかし、川柳は前句付けから発展したものだから、短歌や詩より連句を特別視しなければならない必然性がない。また、季語を中心に進行していく連句と俳句が近いのは当然だろう。
堀本:「しかし、川柳は前句付けから発展したものだから、短歌や詩より連句を特別視しなければならない必然性がない。」(吉澤)・・そういうものなのか?
【この間沈黙】
堀本: 結社で師弟関係を結ぶと言うことは、添削されるのはいやなときもあるが、修行途中である以上そちらの方が句としてできが良くなればアドバイスとして受け入れる場合もある。強烈なモチーフを持ったときにはその限りではない。破門されても主宰の言うことを拒否する。この自由はあるが、ふつうすぐれた主宰は、引き受けた弟子を育てるためには、撰や添削に骨身を削っているはずだ。それが結社主宰の権限でもあり、自負、誇りでもあるのだ、実際のところ、近代俳句のスターは、そのような契約された私塾での修行を経て大成して名句をのこしているのだから、それを否定してなお自立しようとするならば、相当な覚悟をして別の「場」、別の構想を持つ必要があるのである。川柳大会での選者は、庶民的で好感が持てるが、撰の基準は、川柳の通念に照らして厳しい判断をしている、と思う。違うのかな?
座の文芸で、作家として立つと言うことの琴線に触れてくる話になってしまったが・・。
吉澤:信頼できる川柳の先輩によると、川柳大会の成否は選者で決まる、とのことだ。選者であるから一所懸命選をしているのは間違いない。ただ、照らすべき「川柳の通念」にかなり大きな差がある。
選者は様々な基準を設定して選をする。破調は取らないとか、この題でこういう言葉を使ったら取らないとか。この春に岡山で行なわれた「バックストローク岡山大会」(川柳大会)の選者の関悦史の基準は、季語がある句は取らないということだった。俳人として、川柳人の季語の使い方に違和感があったのだろう。そういった選者なりの基準は、選者に任されている。投句者は「……という句は取らない」と被講(川柳大会で選んだ句を選者が読み上げること)の際に言われれば、やむなしということになる。しかし、そのように選の基準だからしかたない、と思える場合はまだいいのだが…。
筑紫:少し戻って言うが、堀本の連句の体験を読んで、半ば笑いつつ納得した。私の体験(連歌であったが)からしても、36句の歌仙はさばき手の作品であり、参加者は単に補助的参加者でしかないであろうと思う(それくらい別格に知識と経験を持った人にさばき手を頼むのでなければフラストレーションが残るばかりである。本格的連歌では私の「言葉」のなにひとつも残らなかったぐらい手直しを受けるし、それも数箇月後に手紙で連絡が来たりする。これは現代俳句・川柳の前提としている文学ではないだろうという気がする)。それに不満であれば参加しなければ良いわけである。その意味で「詩客」で今後開始が予想されている連詩がどのような顛末になるか興味津々というところである(「戦後俳句を読む」のメンバーが既に参加を登録済みである)。彼らの感想を聞いてみたい。おそらく連句と最も相容れない詩型が川柳であるのだろう。
句会について言えば、俳句の句会、川柳の句会、雑俳の句会と膨大な「種類」の句会があり、それぞれの句会がそれぞれの短詩型のジャンルの理念を作っているのではないかと思う。理念が先にあって、それの実践の場が句会としてあるのではない。俳句でさえ更にいくつかの句会の種類があり、例えば典型的にいえば、題詠句会と雑詠句会がある。そして「題詠句会」で真摯に作品を極めれば極めるほど花鳥諷詠になるに決まっているし、「雑詠句会」は必ずその中に無季俳句を萌芽しないでは置かない。これは作者の思想とは関係なく、おかれた制度が花鳥諷詠と無季を作り出すということなのだ。俳句や川柳が純粋な文学や詩に徹したいなら、句会とは縁を切らなければいけないかもしれない(それがいいことか悪いことかは別である)。
私は、あまり我々の伝統が古くからあったと思わないほうがいいと思っている。俳句の句会は明治25年から始まったにすぎない。川柳の句会は前句付の「取次」に由来しているとみるべきなのだろうが、現在のような句会の歴史はそんなに古くはないのではないか。もっとも由来の古いのは雑俳で、雑俳の興行形態から現代の句会は生まれてきたことを知っておくべきだ(明治時代の句会用語の多くは雑俳から借用していた)。