戦後俳句を読む(第10回の1)―テーマ:「夏」その他―

―テーマ:「夏」その他―

執筆者:土肥あき子・筑紫磐井・藤田踏青・仲寒蝉・しなだしん・北川美美

(吉澤良久氏は退会されました)

稲垣きくのの句/土肥あき子

この道や滝みて返すだけの道  『冬濤』所収

 第二句集『冬濤』のなかで、4句並ぶ滝の句の4句目の作品である。

滝みると人にかす手の恋ならず
滝の音によろけて掴む男の手

の後に掲句が置かれる。

大胆に情熱的な句を詠んだかと思うと、一転して冷ややかな句が並ぶのも、きくの作品の特徴である。浮かれた気分から、ふと我に返るというより、本来冷静な視線の方がきくのの本質なのだろう。

「滝を見に行く」「滝を見ている」「帰る」、この単純な道程のなかで、抒情から隔絶できるのが帰り道である。目的地から遠ざかるにしたがって、次第に自己を取り戻す。同じ道の往復で、これほど静かな視線になってしまうことが、きくのの寂しさであり真実である。

ことに「滝」という、もっとも激しい水の姿、圧倒的なパワーの前に、五感が研ぎすまされたのちであることが、一種の透明感を与えているように思われる。

先ほどまで轟音を立てていた滝が、今はもう川のせせらぎに変わり、一歩一歩が確実に滝から離れていく。 それはまるで「滝みて返すだけの道」が、人生を折り返すときにさしかかる自分の胸中にも重なっているようだ。

手を伸ばせば触れられるほどの距離にあった水しぶきも、豪快な水の匂いからも離れ、今はただ単調な山道を踏んでいる。同じ道をたどりながら、往路と異なるのは、唯一滝を見てきた自身の経験である。滝を見て帰る道は、滝を見に行く道とは、心情的に決定的に違うものであることを掲句は示唆する。

降りかぶった飛沫の湿り気がまだ乾かぬ間に、手を借りた異性のことさえも、きくのにはもう遠い過去となっている。

楠本憲吉の句/筑紫磐井

匕首(ひしゅ)めく手帖胸に潜ませ男のポケット夏

秘密を秘めた手帖を匕首(あいくち)に見立てたものだ。感心するほどの譬喩でもない。感心してしまうのは、「○○○○○○○○○○夏」と末尾に季語1コを入れることで、俳句として成り立たせてしまうことだ。こんな安直さは他の文学にはあり得ないだろう。有季定型の詩だといいながら、魂に相当する季語をこんな安直に選択し(「夏」である!)、こんな安直な場所に入れるのである。

また<7+7+8+「夏」>と定型ではないのだが、俳人はこれを定型と読み解く。決して自由律とは言わない。「匕首めく手帖」を上5の3字の字余り、「男のポケット夏」を下5の5文字の字余りと見えてしまうのである。これも不思議な伝統だ。もちろん憲吉が日野草城系の新興俳句派の俳人であるという特殊事情があるように見えるが、俳人の頭はこれをぎりぎり定型と見る枠組みを持っている。

こんな俳句だから、ちょっと面白いが、現代の俳人は憲吉に目を向けようとしない。俳句の教科書に載る俳句ではないのである。現代の名句とは安心して教科書に載せられる句であるからこうした生徒を混乱させる句はだめなのである。

にもかかわらず戦後の俳句としては掲げておきたい句である。楠本憲吉の特有の文体が匂い立つからである。いや戦後俳句を読むとき多かれ少なかれにじみ出る特徴が、楠本憲吉のこの失敗作により、その特徴を露骨なほど露出してしまうからである。私は、戦後俳句、それも昭和30年代から40年代にかけての作品をその前後と比較してこんな感想を述べたくなる。

