戦後俳句を読む(第9回の2) ―テーマ:「精神」その他― 

―テーマ:「精神」その他― 

執筆者:飯田冬眞・深谷義紀・堺谷真人・岡村知昭・池田瑠奈・土肥あき子
(戦後俳句史を読む)堀本吟・筑紫磐井・吉澤久良・北村虻曳

齋藤玄の句/飯田冬眞

雁の道のごとくに死ぬるまで

昭和53年作。第5句集『雁道』(*1)の表題作。

この句は、句集名の由来をつづった「あとがき」とあわせて読むと理解が深まる。

『雁道』(かりみち)という集名は、雁の通る道という意で命名した。雁道は、雁が通る時にはそれと知られる。また雁が通らなくともそこに存在する。時には見え、時には消え、在って無きがごとく、無くて在るがごとくである。これは今後の私の命のありようと、俳境のありようを示唆しているような気がする。(*1)

上五〈雁の道〉は、「かりがねのみち」で、雁(かり)の通る道という意。雁が通ることで、そこに道があることがわかる。つまり、俳句を詠むことで生きていることを実感できるということの暗喩として読むことも可能だろう。句意としては、〈雁の道〉のように自分の命は〈死ぬるまで〉俳句とともにある。雁が通らなくとも道が存在するように、自分の命が果てた後も俳句はそこある、ということになろうか。この句には、齋藤玄という俳人の俳句に対する精神性が端的に現われているように思う。

「時には見え、時には消え、在って無きがごとく、無くて在るがごとく」という玄のことばからは、次の古歌を想起する。

仏は常に在せども、現ならぬぞあはれなる、人の音せぬ暁に、ほのかに夢に見えたまふ

(梁塵秘抄・法文歌・26)

この歌謡は『法華経』の「方便して涅槃を現ず。しかも実には滅度せず、常にここに住して法を説く」の経文を下敷きにしている。経文の大意は、仏の死は人々を教え導くための手段として涅槃、つまり死をあらわしたのであって、実際には仏の魂は滅んでいない。常にこの世界にとどまって法を説いているのである、というもの。

掲句と「あとがき」とこの経文・古歌謡をあわせて拝すると、どこか通底するものを感じないだろうか。おそらく、玄は熱心な身延の門徒であった祖父の影響で『法華経』は諳んじていたはずである。幼少の頃に読誦した経文が、玄の精神に影響を与え、血肉化して晩年に俳句となって現われたと考えるのは飛躍しすぎだろうか。

四歳で父を失った玄は、函館の名士であった祖父の家に母とともに身を寄せる。祖父は玄の大学進学、就職、結婚までも支配強制したことはすでに述べた。その祖父が亡くなった際に「祖父を桐ヶ谷火葬場に焼く」と前書を付した句を参考までにあげておく。ここでの雁は現実の雁であり、季語の本意を逸脱していない雁である。

骨ひらふ手は初雁を聴いてゐる 昭和16年作

一方、掲句と同時期の作品に現われる「雁」を見てみよう。

雁のゐぬ空に雁の高貴かな 昭和53年作
雁の道はなかりき水景色 昭和53年作

これらも掲句と同様に「雁」をモチーフにしてはいるが、現実の「雁」を詠んだものではない。想念のなかの雁であり、風雅の道すなわち俳句の象徴であると思われる。あるいは〈雁やのこるものみな美しき〉と詠んだ師石田波郷の面影を〈雁〉の姿に重ね合わせていたかもしれない。そうした心のなかの見えない「雁」であるがために、詠むたびに純度が増し、それを〈高貴〉と感じるようになったのではないか。

膝立てて大露の雁をゆかせけり 昭和17年作

雁が渡るのを眺めながら戦地の友に思いを馳せていた頃の句と比べると、晩年の玄の「雁」には、ある種の精神性が帯びていると言えないだろうか。

掲句のように、目には見えないが、実はそこに厳然と在るものを言語によって表出せしめようとする作風は、『雁道』後半、昭和51年頃から54年頃にかけて繰り返し見受けられる。

言水の非在の影をこがらしす 昭和51年作
ある筈もなき蛍火の蚊帳の中 昭和52年作
空だけが見ゆる不在の水かげろうふ 昭和54年作

これらの句は、病を通して、死および命の本質というものに直面した時期に相当する。ことばが生硬すぎて、失敗していることも多いが、未知の世界の腑分けとでもいった手つきで、自身の限られた命を見つめ続けた精神力は尋常なものではありえない。そこに私は玄の俳句に対する「高貴」な精神性を感じるのである。


