―テーマ:「夏」その他―
執筆者:堺谷真人・池田瑠奈・岡村知昭・深谷義紀・飯田冬眞・横井理恵・清水かおり
堀葦男の句/堺谷真人
漬け西瓜くるりくるりと濡れ難し
『火づくり』所収の句。1949年から1952年の作品から成る「水の章」から。
井戸や水を張った盥に西瓜を漬け、冷やす。電気冷蔵庫が普及する前の、夏の風物詩である。未熟な西瓜は沈み、熟した西瓜は浮く。食べ頃は水面から少し顔を覗かせるくらいのとき。ぽっかりと浮き上がる西瓜はもはや水分が抜け、鬆(す)が入っている。葦男の前にあっていくら押しても沈まない西瓜は、残念ながら食べ頃を逸していたらしい。
葦男を講師とする月例句会に参加して間もなく、筆者は先輩から句集『朝空』を貰った。1987年のことである。『朝空』は1984年刊。『火づくり』、『機械』、『残山剰水』、『山姿水情』の既刊4句集からの抜粋に、『火づくり』以前と『山姿水情』以降の作品を加えた300句から成る、葦男生前最後の選集である。「漬け西瓜」の句に出逢ったのはこの『朝空』を読んだときであった。
この連載の第1回でも触れたように、「前衛俳句の論客」という肩書きから漠然と圭角ある人物を想像していた筆者の先入見は、葦男その人との初対面の段階で払拭されていたが、胸中には尚お一抹の疑団が残っていた。「とはいってもやはり前衛俳人。きっと書くものは詰屈聱牙(きっくつごうが)に違いない」と。
そんな筆者の前にぽっかりと浮かび上って来たのが、冒頭の句だったのである。
庶民的な素材と飄逸なタッチ。「くるりくるりと濡れ難し」には西瓜と悪戦苦闘する人の姿まで見える。的確にしてユーモラスな表現である。そして一句に横溢する真夏の季節感。無季俳句をもって盛名を得た俳人が、かつてこのような句をものしていたことに、筆者は驚きかつ安堵した。
『火づくり』には外にも西瓜の句がある。
満身を没し西瓜の楽々と
「水の章」に続く「地の章」(1952年~1956年)にある句。こちらは完全に水中に沈んでいる西瓜である。「楽々と」という措辞には、まるで作者自身が風呂に漬かっているかのような体感がある。漬け西瓜と合一した至楽の境地である。
ところで、西瓜といえば、前衛歌人の塚本邦雄はこのウリ科の一年生果菜が大の苦手であった。随筆『ほろにが菜時記』にいう。
西瓜が大嫌いで、見てもぞっとし、臭いをかぐと嘔吐を催す私は、夏三月、秋三月、何よりも無花果を賞味する。
塚本邦雄は葦男と交流があった。1963年5月の『十七音詩』25号<火づくり特集号>に「俳風プロメテウス」と題する熱烈な一文を寄せているくらいである。葦男は、前衛短歌の壮麗なる大伽藍を建立したこの歌人が西瓜を嫌うことかくも甚だしいことを、果たして知っていたのであろうか否か。
永田耕衣の句/池田瑠那
うつうつと最高を行く揚羽蝶
「うつうつと」を「鬱鬱と」と読めば――、気が盛んにのぼるさま、又は気がふさいで楽しくないさま、と取れ、平仮名そのままに「うつうつと」と読むならば、うつらうつら、半ば覚め、半ば眠っているさま、と解釈出来る。(「広辞苑」による)掲句の「うつうつと」は、この3つの意味を重ね持つ、トリプルミーニング掛詞と、取りたい。そもそも「鬱鬱と」の辞書的意味からして、相反する意味を兼ね備えている訳だが。
「最高を行く」という語もなかなかの曲者であるが、ここでは揚羽蝶の飛翔能力の限界の高度を行く、と読んでみる。比喩的には、人間が何らかの能力を最大限に発揮し、我を忘れて物事に打ち込んでいる状態、とも読めるだろう。
実は掲句は「揚羽蝶」を主題とした連作21句のうちの1句である。この句の直後には、
最高に出て羽いそぐ揚羽蝶
最高を直ぐ降りかかる揚羽蝶