①この時代の戦後俳句は、どんな伝統俳句や保守的俳句であろうと、自分たちの内部を語りたいという切望をもっていた。

②そして彼らは、自分たちの内部を告げるための独特の表現の形式や言い回しを工夫せずにはおかなかった。

③しかし、こうした独特の表現の形式や言い回しが、しばしば、彼らの作品に自己模倣を生み出させる原因ともなっていた。

この例が典型的に現れるのは楠本憲吉であるが、実は、伝統俳句の代表とされる飯田龍太も、能村登四郎も、草間時彦も、内面を表現する独特の形式を持ちつつ、自家中毒のようにそれが自らを侵しているという現象を見て取ることが出来るように思うのである。不思議なことに、彼らの前の世代の人間探究派にはあまり見られなかった事象である。私が懇切丁寧に研究した作家の数はそう多くはないが、少なくともそれを行った飯田龍太と能村登四郎については間違いなくそれが言えたのである。

問題はそれを是と見るか、非と見るかである。自己模倣など作家としては最低だという人がいるかも知れないが、独自の表現を持てたことをもって、私は無上の羨望を彼らに感じる。今の時代より、彼らの時代が不幸であったとはどうしても思えないのである。それは、楠本憲吉のこの珍妙な句についても言うことが出来たのである。こんな俳句は現代の若い作家は誰一人書こうとしない。実は、書けないのである。

近木圭之介の句/藤田踏青

空壜から流れ出た乞食一人夏を行く

 昭和58年の作品である。乞食という浮遊生活者を流動体の如く、そしてその存在の卑小化が空壜と同じ位相に置かれている。また、空壜という空虚な存在を乞食の人生にも対峙させているのであろうか。更に、空壜と一人という存在を作者の内面で自己対象化させているとも考えられよう。夏の炎天下を一人行く後ろ姿は「ほいとう」と呼ばれた行乞僧・山頭火をも思い起こさせるかもしれない。しかし、次句には「壜の口から乞食襤褸(らんい)の匂いこぼしながら 昭和58年」とあり、山頭火を尊敬していた圭之介にはそのような視点はなかったものと思われる。

忘れ得ぬ人は初夏に似て虹の終り       昭和59年
果実と太陽の酸味もつ思慕か         平成11年

初夏の様に爽やかな面ざしであったが、虹が消え去るように、といった内容であろうか。初夏と虹といった季重なりは超季を主張する自由律俳句に於いては問題にならず、この句の場合にはむしろ並置されることによって情感が増すものと思われる。

それから25年経っても抱く思慕は甘酸っぱいものであったのか。果実と太陽といった相互作用は意識の時間的経過の素因として、酸味はその熟成の結果としての回顧的な青春性を漂わせている。

遠雷だポプラ並木の向うをごらん       昭和60年

デッサンの様な、散文詩的な印象鮮明な語りかけである。一直線のポプラ並木の向うにあるものとは、その存在が眼に見えぬ故に読みのベクトルが多様化されてくる。この様なリズム感をもった歌うような表現は、荻原井泉水が唱えた「自由律俳句は印象の詩である。・・・・・それを外的なリズムではなく、内在的なリズムで詠う」との下に、昭和初期の「層雲」の自由律俳句に多くみられた。代表例をあげてみよう。

額(ぬか)しろきうまの顔(かほ)あげて夏山幾重   和田光利  昭和6年
麦は刈るべし最上の川の押しゆくひかり         々    昭和7年

この様な朗誦に堪える作品が現代俳句に見られなくなって久しい。特に後句は芭蕉の「五月雨をあつめて早し最上川」の句よりも力強く生命力にあふれた作品として記憶されよう。

最後に、テーマ「夏」にそった圭之介の他の作品を掲げてみよう。

雲は完全燃焼したか夏の港          昭和28年
五月は指から蝶がしたたり落ちた       昭和55年
誰も憎めず鍬形蟲は木にいるだけだ      昭和59年
ひと夏すぎ 隅の埋まらぬ図残し       平成10年
七月の町が尽きる 海へ落ち         平成20年
暑く夕日が好み いつものまわりみち     平成20年