*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載

成田千空の句/深谷義紀

おむすびは心のかたち雪のくに

第6句集「十方吟」所収。

平明な表現ながら剛直な句柄を示す千空作品のなかにあって、多少の異彩を放っている句だと思う。端的に言えば、「心のかたち」をどう解すべきか、些か悩ましいのである。

例えば、同じ「おむすび」をモチーフとした作品を引いても、

蒼茫とねぶたの首途(かどで)塩むすび     「人日」
秋日濃しめし屋に味噌の握り飯    「白光」

など、どれも句意は明瞭であり、こうした悩みが生じる余地はほとんどない。一句目は、ねぶた出発直前の光景であろう。日が沈み、夜の帳が下り始める時分であり、塩結びの白さが際立つ。二句目も、庶民的な食堂に置かれた味噌握りが目に浮かんでくる。

それに対し、掲句は抽象的色彩を帯びるため、一読しただけでは掴み所がない感がある。

もちろん句の意味を事細かに解することはある意味邪道であり、句をそのまま味わえばいいのかもしれない。だが、やはり腑に落ちない。リアリティが感じられず、言葉のみが先行しているように感じられるのである。つまり千空らしくない作品に思えるのだ。

いろいろ考えあぐねた末にふと閃いたのは、千空の住んだ五所川原に程近い岩木山麓で「森のイスキア」と名付けた施設を主宰する佐藤初女さんの存在である。彼女のもとを、生き方に悩んだ様々な人達が訪ねてくる。彼女はその人達をおにぎりなど手作りの料理でもてなしながら、話を聞くという。訪ねてきた人達は、佐藤さんが作ったおにぎりを一緒に食べながら、徐々に心を開き、自分自身で答を見つけていく。そのおにぎりこそ、悩みを抱えた人達の心の扉を開ける鍵なのであろう。

千空が掲句を作ったとき、佐藤さんの話がモチーフになっていたのかどうかは定かではない。地理的にそれほど離れているわけではないのでその可能性はあるものの、断定するほどの材料はない。

しかし、考えてみればおにぎりほどシンプルな料理はなく、その作り手の心のありようを示すものはないだろう。だからこそ、「おむすびは心のかたち」になりうるのである。おそらく千空もそのような思いに至ったのだと思う。作り手として千空が思い描いたのは、優しかった実母かもしれないし、掲句が作られる少し前に逝去した義母(市子夫人の母)かもしれない。あるいは市子夫人その人かもしれない。いずれにせよ、そうした思いのこもったお結びを食べた体験が記憶の底に眠っていた筈である。

そう考えた時、この句に一挙にリアリティが生まれ、いかにも千空らしい句だと思えてきたのである。

堀葦男の句/堺谷真人

蠅のせて白牡丹いま道家のごと

 『過客』(1996年)所収。1990年頃の作。

 百花の王として君臨する牡丹。わけても白牡丹には清浄にして神聖不可侵のたたずまいがある。が、よりにもよって眼前の白牡丹にとまっているのは、なんと一匹の蠅なのである。当の白牡丹は、しかし、至穢の昆虫の侵冒に遭って毫も動ずることがない。清濁併せ呑む老荘の徒のごとく、悠然とかまえ、ただ静かに微笑している。

この句が作られる前から葦男は老荘思想、なかんづく『荘子』に傾倒していた。1987年の賀状に『荘子』人間世篇の「乗物以遊心(物ニマカセテ以テ心ヲ遊バス)」を引いたところ、理科系の友人は「車の運転心得かと思った」と冷やかし半分のコメントを寄越して来たという。(※1)はたから見ていささか滑稽なほどの心酔ぶりだったのであろう。

 さて、老荘への傾倒を語るのと同根の熱意をもって、葦男は夙に俳句の精神性を説いた。賀状の一件から溯ること約20年、葦男を箕面市百楽荘の自宅に訪ねた坪内稔典は、当時の印象を、後年、次のように回顧している。

まだ20代のころ、摂津幸彦などと堀葦男を訪問したことがある。しきりに心を説き、俳句における精神性を強調する葦男をやや疎ましく感じた。東大卒のエリート意識がちらつくことも。摂津も私も私大を出たばかりであり、葦男の上からの物言いに反発したのだった。でも、葦男夫人のちらし寿司がうまかった。心には閉口したが寿司には満足した、そのような葦男家訪問だった。

 若き幸彦、稔典の辟易ぶりが偲ばれる挿話ではある。実際、後進にあてて書いた俳句論(※3)の中でも葦男は繰り返し「精神」という言葉を使っている。俳句を続けることで自分の「精神生活を、自分で見守る力」を持ち、「バックボーンがしっかりした精神生活が出来るように」なった、「句会や雑誌のグループによって、純粋な精神的交友の場を見出せた」というふうに。

