戦後俳句を読む(第11回の2) ―テーマ:「秋」その他―

―テーマ:「秋」その他―

近木圭之介の句/藤田踏青

小さな秋が来たあんたもブラックでいいか

 掲句は平成20年作の「層雲」所載の圭之介96歳の作品である。圭之介はコーヒーの抽出方法や豆にこだわりがあり、居宅を訪れた客に対しても常に自らコーヒーを選択、抽出をしてもてなしていた。私も圭之介居を訪問した際にそのような供応を受け、ブラックをお願いした記憶がある。小さな秋とブラックコーヒー、その対置は少し甘いが、なんとも散文詩的に軽やかに問いかけているではないか。そしてその口語自由律の表現の自在さがその最晩年(翌年に97歳で逝去)の融通無碍の境地にピッタリとはまっているように思える。文語定型ではその情景に接近しえない方法であろう。尚、圭之介の好きな画家はブラック、佐伯祐三、三岸節子などで、好きな音楽家はショパン、マーラー、ベートーベンなどであったそうである。安楽椅子に腰かけてレコードを聞きながら画集をひもといている姿が目に浮かぶ。因みに砂糖を加えないもののみをブラックとするのは、日本の用法であり、英語のblackとは単に乳製品を加えないことをいい、砂糖の有無は問わない由。

熟れた木の実の中は克明に書いた手帖に似ている   昭和52年
黄色い並木に私が紛るそれだけのこと        昭和56年

 画家でもある圭之介が対象を観照しその本質を描けばこの様になるのであろう。デッサン風の前句からは、自然界の木の実の溢れるような生の緻密さと、克明に書いた手帖から人間の複雑な社会生活へと思いを至らせる事によって、生きるというある種の哀しさが導き出されているように思われる。後句は公孫樹並木であろうが、その眩いばかりの黄葉の輝きの中に埋没する自己、そして舞い散る木の葉にも隠されてしまうであろう存在の微小さ危うさからの自己省察が垣間見られる。

きれいな肺が月を呼吸する             昭和42年
食器重ね秋肺まで明るい              昭和53年

 篠原鳳作は「しんしんと肺碧きまで海の旅」と真昼の南の大海原を詠んだが、前句は夜の下関海峡での感慨であろう。鳳作の句に於いては海の青でも蒼でもない、碧が肺いっぱいに満ちてくる青春性に富んだ拡大する光景だが、圭之介の句に於いては老年に至った心身が月の微かな輝きに照らし合う如く、静かに肺が呼吸をし、焦点が絞られた点景となっている。そして「きれいな肺」とは健康であると共に、しみじみとした夜気に満たされていることでもあろう。後句は真っ白な食器が洗いあげられ、重ねられる時の爽やかな明るい響きが肺の中まで明るくするという印象派風の様相であり、真ん中に置かれた「秋」の一字が上句と下句の次元の転換点として上手く機能している。圭之介に於いては肺はものを見、ものを聞くものでもあったのだ。

みちがなくて月ばかり               昭和50年

 山頭火ばりの六・五の短律句である。「て」は活用語の連用形につく助詞で、「ばかり」は体言の終止形につく助詞である。この様な一呼吸置いた二句一章的な手法は嘗ての「層雲」自由律俳句に頻出しており、所謂「層雲調」と呼ばれていた。それが良い意味でも悪い意味でも自由律俳句に辺境性をもたらした事は間違いない。

 圭之介にはこの他にも「月」の句が多くあり、抄出してみよう。

月から顔をはなして承知してくれてゐる       昭和8年
暮れずに壁 月になる               昭和19年
月をかおに別れとうない              昭和22年
砂丘、非具象の月が出ている            昭和37年
呆然 砂丘あまねく月となる            昭和38年
演技に体温なし 月浮かぶ             平成17年

 「月」はいつの時代もドラマ性を伴なってくるものらしい。

稲垣きくのの句/土肥あき子

まぼろしの狐あそべる花野かな 『冬濤』


振向けば花野の虚空うしろにも 『冬濤』
少女等の円陣花野より華麗 『冬濤』
花野きてけものの如く耳を立つ 『冬濤』
日と見しは月花野にて刻失ふ 『冬濤以後』
霧が溶く花野の色の流れだす 『冬濤以後』
死場所のなき身と思ふ花野きて 『冬濤以後』
壺の花に花野の風の通ふらし 『花野』
花野の日負ふさみしさは口にせず 『花野』