の2句が並んでいる。「最高に出て」の句は、「最高」の状態に至った時の心逸りを捉え、「最高を直ぐ」の句は「最高」の状態が永くは続かないさまを詠む。そして掲句は「最高に出て」から「直ぐ降りかかる」迄の、玉響の純粋な「最高」状態、一種神がかり的な状態を切り取った句と言えよう。思えば揚羽蝶も人間も「最高を行く」者とは気炎万丈でありながらその反動のように重い気鬱を抱えるものではないだろうか。また、その心理状態とは何処か現実味を欠く、うつらうつらとしたものなのではないだろうか――。
句を味わうことで、読者は目映い夏空の「最高を行く」揚羽蝶の心理を我が事のようにまざまざと体感させられる。それにしてもこの「最高を行く揚羽蝶」、何かの均衡が崩れれば、忽ち死の世界に攫われそうな危うさが感じられる。蝶が、伝統的に死者の霊魂と結び付けられた昆虫だからだろうか。神に愛され過ぎ、目には見えぬ死の捕虫網に早々と捕らえられた、夭折の天才の誰彼……「最高」の更に高きへと連れ去られた者達の面影も浮かんで来る句。(昭和27年刊『驢鳴集』より)
青玄系作家の句/岡村知昭
炎天に水あり映らねばならぬ 神生彩史
昭和24年(1949)「青玄」創刊号掲載。掲出句を含めた作品によって第一回「青玄賞」を受賞、昭和26年(1951)2月号に掲載の受賞作50句にも収録。ちなみに歴代の「青玄賞」受賞作を収録した『青玄賞青玄新人賞作品集』(平成10年9月、青玄俳句会)には未収録である(全作品を30句に統一したせいと思われる)。
厳しく照りつける夏の日差しの下にようやく現われた「水」。それが洗面器いっぱいに張られて、静かにたたずんでいるものなのか、野山のとある一角に突如現れ、今もなおこんこんと湧き出でる泉なのか、それとも流れのとどまることを知らない川なのか、もしくは眩しく目の前に果てのないかのように水平線いっぱいに広がる海なのか、そのあたりはともかく目の前にはまぎれもなく「水」があり、水面にはまぎれもない己の顔が映し出されている。炎天から降りそそぐ夏の輝きが全身に痛いぐらいに感じられるこのときに出会う「水」は冷たさとともに、自らの心を和ましてくれる存在であるはずでなくてはならないのであるが、掲出の一句において「水」に出会ったこの人物は水面を覗き込んで己の顔に向かい合った瞬間、本来あるはずの何かが映っていないとの疑問に強く襲われ、水面の己の顔をさらに見詰めなおしたのだろう。そしていきなりの疑問を懸命に突き詰めた果てに、本来あるべき何ものかが今ここに存在していないとの確信をはっきりと得てしまったのである。そうでなくては水面に向かって「映らねばならぬ」との痛ましいまでの願いを自ら口に出してしまうまでには、決して至らなかったはずだから。
ではこの瞬間、この人物にとっては何がいったい「映らねばならぬ」のだろうかと考えてみると、「水」に映る己の顔を真っ向から見つめ続けてしまっている自分自身の姿であろうことは容易に想像がつく。もちろん水面を覗きこんだときに自分の顔や身体が映っていないはずはないのであるが、水面という鏡を通じて露わにされた自分の表情や現状などすべてを含んだありように対して、どうしても納得できない己が心のざわめきは「違う、真に映るべきはこのようなものではない」との呟きを幾度も水面から視線を放せなくなってしまっている自分自身にもたらし、「わたしは今、いったい何ごとかを為しているのか」との問いを水面に映りこんでいる己の顔に、すなわち本来あるべき姿ではない(と思われてならない)自分自身に向かって突きつけてしまうのである。だが水面に映る己の顔からは決してこの問いに対する答えは返ってくることはない、もちろん問いを発した自分自身こそが、そのことをいちばんよく分かっているはずである、自分自身への凝視がもたらした存在への問いを、さらなる凝視を通じて突きつめようとすることこそ、水面に映る己の顔、すなわち今の自分自身のありようへの何よりの答えであるはずだからだ、たとえその答えが余りにも過酷なものとして自分に突きつけられようとも。