 しかしその一方、「砂上の楼閣」めいた現代日本の繁栄に巣くう精神状況の貧寒さに対し、葦男は危機意識を持ち続けた。とりわけ、次のような作品に接するとき、精神性の頽廃と自己疎外に対する葦男の警戒心を筆者はまざまざと追体験するのである。

箱のような俺 中流で回転する 『火づくり』
廃物岬の鮮紅の沖花束死ぬ 『機械』


※1  『一粒句集』第24集 序文(1987年 電通会俳句部)

※2  「e船団」この一句 バックナンバー(2005年3月15日)

※3  『俳句20章―若き友へー』(1978年 海程新社)P7/初出は「海程」創刊号

(1962年4月)~29号(1966年12月)所収「現代俳句講座」

青玄系作家の句/岡村知昭

仰臥にて尿り糞まり神を言はず   滝沢初馬

 昭和25年(1950)9月号初出。前回の日野草城の一句と同じ病床に横たわる自らの「病める身体」をモチーフにした作品であるが、「病める身体」を通じて外の世界から訪れる音や物体の影を捉える姿勢に徹する草城の句に対して、今回取り上げる掲出句は「病める身体」を支える精神のありさまをそのままに描いた一句である。作者である滝沢初馬の詳しい履歴は不明であるが、掲出句以後に「血を喀く」との作品が見られるところから、初馬の病気が肺結核で、おそらく結核療養所で闘病生活を送っていたであろうことはうかがい知ることができる。

 昭和26年の9月号の「青玄」では「病者と俳句」というテーマで4人の論者が文章を寄せているが、その中のひとつである林田紀音夫は「サナトリウムに於ける俳句」と題した一文で、療養者の俳句について「肺外科の進歩は僕たちに希望を与へると同時に積極的な斗病の精神を醸成し、生活の領域を拡大した」と肺結核治療をめぐる状況がこれまでの「死病」との意識から療養者自身の精神にこれまでにない変化をもたらしつつあることを指摘した上で、「自らの手に拠って運命の扉を開いてゆく体験なり精神なりが、俳句としてすさまじい様相を以て結晶するやうになった」と療養者自身にもたらされた精神の大きな変化の諸相が俳句作品においても次第に現れつつある点を指摘している。この変化から生まれた作品の代表として紀音夫は石田波郷の「胸形変」を挙げこの一連において「烈しく新しい展開が為されたのである」としている。自らも療養所生活を余儀なくされた紀音夫の指摘からは、過去の絶対的な「死病」との意識から医療技術の進歩により「生」の側に戻れる可能性がもたらされたことが逆に一個人としての自分自身の「死」への意識がより高まることで、より「生」への願望や熱意そのものが俳句作品のモチーフとして浮かび上がってくる過程が見えてくるのである。

再び掲出句に戻ってみる。自らのただ今の闘病と身体の不自由さに湧きあがる衝動にすら近い感情の動きをそのままに俳句定型に収めてしまおうとする作者の一念が、「尿り糞まり」とつぎつぎに畳み掛けてくる言葉の連なりから病床の動きを封じられている身体の姿とともに浮かび上がってくるのが見て取れ、「神を言はず」との結句は自らの自由のきかない身体に対してのせめてもの意地を感じさせることで、一句の痛々しさをよりはっきりとしたものとしようとしている。病気がもたらす肉体的な苦痛の数々が思いもかけず神への救済を口走らせそうになるそのときに「神を言は」ない、決して言ってはならないとの決意をもたらしてくれるものが、初馬の「病める身体」を辛うじて支え続ける精神そのものなのであり、その精神の姿は紀音夫が指摘した療養者の生死をめぐる目まぐるしい変化の中で揺れ動きながら存在しているのである。そうでなければ「神を言はず」とのフレーズは出てこなかったであろうし、一患者として「神を言はず」と言い放てるようになっていること自体が、まぎれもなく「戦後」の療養者である証とも言えるのだ。

そのような一患者であった初馬の無季作品を挙げておきたい。引用は昭和31年10月号に掲載された伊丹三樹彦編の「青玄無季俳句集」より。

童貞のわが喀く血こそまくれなゐ

うりつくし一つのこれる銀の匙

血を喀けばものみな遠くなるごとし

特効薬貧しき家の金を奪う

働かぬ手をしみじみと眺めけり

永田耕衣の句/池田瑠那

野菊道数個の我の別れ行く『闌位』(昭和45年刊)

夏草や宙に我が顔淡く見ゆ『葱室』(昭和62年刊)