 きくのには花野の句が多い。

 生前最後の句集『冬濤以後』から没年までの19年間の作品をまとめた『花野』の編者西嶋あさ子氏によれば、「集名については『冬濤以後』の章名にも取られ、その後の特別作品にも使われていて、きくのさんに似つかわしいと思ってきめた」(編者あとがき)とある。続けて「きくのさんは、華やかで、さびしげで、かわいい面もお持ちであることは、作品が物語る」と続き、まさに光りと影の交錯する花野の人の像が結ばれる。

 掲句のまぼろしの狐は昭和38年、きくの57歳の作品である。

 きくのが疎開のため身を寄せていたのは、信州の小諸から一里半ばかりはいった浅間山麓の農村であった。信州には古くから「管狐(くだぎつね)」の伝承がある。広辞苑によると「通力を具え、これを使う一種の祈祷師がいて、竹管の中に入れて運ぶ」という。また、関東まで害が及ばなかったのは戸田川を越えられないためともいわれる。竹筒に収まるハツカネズミほどの小ささと、水を嫌うあまり勢力を広げない習性などを考えあわせると、なんとも可愛らしい狐の姿が浮かび上がる。もちろん、土地の者にしてみれば、「管持ち」「狐憑き」など、なにかにつけ身近に怖れられてきたのだろうが、おそらく他所から来ているきくのには、どこか可愛らしい狐の話しとして耳にしていたのではないかと思う。

 きらきらと日が射し、風にそよぐ一面の花野のなかでは、ものの影が自在に踊る。ざわめく風のなかで、ふと伝承の狐がきくのの胸に降りてきたのではないだろうか。

 管狐はたちまち75匹に増えるという。忌み嫌われている小さな狐たちを、せめてこの花野で遊ばせてあげたいというきくのの心が見せたファンタジーかもしれない。

 多く花野を詠んできたきくのの最後の花野は、昭和54年73歳の作品である。

花野見にゆくだけの旅支度して 『花野』

 もう一度、まぼろしの狐に会うための旅でもあったのかもしれない。

齋藤玄の句/飯田冬眞

空は散るものに満ちたり菊膾

掲句は、昭和49年作、句集『狩眼』(*1)所収。

下五の〈菊膾〉が秋の季語。「菊膾(きくなます)」は、菊の花びらをさっと茹でて、三杯酢や芥子酢であえたものをいう。苦味の中のほんのりとした甘みとシャキシャキした歯ざわりを楽しむ料理である。食用菊には2品種があり、刺身のツマなどに用いられる黄色の「阿房宮」と、酢の物などに用いられる赤紫色の「延命楽(もってのほか、かきのもと)」が一般的である。料理の「菊膾」に用いられるのは後者で、「もってのほか」は山形県の特産である。

筆者も以前、羽黒山の斎館を訪れた際に「もってのほか」を食したことがある。その時に居合わせた方の説明によると、芭蕉も食べた料理ということであったが、芭蕉が出羽三山を訪れたのは元禄2年(1689)の6月4日で、季節があわない。後で調べてみると、芭蕉が菊膾を食べたのは事実だが、場所は羽黒山ではなく、近江国(滋賀県)の堅田。時期は羽黒山を訪れた翌年の元禄3年9月のことであった。聞きようによっては、芭蕉が『おくのほそ道』の旅で、羽黒山を訪れた際に「菊膾」を食べたと思い込まないとも限らない。ものがものだけに、「もってのほか」と憤慨される方もいるかもしれないが、そこは観光客相手の営業トークと笑って済ませたい。

芭蕉が堅田で詠んだ問題の菊膾の句は、〈蝶も来て酢を吸ふ菊の酢和(すあへ)哉〉である。「菊膾」の文字は詠み込まれていないのだが、『蕉翁句集草稿』には〈蝶も来て酢を吸ふ菊の膾哉〉という別案が収録されている。また、「酢和(すあへ)哉」の句の前書きには、「湖上堅田の何某木沅(ぼくげん)医師の兄の亭に招かれて、みづから茶を立て、酒をもてなされける。野菜八珍の中に菊花の鱠(なます)なほ香ばしければ」(*2)とあり、確かに芭蕉が「菊膾」を酒のさかなにして食したことが分かる。