戦前、新興俳句の最前線にあった日野草城の「旗艦」において彩史は「自画像」との前書のもと「あんなに碧い空でねそべつている雲」と詠んだ。それからの転変についてはここでは触れないが、自ら雲となって「ねそべつて」いたひとりの男性が、己の存在のありようを凝視するまなざしをもって見ようとしていたのは、碧い空に白い雲を味わうだけでは済まなくなってしまった自分自身のありようであったことは想像に難くない。「青玄」創刊号に寄せた作品には、その変化からもたらされた作品に対する自負もうかがえるところだが、作品への評価はひとまず置いて、ここは創刊号掲載されたの掲出句以外の作品を引用するにとどめたい。(漢字は一部新字体に改めた)
荒縄で縛るや氷解けはじむ
昆虫の仮死へ一気に針を刺す
深淵を蔓がわたらんとしつつあり
痰壷をあはれ覗けり油虫
成田千空の句/深谷義紀
水着緊むる雪国の肌まぎれなし
この企画の冒頭に採り上げた「成田千空の感銘句」では、3句のうち夏の句が2句を占めた。
空蝉の脚のつめたきこのさみしさ
妻が病む夏俎板に微塵の疵
個人的には、どうも千空作品の中で夏の句に惹かれるものが多いようだ。短い夏に強い存在感を示す北国の事物や生き物たち。おそらくは読む側の勝手な思い込みだろうが、作者がそうした対象へより強い愛惜を注いでおり、それが印象深い句に結実したように感じてしまう。
さて、掲句。第1句集「地霊」所収の作品である。
津軽に生まれ、その地に生きてきた千空の強烈な自意識を感じざるを得ない。雪国青森に生きる自己という存在の再確認と言ってもよいかもしれない。眼目は、その再確認を自分の肌という肉体を通じて意識にのぼらせ表現したことであろう。ほかでもない自分自身の肉体からそうした意識が生れた、あるいは再認識をしたわけである。そのことが作品に強いリアリティをもたらし、印象深い句となったのだと思う。
この句の主体を自分以外の第三者とし、作者がそれを見て客観的に作品を成したという解し方もあるかもしれないが、ここではあくまで主体は作者、千空自身だと考えたい。そうでなければ、前述したような強固な自意識が生まれないからである。
「風土」概念が持つ様々な意味については、この企画でも活発な議論が別途行われている。
千空の作品についても「風土色の濃い作品」であることは間違いないが、千空自身が所謂「風土(性)俳句」と一線を画していたことは以前に述べたとおりである。千空自身にとって大切だったのは、一人の人間として今をいかに生きるか、ということだった。その創作過程のなかで生活根拠たる居住地(千空の場合は津軽)の環境が色濃く投影され、その土地の事物を句作の対象として採り上げるのは自然な帰結であろう。もちろん創作態度として抽象性を志向すれば、そうした影響はおのずと減じてくるのだろうが、千空はそうした方向性を採らなかった。あくまで具体的な事物を対象として採り上げ、平明な表現で作品を生み出していったのである。
千空自身の創作スタンスはかなり柔軟であり、晩年も新しい素材や表現に関心を持ちながら作品を生み出していった(注)が、「いかに生きるか」という命題を自己に問う態度は最後まで一貫していたのである。
(注) 第6句集「十方吟」あとがきより「月に八回の俳句教室を担当して、私自身の作風に幾らかの変化を自覚した時期の作品といっていいように思う。(中略)自由な発想と確かな表現を受講者たちに望んだが、それは自身の課題でもあった。」
齋藤玄の句/飯田冬眞