我が抱え余る我らし秋の暮『人生』(昭和63年刊)

 今回の「精神」というテーマ、難題であった。「精神」とはそもそも物質もしくは肉体と対置される概念である。世界のすべてを、複雑な思考の主体となる「精神」と、重さや広がりを持つ「物質(自ら思考を行わないものとして「肉体」もここに含まれる)」とに二分する発想は良くも悪くも近代西洋哲学の産物に他ならないが、耕衣作品にはそうした二元論的世界観は薄い。しばしば「空じる」「空じられる」ということを唱える耕衣の作品の土台となっているのは禅哲学、様々なものごとの区別を無意味なものとする空の哲学、関係性の哲学であるからである。一例を挙げれば『冷位』に収められた「君無く我無き時共に薄見む」。自/他の区分、存在/非存在の確からしさを、薄の穂波の煌めきの中にかろがろと空じてしまった句であろう。

「物として我を夕焼染めにけり」(『驢鳴集』)「物質人物質人ト花見カナ」(『物質』)のように、自身を精神/物質未分化の存在、むしろ物質としてとらえた句は散見されるのだが思考の主体としての「精神」を意識させる句はなかなか見つからない。中で目を引いたのが、冒頭に挙げた3句である。1句目、野菊咲く田舎道を歩む我から「数個の我」がばらばらと抜け出し、走り去って行く。野菊の儚げな印象の所為か、その、どの後姿も頼りなく寂しい。2句目、生命力溢れる夏草の茂りの上、肉体を離れた「我が顔」が浮かぶという。「淡く見ゆ」とあることから、生気のない、寂しげな表情が想像される。3句目、上五中七「我が抱え余る我らし」の12音中8音がア段音のためか、やや意識的に口を開けない

と発音しづらいのだが、そのすらすらと詠み上げられない感じ、一音一音力を込めなければならない感じに、まさしく「近代的自我」を持て余す気分がある。しみじみと物思わせる季語「秋の暮」がよく働いている。――耕衣にとって「精神」とは「抱え余る我」、空じようとしても空じ切れない「余剰部分としての我」だったのではないか。

稲垣きくのの句/土肥あき子

かくれ逢ふ聖樹のかげよエホバゆるせ  『冬濤』所収

「女はクリスマスの夜から堕落する、ということばを何かでよんだ覚えがあるけれど、その例にもれず私も何十回かのクリスマスを重ねているうちにだんだん堕落して、こんな人間になったのではないかと思われるふしがある」
 随筆集『古日傘』の「降誕祭」の冒頭である。クリスチャンだった一家は、聖夜を家族揃って教会で過ごし、きくのは15歳で受洗している。
 先に引いた文章は、9歳の聖夜の記憶がつづられる。教会で配られる菓子を偶然ふたつもらってしまったことを家に帰って告白したが、母はにっこりと笑っただけだった。当然叱られることを覚悟していた少女は、「このくらいのことならしてもよいのだなという確信を得て、このとき、それだけ堕落した」と結ばれる。きくののひとつめの堕落の記憶であろう。
 掲句は、きらびやかな聖樹のもとでの逢瀬でありながら、隠れるようにして逢わなければならない事情が、聖なる夜をけがしていることに胸を痛める。クリスチャンであるきくのにとって、聖夜は家族とともに過ごす特別な時間であった。なおさら恋人に妻子があることを意識せざるを得ない、いわば自虐的ともいえる逢瀬である。

背信の罪軽からず冬の虹  『榧の実』所収

にも同じ傾向の背徳感は出ているが、掲句の率直さには及ばない。きくのに字余りの作品がほとんど見られないこともあり、下六となった「エホバゆるせ」が、どうにもならない女の慟哭となって渦巻いている。

椿真赤嫉みアダムのむかしより 『冬濤』所収

罪なきもの石もて搏てと蛇出づる  『冬濤以後』所収

などの作品にも、クリスチャンの横顔がみてとれる。
 キリスト教のいう七つの大罪とは、「傲慢」「憤怒」「嫉妬」「怠惰」「強欲」「暴食」「色欲」であるが、きくのは「色欲」「嫉妬」に囚われる自身を、嘆き悔いていたのだろう。
 二句目は聖書の「罪なき者が先ずこの女に石を投げよ(*)」である。これは忌むべき蛇の姿に、かの言葉を重ねているが、蛇はまたきくの自身でもある。