さて、ここまで、くどくどと「菊膾」の話をしたのには理由がある。歳時記の「菊膾」の項目をみるとたいてい芭蕉の〈蝶も来て〉の句が掲載されている。前書とあわせて考えれば、菊膾は酒とともに食膳にのぼるものであることが分かるだろう。菊と酒、すなわち九月九日の重陽の日に、菊の花を酒に浮かべて飲むと邪気を払い長寿になると信じられてきた慣習を下敷きにしているのだ。芭蕉の〈蝶も来て酢を吸ふ〉という句は、たまたま蝶がやってきて、菊膾の酢を吸ったという事柄を写しただけのものではない。余命いくばくもない秋の蝶が、延命を願って「菊の酒」を吸いに来たが、それは菊膾の酢だったよ、という哀れさと可笑しみがこの句の底に潜んでいるのである。そこを汲み取らなければ、この句の面白さは半減してしまう。「菊膾」の本意本情は、芭蕉のこの句が原型になっているのだ。

そこで、あらためて玄の句をみていこう。

〈散るもの〉に満ち溢れているのは、秋の空である。秋の空に〈散るもの〉といえば、真っ先に思い浮かぶのは、木の葉だが、言の葉、いのち、なども〈散るもの〉としてとらえられるだろう。ひとつのものが、ばらばらになって四方に飛び散る、あるいは、あたりにひろがって消えてゆくイメージが〈散るもの〉という語から感受できないだろうか。それは、まさに、いのちのかけらが秋の空に満ち溢れ、やがて消えてゆく情景でもある。そして、菊の花びらが湯の中に落ちて、身を翻らせて茹でられている光景にも重なる。長寿を願って食膳に出される〈菊膾〉を下五にすえたことで、〈空は散るものに満ちたり〉との取り合わせが鮮やかに見えてくる。命を終えて〈散るもの〉と命を永らえると信じられてきた〈菊膾〉との対比が秀抜である。いかに自己の思いを季語に託して象徴性をもたせられるか、との試みがうかがえて興味深い。〈菊膾〉には、ひとつのいのちは姿を変えて別のいのちにつながってゆく、という玄の生命観が象徴的に込められている。この句は季語の変革を志した玄のひとつの到達点といえる。芭蕉以来の「菊膾」という季語のもつ本意本情をみごとに更新させた秀句である。


*1 第4句集『狩眼』 昭和50年牧羊社刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 

*2  今榮蔵 『芭蕉年譜大成 新装版』 平成17年 角川学芸出版刊 所引

成田千空の句/深谷義紀

新藁を焼くはふるさと焼くごとし    『忘年』

多かれ少なかれ、どの俳人についても言えることだろうが、千空の句集を紐解くと採り上げる季題が時代とともに変化していくのが分る。なかでも顕著な変化を示すのが農業関連の季題であり、時代が下るにつれて急速に減少していく。これは、終戦後の一時期帰農生活を送っていた千空がその後離農したという個人的事情に加え、季語となっていた田園風景あるいは農作業が消滅していったという社会的環境の変化も影響しているのであろう。

それでも晩年に至るまで千空の創作意欲を刺激した、農業関連の季題がいくつかある。掲出句もそうした作品のひとつであり、収穫後の藁焼きが作品の対象となっている。

農作業の目的は、なんと言っても対象作物の収穫にある。とりわけ米の場合は主食であり、その実りが多ければ豊作を祝い、少なければ凶作、すなわち生存の危機に直面することになる。一方、藁自体はあくまで副産物に過ぎない。もちろん、かつてはそれなりの用途があり、俵の材料にしたり、馬小屋や牛舎に敷き詰めたりもしたが、所詮主役にはなりえない。しかし、そうした即物的あるいは経済的観点を超えて、新藁には一年間の農作業にまつわる様々な思いが凝縮されている。こう記すと、如何にも季題趣味だとの叱責が聞こえてきそうだが、それが実際の職業体験や生活感覚を結実させたものであれば、風雅を愛でるだけの季題趣味とは一線を画したものになる筈である。

新藁を焼くのは、千空の居住する五所川原近辺でよく見られる風景だ。かつては稲刈りを終えた後に急いで藁を焼き、男たちは出稼ぎに旅立っていった。本来ならば新藁は田に漉き込んで地味を整えるのがよいが、手間もかかるため専ら焼かれて処分されていたと聞く(現在では煙害として各地で条例による規制が行われている)。一年を通した農作業を終えて藁を焼く農家の男たち(そして女たち)の胸には、どのような感慨が去来しているのだろうか。

かつて千空は次のような作品をものしている。

藁焼きの胸のうつろを思ふべし  『人日』

一つの仕事を終えた安堵感と裏腹の寂寥あるいは虚無感だろう。

さらに千空は、その煙の中に家族や仲間の姿を認めた。

焚き添へてふくらむ藁火遠い母   『地霊』

千空にとって新藁は、こうした思いを包含する故郷の象徴であり、その存在の一部なのである。

戦後川柳/清水かおり

探す言葉は地中にありや半月光     長町 一吠
(1933年~2000年・岡山)