赤尾兜子の句/仲寒蝉

すこしずつ死ぬそらまめ色の埃吸い    『歳華集』

 昭和45年の作。この年、大阪では万国博覧会いわゆるExpo70が開催された。テーマは「人類の進歩と調和」、高度成長を遂げて日本全体が右肩上がりの時代であり、科学も技術も進歩あるのみという勢いであった。岡本太郎の太陽の塔が丹下健三設計のお祭り広場の大屋根を貫いてそのど真ん中に聳え立ち時代を睥睨していた。そう言えばあの塔の目玉をお騒がせ男が占拠した事件があったっけ。また三島由紀夫が割腹自殺をしたのは万博の終った直後だった。

私事になるが、当時大阪郊外の寝屋川市に住んでいた筆者は中学1年生であった。家族と2回、学校の行事として1回、合計3回万博会場へ見物に行った覚えがある。もちろん太陽の塔の中に入り生命の樹も見た。ちなみに『本格科学冒険漫画20世紀少年』の作者、浦沢直樹は昭和35年1月生まれだから当時小学5年生だった筈だ。

この頃、兜子は神戸に住んでいたので当然万博会場にも足を運んだろう。『歳華集』には「万国博一句」の前書で次の句がある。

竹秋知らぬ黒人人の渦を見る

あれだけ大勢の外国人(当時は「ガイジン」と言っていた)を間近に見ること自体が大部分の日本人にとって初めての経験であった。失礼な言い方かもしれないが黒人を見る我々の目はまだ好奇の思いに満ちていた。金子兜太の

どれも口美し晩夏のジャズ一団

も昭和43年刊の第3句集『蜿蜿』に収められているので制作年は近い。この句のジャズ歌手達も当然黒人であったろう。

さて掲出句はこの万博の句の3句後に位置する。この年の句は「梨の木木」という章に48句収められているが、最初の14句は兜子初めての欧州旅行に取材したものである。帰国後の作として先の万博の句の他に

まぶし空豆科の少年浸さるる
蒸発の男梅雨の青錆見あるくか
過愛の子切る犬の耳の血暑さ纏く

などが並ぶ。「豆科の少年」とは今で言う草食系男子のようなものだろうか。いくら「浸さるる」と言っても実際の豆のことではあるまい。「蒸発」とは懐かしい言葉。確か昭和42年刊の夏樹静子の小説『蒸発』に由来する言葉で流行語になった。ある時家族や社会とのつながりをふっと切って、荷物や部屋はそのままに人が突然いなくなってしまう。今でもそういう事件はあるのだろうがこの頃一種の流行のように増え社会問題となっていた。「過愛の子」はいわゆる過保護か。過保護という言葉も高度経済成長の後の少子時代を反映するもので、ちょうど1970年頃から使われだしたと記憶する。今も犬などの小動物を虐待する病んだ精神の子供が話題になるけれども、その淵源はこの時代にあったようだ。

こうやって見て来ると少なくともこの頃の兜子の俳句は実によく社会の動きを反映しているのが分る。その中に掲出句も置かれているのだ。それを念頭にこの句を読み解いてみよう。

まず「すこしずつ死ぬ」のは誰か。大勢いるうちの少しずつと言うことだろうから恐らく世間の人、人類と考えるのが順当。或いはもっと広く生きとし生けるものか。「吸い」は呼吸しているという意味だろうからそういうことになろう。では「そらまめ色の埃」は何だろうか。ここからは推測になってしまうが筆者は光化学スモッグや大気汚染のことを指しているのではないかと考える。どこにも夏を示す語はないけれども(「そらまめ色」は勿論空豆ではないから季語にはなり得ない)このスモッグがよく発生する夏の句として見たい。

光化学スモッグ、不謹慎ながら懐かしい響きである。初めてこの言葉が一般に使われたのが1970年7月であった。杉並区の高校のグラウンドで体育の授業を受けていた女子高生数十人が倒れて病院に運ばれ、その原因として光化学スモッグが挙げられたのだ。先述のように当時筆者は大阪郊外の中学校の陸上競技部に所属していた。これ以来1970年代を通して首都圏や関西圏などで光化学スモッグによると思われる眼がちかちかする、咽喉が痛いなどの症状を訴える人が急増し、部活の練習を始める前に今日は注意報が発令されていないかどうかを必ず確認していた覚えがある。