炎天といのちの間にもの置かず
例年にも増して、今年の夏は暑かった。筆者の住む東京都練馬区では、37度を記録したという。そこで、今回は、夏の一句ということもあり、「炎天」の句をあげてみた。
掲句は、昭和22年作、句集『玄』(*1)所収。
いつもの如く、まずは自註を見ていく。
「死の如し」百句中の句。灼けた天蓋と僕のいのちは直通するものである。その間に何ものの存在も許さない。死への没入は独断である。(*2)
掲句は連作「死の如し」九十七句中の一句。自註では「百句中の句」としているが、句集では「九十七句」とあり不審に思っていた。雑誌掲載時と句集収録時とで句数が違うことはよくあることだが、確証がなかった。今回、俳句文学館の井越芳子氏の協力を得て、初出の「壺」昭和22年12月号の該当箇所を入手。掲載時の百句と句集のそれとの異同を確認することができた。やはり、句集収録時に三句落としたようだ。(*3)
誌面を借りてあらためて、井越氏にお礼申し上げる。
さて、掲句であるが、下五に〈もの置かず〉と据えたことで、焼付く夏の太陽の熱気が空一面に充満し、息苦しささえ感じる〈炎天〉がリアルに立ち上がってくる。まるで〈炎天〉と〈いのち〉とが直結しているような印象を〈もの置かず〉と据えたことで与えているように思う。そうした〈炎天〉のありようがみえてきて普遍性を獲得している。中七の〈間〉は「かん」と読む。〈炎天といのちの間にもの置か〉ないこと、それがすなわち「生」(リアル)であると述べているのだ。あるいは〈炎天〉にさらされる〈いのち〉が「生」であり、〈もの置〉く状態が「死」ということかもしれない。どちらにせよ、間接話法によって、観念である「死」の実感を描いて見せようとした点にこの句の面白さがあるように思う。
さらにいうならば、この句は玄の作句心情を詠んだものともいえる。いうまでもなく「炎天」は季語であり、観念である。俳句とはこの観念を通じて詠み、読み合うものである。「季語と向き合う」という言い方を俳句の世界ではよく使う。一方で「ものをよく見る」「見えたものを的確に写し取る」という言い方もよくされる。だが、実は「季語」と向き合うということは歳時記に記載された観念の集積である先行句と目の前にある対象との差異を発見することに他ならない。いわば観念と自分との間に先行句というものを置いてなぞることで一応俳句らしいものはできあがる。だが、それは観念をなぞっただけのもので、自分の俳句ではなくなるのだ。季語という観念といのちという実態との間に〈もの置かず〉という「真空の場」を設けること。そうした、当時の玄の作句信条が掲句に読み込まれていると解釈することもできる。
こうした玄の俳句に対する姿勢は、当時、永田耕衣らが提唱した「根源俳句」の影響を少なからず受けているように思われる。あまり知られていないことではあるが、永田耕衣は昭和22年8・9月合併号から「壺」の同人として参加している。
西東三鬼の推薦で山口誓子の「天狼」同人となるのが昭和23年5月号からなので、「壺」在籍期間は一年にも満たない。しかし、その後もしばらくは交誼が続いたらしく、「壺」昭和23年7月号には「生命往来」と題して、玄と耕衣の往復書簡が掲載されている。当初連載の予定であったらしい。ただその日付が「五月二十九日」で、「鶴」「風」同人を辞める前後のことで、この号以降、耕衣との往復書簡が掲載されることはなかった。その書簡のなかで耕衣は「ご存じのように僕は『根源俳句』を提唱し主に波止影夫氏と肝胆相照らして多少の実践をして来ましたが、そして根源俳句は象徴俳句とはいさゝかその意を異にしてゐますが、この根源俳句といふものに早くも行詰りを感じそめました」と心情を吐露している。その理由として「現象の根源を把握しなければ真に生命に直面し生命を痛感することは不可能であると信じて」いるが、「捉へるといふこと、捉へたといふことにおいて囚はれ易いと思ふ」と述べている。その打開策として「根源に住し切った場所で自由に優遊するところがなければならぬ」としている。