 亡くなる数年前となる次の作品には、堕落を重ねてきたと自覚しながら、最後まで聖書を折々の心のよりどころとして、生きていたきくのの姿がある。

復活祭亡母の聖書を死まで持つ 俳句研究 昭和57年5月号

天上に宝積めよと聖書春  昭和58年4月号


戦後俳句史を読む(第9回)・・・私性④

堀本:「固有のモチーフー私性」という言い方について補足する。「私性」とか「社会性」とか「詩性」等という、モチーフの一つと言う意味である。

 私は、じつは俳句でも川柳でも「存在の詩」として役割を思うので、通俗になったり自己目的化されるのは困るが、「私」と言う時空が、依然として詩の坩堝である、という考えを捨てきれないのである。波郷の境涯俳句なんか、いいなあ、と思う。川柳がそれを捨てとしたら、・・どうなるのか。

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「川柳の先端では、私性の絶対性(言いかえれば、川柳の近代的個)が相対化されるという過程にさしかかりつつあるというのが現状である。」(吉澤)

 この辺りの展開の切実さは大変よくわかる。吉澤たちの真摯さを感じる詩、問題意識は正当であろう。言語世界総体のどこに切りこみ表現へ転換するか、と言うところから考えれば、本人の選択と追究の方法は自由なのである。近代文学に大きな意義をもたらした「私」追究の方法、も極限に来ている、と言うことだろうか?

筑紫:私性をめぐっては4回目に及んだ。そろそろ結び(そんなものがあるのか不明?)に近づいたようだ。議論の手順であるが、何かアプリオリに「私性」があるというと形而上学に陥りそうな気がする。社会性俳句が発生し、前衛俳句が発生し、風土俳句が発生したように、私性が川柳ではいつ発生し、俳句ではいつ発生したか、それがどのように変成したかからスタートしたほうがよいように思われる。吉澤の3段階説はそれはそれでなるほどと思えるが、俳句にはそうした段階はなかったように思われる。そもそも「私性」などという意識そのものがなかったのかもしれない。手じかな俳句用語辞典を見ても「私性」は見当たらない。「私性」を意識した俳人もいなかったのではないか。変な例になるが、前衛俳句が存在しない場合の前衛俳句とは何なのかはきわめて奇妙な質問となるであろうがこれに近いかもしれない。「私性」も同様である。「私性」のまがい物として境涯やエロスがあるのかもしれない、「反私性」の超越として安井浩司があるのかもしれない。川柳で生まれた私性を、あまり無批判に俳句に導入しないで、俳人(前回の私も含めて)は何に翻訳して私性として理解したのか、反省してみることの方が早道のような気がする。

吉澤:川柳における「私性」が俳句にそのまま当てはまらないのは当然だろう。「私性」というものを〈作者が自分のことを語ること〉あるいは〈作者と作中主体との関係〉という見方でとらえると、俳句についてこんなことを思う。

たれ付けて串カツ重し夏の暮れ        榮猿丸
フライドポテトの尖にケチャップ草萌ゆる
紫陽花や流離にとほき靴の艶         小川軽舟
岩山の岩押しあへる朧かな

この二人の句を比べた場合、榮の句では、たれの付いた串カツを見ている具体的な主体(これが作者であるか、作中主体であるかはとりあえず保留)の存在が鮮明に感じられるのに対して、小川の句には見ている主体の存在がほとんど感じられないのである。榮の句に対するさいばら天気の小論の題が「外部から『俳句』の内部へ」ということであり、小川の句に対する関悦史の小論の題が「型に依る醒めた物狂い」であることは、何か示唆的ではないだろうか。いわば〈中心と周縁〉という対比に見えるのである(「中心」と「周縁」は方法の差であって、価値の優劣ではない)。榮と小川は、俳句という形式と歴史の集積に対して、今ここに生きている一人の作者として対峙している点では同じなのだが、見ている主体(あるいは見ている作者)の扱い方の差が、はからずも二人の評者の小論に対照的に表れているように思える。

筑紫:吉澤の言うところは確かに感じなくはない。しかし、季語「夏の暮れ」「草萌ゆる」「紫陽花」「朧」によって多かれ少なかれ主体性は剥がされているのではなかろうか。この二人と対比するには、栄の師であり、小川の兄貴分にあたる(いわゆる俳人の好きな師系に属する)小澤實を見てみるのも面白い。

ゆたんぽのぶりきのなみのあはれかな
夏芝居監物某出てすぐ死
ふはふはのふくろふの子のふかれをり
いのししのこども三匹いつもいつしよ

小沢の流儀は、「私」を消去して、境涯もなく、季語の調和によって逆に「主体性」を主張していることだ。ここであえてこの句を取り上げたのは、吉澤のあげた、榮、小川の句は後世に残るかどうかは全く不明であるのに対し、小澤のこれらの句は既に現代の古典としての位置づけを得ていると考えられるからである。何れにしても、ここの俳句ではばらついているように見える方向性が、全体から見たときに現代俳句にあっては、反私性へ、反私性へと向かっているように見えるのである。