光化学スモッグは自動車の排気ガスや工場の煤煙などに含まれる光化学オキシダントが原因とされるがそれ以外の大気汚染もまた深刻化しつつあった。四大公害病といえば水俣病、イタイイタイ病、第二水俣病(新潟阿賀野川)と四日市喘息である。他の三つが水質汚染なのに対し四日市喘息のみが大気汚染に基く公害で、ちょうどこの句が作られた頃は四日市コンビナートの企業を相手に所謂公害裁判が争われていた時期に当たる。1970年代は高度成長を成し遂げた日本が万国博覧会を通じて世界にその経済力、技術力をアピールした時代である一方、高度成長の負の面である公害問題がクローズアップされた時代でもあったのだ。『歳華集』には「四日市一句」の前書でこんな句もある。

 昼月食う火焔煙突群の妙な街

筆者は高校時代も陸上競技を続けていたが、高校3年生だった昭和50年のインターハイですごいことが起こった。四日市工業の2年生選手が800m、1500mの中距離で二冠を達成したのである。中距離種目はトラック競技の中では最もきつく2種目に出場すること自体が驚異的だったから彼はたちまち陸上界の希望の星と目された。この選手は翌年も同じ2種目で優勝し、天才ランナーとして我々陸上少年から尊敬と羨望の目で見られることとなった。彼の名前をやがて一般の人達も、世界中もが知ることになる。悲運のマラソンランナーとも言われた瀬古利彦こそその人である。

思えばこのように世界を代表するマラソン選手が育ったことは喘息公害の町四日市にとって名誉であり明るい話題だった筈だ。兜子のこの句を読むと筆者には「そらまめ色の埃」はやはり粉塵や光化学オキシダントなどの公害源となる物質を指すとしか思えない。その埃を瀬古もこの時代を生きた人々もみんなが吸い、そうして生き延びたのである。

上田五千石の句/しなだしん

山開きたる雲中にこころざす     五千石

第二句集『森林』所収。昭和四十九年作。

『森林』(*1)は、昭和四十四年より昭和五十三年まで、三十六歳から四十五歳までの作品254句を収録する第二句集。

前回、五千石は俳人協会新人賞受賞後スランプに陥り、その後ひとりで山歩きをはじめたことは書いた。掲句はちょうどその頃の作品で、山開きの句である。

ちなみに前述のスランプの影響はこの第二句集『森林』の前半に顕著で、たとえば昭和四十五年に残された句はわずかに8句で、この年には夏の句は一句も無い。

さて、五千石は著書 『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』(*2)の「自作を語る」の中で、掲句について次のように記している。

山麓に永らく住んでいながら富士山の「山開き」に参じたことがないのはいけない、と

発心して、この年から毎年七月一日浅間大社でのその神事に拝し、身の祓いを受けて

一番バスで登山することに決めたのです。

しばらくは単独、あるいは家妻同行でしたが、俳句の仲間、山の友達などが加わるように

なり、いまでは私の主宰誌「畦」の三大行事となり、登山バス三台が用意されるようにまで

なりました。

スランプ克服の山歩きは富士登頂に、単独行から仲間と連れ立ってのイベントに、曳いては結社の行事にまでなったという、五千石の初志貫徹の心を表すようなエピソードである。

なお、文章中の「いまでは」とは、この本の初版の刊行年から1990年(平成2年)のことになる。つまり、昭和四十九年からこの平成二年時点までに、16年富士登山が行われたことになる。

掲句の翌年、五千石は主宰誌「畦」を創刊する。仲間が増えることは嬉しいことだが、結社誌ともなれば、それに伴った責任も問われることになる。

この句の「雲中」は手探りの五千石の胸中、「こころざす」は、それでも一歩一歩進もうとする意志と読むことができる。


*1 『森林』 昭和五十三年十月十日 牧羊社刊

*2 『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』平成21年11月20日 角川グループパブリッシング刊