それに対し玄は、耕衣の言う「根源精神に住し優遊すべき方法」とは具体的に何かを問うている。「物象を根源より求めず、常識的に実想観入」するという「表面より徐々に凝視を連続してゆく方法」との違いを「如実に知りたい」とも。「私は根源俳句といふものは結末ではなく一つの方法論として考えたい」と立場を明確にしている。耕衣は書簡のなかで、「僕の根源俳句は『生命の痛感』といふこと」で、これを「生命主義」あるいは「人生主義」と言ってもよいという。さらには自作の「見る者がつぎつぎ違ふ揚羽蝶」をあげて、「何かしら身を切られるような生命の切ない痛感があると見て戴けないでせうか」と訊ねている。玄は「生命の切なさといふものはうたはなければ流れ出さないもの」という認識を示し、「生命の切なさは根源探究に限って恵与さるべきものではない」と根源俳句の限界を喝破している。「大兄は大兄、私は私、生命の切なさは切つても切れぬものですから、これを俳句と同義なりと思ひ、これに生涯を托するより途は無いやうです」と結んでいる。ここからも分かるとおり、玄は「根源俳句」の影響を受けつつも独自の生命観で俳句と向き合おうとしていたのである。
明日死ぬ妻が明日の炎天嘆くなり 昭和41年作
その後、玄は昭和28年に「壺」を休刊。妻節子が昭和40年に癌を発病し、その葬送までの顛末を克明に描いた連作「クルーケンベルヒ氏腫瘍と妻」193句をまとめるまで、俳壇的には長い休筆期間に入る。その連作中の一句。破調であることで、〈明日死ぬ妻〉の嘆きと〈炎天〉のすさまじさ、「生命の切なさ」が切実に伝わってくる。
炎天を墓の波郷は立ちてをり 昭和45年作
前書「深大寺展墓」師石田波郷を前年の昭和44年11月に見送って、最初の夏の句。「炎天や」とせずに〈炎天を〉としたところに俳句形式へのあらがいと情感に流れまいとする矜持を感じる。「炎暑の中を波郷の墓に詣でた。立っている時間よりも臥していた時間が多かった波郷は、墓に化して永久にたち続ける」という自註(*2)の文章にも「生命の切なさ」がにじみ出ている。
炎天や病臥の下をただ大地 昭和53年作
炎天下歯ぢからといふ力失せ 昭和53年作
雀らの地べたを消して大暑あり 昭和53年作
『雁道』所収の晩年の三句。一、二句目は「死」を観念として捉えていた頃に比べるとわかりやすい。だが、〈もの置かず〉の矜持は崩れていない。
三句目の〈地べたを消して〉が雀さえも遊ばなくなった〈大暑〉のすさまじさを伝える。
玄にとっての夏は〈炎天〉に象徴される観念(死)と〈いのち〉が切なくも向き合う季節だったのかもしれない。
*1 第3句集『玄』 昭和46年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載
*2 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊
*3 「死の如し(百句)」 「壺」昭和22年12月号(第8巻12号)所収
ちなみに、句集未収録句は「このいのち風鈴の音の散れる如」「破蓮へ音なく歩むことを得し」「破蓮女の声をとほすなり」の三句。百句の世界観に合わなかったと思われるが、三句とも「音」をモチーフにしているところが興味深い。
中尾寿美子の句/横井理恵
手をかざす卯波の沖へ晩年へ 『草の花』