堀本:話は戻るが、現代俳句で、前近代の結社の制度や主宰の添削法が崩れつつあるからといっても、やはりすぐれた先輩を中心にした私塾のようなグループが出来てくるのは従来とおなじである。同人誌でも、作品を中心に、また気のあった者同士、広く組織力編集力を中心にする・・かの違いはあるが、いずれも、私性とか個性の標準は一般社会の常識のセンに従っていると思う。つまり現代俳句では、改めて私性を標榜する必要はないのであり、言語領域と生活の領域が地続きになっている、そういう事態なのだと思う。「私」も、ここではモチーフとしてはひとつの仮構なのである。 

 筑紫磐井が「私は読者を意識した女性俳句を劇場型俳句と呼んでみた」と言っている。これは面白い指摘だ。

 俳句には短歌のような自己言及性がない、俳句で自分を語ることは不可能だ、と言ったのは「京大俳句」時代の上野ちづこであるが、それはある意味で正しい。言う必要がない、とも言いうるのだが、しかるになぜ女性だけが女性性(私性)を注目され、その周辺で毀誉褒貶の評価を受けてきたのだろう。

 時実新子はもちろん、俳句の若い女性、柴田千晶や、田中亜美の作風にもでているようなエロスは今後も断続的に追究されるはずだ。また、男性からの母性や女性性という全人的なものへの幻想がある限り、女性俳句に於ける「私性」という劇場のテーマはなくなることはないだろう。

筑紫:短歌では、「おんなうた」が盛んに喧伝されたが、俳句ではこうしたことはなかった。女流俳人の時代というのは、俳句の担い手が女性になってきたということであり、俳句の本質に女性的なものが提言されたわけではないだろう。

私性俳句はないと思うが、劇場型俳句はあり得ると思う。もし堀本に賛同してもらえるなら、私性俳句・川柳を劇場型俳句・川柳と言い換えられれば、主体の問題も新しい見方を加えられるのではないか。劇場のなかでは、女優個人、役柄上の(生身の)主人公、脚本上の(抽象的な)主人公はそれぞれに違っている。

さらに劇評(このような評論がそれに当たろう)で批判される女優や演じられた主人公もまた異なる。役柄に興奮して女優に恋したり、舞台の役者に憎たらしさのあまり切りつけたりする勘違いはいつの時代にでもあることなのだ。だから時実新子を演じている大野恵美子が、時折役柄に不満を感じることは十分ありえると思う。それは劇場型川柳の宿命だ。しかし、鈴木六林男を演じている鈴木次郎がいて役柄に不満を感じる、ということは考えにくい。六林男俳句は劇場型俳句ではなく、全人格俳句であるからだ。

堀本 :「私性」は戦後文学の重要な規範であるが、必ずしも現在の凡ての表現者やすべてのジャンルの主要なカテゴリーではない。俳句で女性性の問題を対象化する時も、橋本多佳子や三橋鷹女のエロス性もでも「劇的」と考える方がわかりやすいかも。いちど試行してみてもいい。しかし、これは、過渡的な分析用語だとも思う。

「私性俳句」「女性俳句」というのも、たしかに、便宜的に出てきている。むしろ存在不可能な俳句だ。本質的ではないにもかかわらず、それについての強烈な関心があると、いくつか次元の錯覚をおこるときがある、それ自体が人性の面白さであり、文学的テーマになりうる。

北村:私性というのは私にも慣れない言葉だが、これを私のなじんでいる(つまりかなり昔から活躍している)現代詩人で考えると、まず伊藤比呂美、彼女の詩の場合は、機関車のように進行する私があって、その体当たりで次々発見されていく世界は、彼女が作り出したもののように私的である。作者と作中人物に加えて世界までも彼女のものである。筑紫の言葉で言う全人格詩の極端な例であろう。

粕谷栄市の詩では、一見作中人物は作者とも読者ともまったく異なる時代と環境に虫けらのように住み、画然と分離しているように見える。しかしその世界は、まさしく作者の世界の実感であり、彼の日常なのであると見られる。作者と作中主体は浸透し合っており、全人格の詩というよりも、作者の人格自体のシフトがなされている感がある。

俳句では

裸体なる夫婦がわれを捌くが見え  関悦史(セレクション俳人 プラス 新撰21)

など、そうした自己を異界に移す要素を感じさせるが、一句単作で読み取ることはやや困難である。永田耕衣の作を続けて読めば、彼の主体の東洋的楽土への拡大・溶融が感じられるだろうか。