三橋敏雄の句/北川美美

天地や揚羽に乗つていま荒男

「一寸法師」の話。鬼から姫をお守りした一寸法師は小槌の魔法で立派な青年になり姫と夫婦になれた。しかし、倉橋由美子の『大人のための残酷童話』―「一寸法師の恋」では残酷な続きがある。姫は夫である一寸法師の肝腎なところが一寸法師であることに満足できず、姫は一寸法師と罵り、小槌で叩きあう夫婦喧嘩に。互いに小槌を振り回し、二人は、またたくまに塵ほどの大きさになったという結末である。掲句は、残酷童話の後の一寸法師を詠っているように思えた。姫の支配下から解放され、悠々と空を羽ばたいている一寸法師を想像する。

揚羽は揚羽蝶のことで季節は夏だが、この句は夏を意識していない。蝶の飛ぶ姿が浮遊する魂を天界に運ぶとされた意味、自然界の魔性を感じる不思議な羽の文様の方に注目すべきだろう。

一寸法師は、『御伽草子』の中の登場人物であるが、上掲句が収録される『眞神』には、先の第八回テーマ「肉体」―文中引用句「肉附の匂ひ知らるな春の母」で触れた、一寸法師サイズ、生を受ける前の視点で詠まれている句がある。

霧しづく體内暗く赤くして
産みどめの母より赤く流れ出む
身の丈や増す水赤く降りしきる

そして、母への思慕、エロスへとつながる。

夏百夜はだけて白き母の恩

夏百夜の句は、母者物といわれる母親に女性の性を詠んだ句で、人気のある句である。こちらの方が敏雄の夏の句として代表的かもしれない。色紙にも好んで揮毫したようだ。

句集『眞神』の中の句はどれも一句として独立しながら、無季句をより際立たせるかのように配置の工夫がされている。そして赤子、父、母、たましい、山、川、石、赤・・・「眞神曼荼羅」を巡る題材が詠みこまれている。連句の手法である。

「明治時代に連句が滅びた理由なんていうのは、もう完全なマンネリズムの集積だよね。いろんな約束が多いから、それに則ってやってったら、いくら変化を重んじるっていったって、変化しないわけだ。あたらしい俳句のひとつの方法として、歌仙なんて形ではない、新しい形の「連句」っていうのを考えてみてもいいね。それは、新興俳句のときの連作と、どこかでつながってくるんですね、ですから連作と連句の両方を合わせた新しいスタイルができれば面白いと思うんですよ。僕の『眞神』っていうのは、連句の付け方のいいところをとってやっているわけですよ。これは読んでいれば仕掛けがあるなって分かる。言われちゃうとまずいんだけれど(笑)。同じことをずーっと並べるんじゃなくて、一句一句違った世界が響き合うように並べていくと。」(『恒信風第二号』三橋敏雄インタビュー(*1)

上掲句に戻る。「天地(あめつち)」は、「自由の天地を求めて旅立つ」「新天地」の天地、あるいは宇宙。そして「荒男(あらお)」は万葉の言葉であり、「荒々しい男。勇猛な男。あらしお。」(デジタル大辞林)という意味。明治~昭和の登山家・随筆家である小島烏水の『梓川の上流』に「北は焼岳の峠、つづいては深山生活の荒男の、胸のほむらか、」という雅なしらべがある。そして白泉にも、荒男の句がある。

この子また荒男に育て風五月 渡邊白泉

そして、蝶に乗ると言えば、この句。

ひかり野へ君なら蝶に乗れるだろう 折笠美秋

蝶に乗るのは女とは限らない。たったいま魔性の揚羽に乗った男、「いま荒男」は、一寸法師改め、宇宙に存在する生まれてこなかった赤子のたましい、死児の視点を描いたように思える。『御伽草子』の一寸法師も元々は水子、あるいは死児の話かもしれない。


*1)『恒信風第二号』三橋敏雄インタビュー/聞き手:村井康司、寺澤一雄、川上弘美

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