『草の花』は寿美子五十台後半から還暦前後までの句を収めた第三句集である。句集全体の印象を一言で表すなら、「淋しい」であろう。身近な人々の老いや死に寄せる思いと、自らの老いを見つめるまなざしには、淋しさが満ちている。旅行吟などで夏の句はあるのだが、句集全体の印象は「秋から冬」そして「まだ浅い春」といったところである。
その中で、夏の句を取り上げるとしたら、掲句だろうか。「今も沖には未来あり」といった青春性だけでなく、遥か沖を見はるかすまなざしは、こうして、自らの老いを見据えるものでもあり得るのかと、はっとさせられる。「手をかざす」という行為には、単に目をやるだけではない意志の力がある。「老病死」の哀しみから目をそらさずに、「生」をかみしめていこうという姿勢が示されていると感じる。
晩年の眉消えかかる青葉寒
しなやかな脱け髪悼む晩夏かな
これらは、夏の句といいながら、生命力の衰えを感じさせる句であり、「夏の句」として掲げるには躊躇してしまう。若い時には艶々とした黒髪を誇りにしていたからこその嘆きなのだろう。現代では還暦はまだ現役真っ盛りという気がするのだが、寿美子にとって、人生の夏は、もう過ぎ去ったものとして捉えられていたようだ。
寿美子は、この句集『草の花』でとことん「哀しみ」や「淋しさ」と向き合う。そして、第四句集『舞童台』以降、何かから抜け出したような「明るさ」と「勁さ」を備え始めるのだ。
誰がこゑか泰山木にきて咲けり 『舞童台』
長生は滝より滝へ懸りけり 『老虎灘』
定型の中に暫く虹立てり 『新座』
具象とか客観とか、そんな重力から解き放たれた「夏」が、これらの句には輝いている。偏在する寿美子の精神が捉えた「夏」である。この自在さの境地に至る道は、あの時に見据えた、卯波の遥か沖の晩年、そこへの一歩を踏み出した時に始まったのだと思う。(了)
戦後川柳/清水かおり
夢売りに暫く逢わぬ夏峠 長町 一吠 (1933年~2000年・岡山)
長町一吠句集『沖』(1999年刊行)の最初の章「夏草」には、昭和62年の作品が掲載されている。一吠は54歳。ちょうど人生の折り返し点ともいえる頃の作品であり、年齢的にも「峠」という感覚がしっくりくる。
掲出句の「夢売り」は現実には存在しない者だ。しかしこの作品を読むと夢売りは確かな輪郭を私たちに見せる。50歳を過ぎた男が出会う夢売りとはどんな夢を売りに来るのだろう。金子みすゞの詩にあるような無邪気な童心の中の「夢売り」とは違い、現実世界の狭間にある、自己へのあらゆる問いかけがとりとめもなく迫ってくる感覚を伴う夢ではないだろうか。「夢売り」ということは一方は贖うのである。無償ではないその感覚を作者は待っていたのかもしれない。夢は欲望の片鱗でもある。
ここでの「逢わぬ」の句語の使用は夢との逢瀬を連想させ、円熟した柳人の技巧を思わせる。「会わぬ」では叙情が削がれるとわかっている。あくまで内面の厳しさや虚無を抒情詩として完成させようという句姿である。「夏峠」を心象風景と断言するのは柳人の偏向かもしれないが、読者に受け取ってもらいたいのは夏のあの空気の密度と峠の越え難さの感覚だけであろう。その中で自分のためにやって来る夢売りを想像し続けるのだ。
長町一吠は、昭和32年に川柳岡山社の同人になり、その後、せんば川柳社、平安川柳社、展望社、新京都社、そして現代川柳新思潮と歩む。作風は短詩としての川柳に人生を重ねる書き方を貫いている。一吠の伴侶である西条真紀も全国に名前を知られた柳人だ。句集『沖』には川柳作家である妻への深い愛情を詠んだ句が多く、同じ「夏草」の章の
囃されて妻は妻とて闇遊び
翔ぶと墜ちる翔ぶと創つく妻の羽
夏草のなかで仏を探す妻をさがす
などを読むと一吠の心にある夏の部分は、妻真紀への相聞によって埋めつくされているのかもしれないと思った。