いずれにしても「私」というものを、そう単純なものに留めたくないものだ。

ところで、吉澤が第七回の2で挙げた先端の川柳では、言語はばらばらで文意は不明である 。したがって、そもそもの作中主体なるものが不明である。すると逆にそれを作品として押し出した作者が強く意識されることになる。

これらに対して筑紫は、俳句では「技巧・技法万能主義」が最近のトレンドであるとする。(このことに対する筑紫の価値判断はアンビヴァレントで単純・直裁ではない。第六回の2参照のこと。)この俳句の姿勢は言語の伝統を駆使するものであり、言語の歴史的共同性に依拠する。また主題性よりもニュアンスが重視される。第七回の2で堀本の述べるように、俳句においては破壊的な試みの時代は一段落しているということか。

吉澤の言う、大会で「抜ける」ことが目標の川柳と、結社雑誌の中で主宰の価値に沿おうとする俳句、両分野のこれまでの歴史の差も重要なポイントだね。。

吉澤:大会で「抜ける」ことを目指さない川柳人が、ごくわずかであるが現れ始めている。「23ページのメロン図について(森茂俊)」と「カモメ笑うもっともっと鴎外(小池正博)」は大会の特選吟であるが、「ララランリリリンララルラ曲がり切りなさい(兵頭全郎)」は同人誌の雑詠欄の投句である。どの句も言語実験的ニュアンスが濃厚であるが、大会で上記のような句が抜けるかどうかは、ひとえに選者が誰であるかによる。「言語はばらばらで文意は不明である」(北村)ような句を拾える選者は、残念ながら川柳界に多くはない。そういう事情が、「抜ける」ことを目指さない川柳人を生んだのではないかと思われる。

堀本:その人達がなぜ、それなのに、「川柳大会」という発表形式にこだわっていることについて、もうすこし、吉澤の意見を聞きたい。(「川柳大会」の古めかしいしかし愉しい演劇性、様式性はなかなか見ものであり、この雰囲気にはまるといきいきしてくる川柳人の遊び方は愉しい。でも、このトポスは、こういう形で継続するのだろうか?)

吉澤:理由は楽しいからだ。大会は一種のお祭りである。久しぶりの人とも出会えるし。もちろん研鑽の場でもあるが。あの楽しさがある限り、大会は続くだろう。ただ、句会大会を好まない川柳人もいる。

堀本:わりあい趣味で動いているのか。

吉澤:趣味という言葉でくくってしまうと語弊がある。研鑽や勉強の場と考えて参加している人もたくさんいるし、例えば亡くなった定金冬二は句会は戦いだと言っていたらしい。

堀本: 俳句では、実験作は、句集形式それもかなり私家版的意味合いをこめた少部数、少人数の同人誌を基盤としてきた。作品の方法は普遍をめざしむろん世に問うものであるが、作家の態度は、私性というか個の独在に賭けるとことがあった。だから、ある時期が過ぎれば、句集を出し、欲を言えば作家として生活がなりたつ市場も欲している。これも俳句の特性ではなく、時代的な特性だと思う。俳句史は、(川柳史も)表現史を中心として構成されるべきであるとともに、作家の生活史、それを流通させる流通の場が検証が可能にもなる。

 俳句表現の転換の兆しは1970以後の俳句ニューウエーブのころから目立ってきた。

 30年前、攝津幸彦は、早くから前衛実験に手をそめ、最も早い時期に伝統的な俳諧性を取り入れて、むしろ大成功した。坪内稔典は、俳句の文学的完結性を自己否定した。前世紀末ニューウエーブの異端中の異端上野ちづこは、私性の問題を思想的に突き詰めて、俳句の外に出て行き、江里明彦は批評性を盛り込んだ社会性(意味世界の構築)を取り入れることで、かろうじて俳句の側から境界に接している。「第三期京大俳句」の幕を閉じたこの二人の文学的な軌跡は、現在の川柳のモダニズム運動の行方と重ね合わせて私から見れば示唆に富んでいるような気がする。夏石番矢は、ある意味ではもっとも詩に近い言語領域を俳句の方法で渉猟した。

川柳の現段階をあまり離れると議論が混乱するので、これはこの位にしておく。

 現在では、俳句甲子園の台頭が若者達の古典帰りを目立たせている。形は一般的な俳句形式を踏襲しながら、先端性を誇っている理由は、対象世界を摑む感性のあり方によるのだろうけれど、これが表現の現段階でに意義付けのむづかしいところである。

川柳のもっとも若手が、脱川柳=と見まがう、意味の攪乱をめざしている方向とはすこし違うような気がする。俳句の新世代はじつに体制的なのである。

北村:私性をもう少し私の土俵に近づけて考えてみる。「作者」は自明として、そもそも「作中主体」とは何か。一応作品の中の主語のことであろう。日常詠に終止する人生・生活短歌や、風刺・滑稽を旨とする古典的あるいは時事川柳等はいざ知らず、人は他人に、悪人に、死者に、動物に、ものに、と何にでも自己を仮託できる。

さらに難儀なことは、自己と世界の境界が定かでないというポストモダン的考え方も成立する。個というものは、便宜的なフレームとして形成される概念なのではないか。(私は実は強固な個人主義者であったのだが、このシリーズで俳句を勉強するうちに、呆けが進行して個人概念にメルトダウンの兆候が見られる。)

吉澤が「川柳の一部では、このように「直接的に」何かに結び付けにくい句も書かれている。仮にこれらが喩であるとしたら、狭い意味の喩ではなく、世界そのもののありようの喩とでもいうべきだろう」として挙げている石部明や清水かおりも、自己と世界の境界を取払うことにより、川柳の従来の狭かった私性の論議を抜け出している。

第3回の2で触れた後期の齋藤玄の句には、作中主体は風景であろうか。それを見る死者のまなざしが感じられるが、それは作者と作中主体の中間物とも言える。

安井浩司の句においては、原初的で崇高さを感じさせる行為を纏う作中主体。それを見る視点は超越的にも見える。「こまめに近距離のもののみを撃つ(中略)昨今の俳句」を不幸とし、「射るべき魂は遙かに遠いところに在る」(『海辺のアポリア』「渇仰のはて」)とする。これは筑紫の指摘する技巧・技法の句の時代に対するアンチテーゼである。

月光射して水霧となれる厠妻         『句篇』
老農ひとり男糞女糞を混ぜる春    安井浩司『句篇』

TOTO、INAXの時代の人が厠妻の句を受けとめうるのか不明だが、母屋から離れて野山に向かって立つ厠の記憶を持つ私には、実在を越えた絶景となる。後者、

見渡せば柳桜をこき混ぜて都ぞ春の錦なりける  素性法師『古今和歌集』

を連想するが、はるかに啓示的である。主体は自然の点景に回収されて聖性を帯びるのである。

河原枇杷男においても、私性は一筋縄ではない。「私」は宇宙なのである。純粋培養されている点で、浩司との違いがあるが。

枇杷男忌や色もて余しゐる桃も      河原枇杷男『蝶座』  (色=しき)
昼深し身に飼ふ梟また啼くも            『鳥宙論』

これらの俳人は、素朴な意味での私性の埒外で世界に共振し、黙示録を目指すかに見える。かくして、時代の趨勢には背くが、「私性」というテーマには歴史的な意味しか無く、そこから踏み出さないと私には面白い話は始まらないと考える。

吉澤:この鼎談を通じて思ったことをいくつかあげて、締めくくりとしたい。

川柳と俳句では、結社や句集、大会のあり方などは違っているが、共通点もたくさんあった。堀本があげたように、俳句でも川柳でも言葉の意味を霍乱するような試行がなされていること、時実新子と女流俳人との書き方が同じ質のものであること、などである。筑紫の「劇場型俳句・川柳」という整理の仕方は、川柳の「私性」を考える時に有効なヒントになる。

相違点に戻るが、川柳と俳句の違いはやはり季語だと再確認したことである。「私性」との関連で言うと、筑紫の「季語「夏の暮れ」「草萌ゆる」「紫陽花」「朧」によって多かれ少なかれ主体性は剥がされているのではなかろうか」という指摘は示唆的だった。どのような方法で(例えば、主体性を剥がす、劇場型であることを意識して書く)書いたり読んだりするのか。これは技巧・技術の問題であるとともに、川柳観・俳句観の問題でもある。そういう二面性を持っている。

私性川柳・俳句でも二種類ある。作者の個人的な事情に還元されて閉じてしまう句と、作者の個人的な事情に根ざしていながら読者個人個人の問題になってくる句とがある。北村の「河原枇杷男においても、私性は一筋縄ではない。『私』は宇宙なのである」という意見はそのことと関連していると思う。ここには、一句の授受はどのようになされるのかという重要な問題がある。

他のジャンル(?)を知ることは、自分のジャンルについて考えることでもある。四回の鼎談を通じて、多くの刺激をもらったことを感謝している。

(今回をもって吉澤良久さんは、一身上の都合で退会されます。短い期間ではありましたが、濃密なご協力に感謝申し上げます。)

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