 「半月」は俳句だと秋の季語。この句は長町一吠句集『沖』の「雪降る村」に収載されている。

「雪降る村」は冬の風景を描いた句群かと思って読むと、これもあくまで心象風景の冬という、作者の心情にある冬のような寒々とした感慨のことであった。では「半月」とは秋を詠んだものではないのだろう、とすぐに結論は出たが、このあたりの言葉の扱い方に俳人と柳人の違いを見たような気がして選出した一句である。前回に続き、春夏秋冬をテーマにすると選句が俄然困難になると感じた。川柳には基本的に季節を詠む習慣がないため季節自体は多くの意味を持たないし、重要でもない。川柳は俳句で季語とされている言葉はよく使うが、時空の拡がりを表現するという意味合いを持たせている場合が多い。ある季節のある瞬間にいる人間というより、創作の過程に生じる感覚の比喩として季節の句語を使うのである。それは極端に言えば精神の中の季節感と言える。

「半月光」は言葉の意味では半月、弓張月の光と読むのだろうが、ここでは地中に潜ってしまった言葉に降り注ごうとする月光を思わせる。地中なのだから当然、月の光は届かないのである。しかし意識の中では半分ほどの弱い月光が生き物のように地中の土の粒子と粒子のわずかな隙間へ沁み込む様子が展開されていく。夜の地中は暗く寒く、この句が「雪降る村」に載せてあることに納得がいく。「雪降る村」とは一吠の「雪降る心」のことであろう。掲出句、月光も言葉も何度か読み返すうちに人の在り様にも思えてくる。具象的な読みと抽象的な読み、そんなものも合わせて考えさせられる句だった。

 長町一吠の句は現代川柳の流れでいうと、叙情派という位置になる。そこには必然として真実の心が添えられている。詩性川柳の傾向として多くの柳人の書き方にみられた「思いを書く」という書き方での上昇志向を目指した作家だと思う。

中尾寿美子の句/横井理恵

紅葉あかしあをし死ぬまで同じ貌      『天沼』

 第一句集『天沼』から引いた。

 寿美子の作品の最も早いものは昭和三十一年ごろ、「水明」系「石笛」に参加していた頃のものがある。句風は平明でおおらかであり、抒情性にあふれている。(テーマ「音」で引いた「春あけぼの」の句など。)その後、初めて師事した高木風駛の急逝に会い、秋元不死男の「氷海」に移る。

『天沼』の序文で、不死男は、次のように述べている。

 このひとはもとは「水明」育ちで、いい意味にも、悪い意味にも、「流す抒情派」であつた。そういう境地から、「堰く抒情派」に徐徐に変わつている。

 この変化は、昭和三十五年あたりからであるという。そして、抵抗的な詩感もしくは沈思型の作として挙げられているのが冒頭の「紅葉あかしあをし」の句である。

 「死ぬまで同じ貌」とは、誰のどのような相貌なのか。単に子ども時代からのアルバムを繰っていっての感想ととってしまっていいのか躊躇するような、すごみの感じられる句である。それは、「紅葉あかし」の後に「あをし」と続く破調と、透徹したまなざしのせいでもあろう。色を変える葉と変えずに終わる葉――両者に目を止め並列しつつ、「死ぬまで同じ貌」と一種突き放したような言い方をする。そこに、何か、出口を求めてもがく詩魂を見るような思いを誘われる。不死男の言う「堰く抒情」とは、平明さの先に「誰も作ったことのない俳句」を求められた寿美子の格闘から溢れてきたものなのだろう。(「誰も作ったことのない俳句」とは「氷海」の結社理念である。)

 英語で紅葉を Autumn leaves と言う。秋の葉――秋は木々が色を変える季節――。人もまた、変わりたいという思いを胸にする季節なのだろうか。その思いの反射が「死ぬまで同じ」という表現であったように思われる。

もう鳥になれず芒のままでゐる       『新座』

 最晩年の句を収めた第六句集『新座』――この句集に収められた作品の多くは、「心に浮かぶよしなしごと」をぽつりとそのまま言葉にしたという風情がある。掲句も、説明しようとすれば実感がこぼれ落ちてしまう、そんな感覚を、平明に、片言めいた言い方で表現している。リズムも、句またがりながら五七五に納まっている。そんな平明さは、「堰く抒情」と言われた初期の作品と異なる部分だが、うたわれている思いの屈折――変わることと変わらないことへの思いは、共通している。

 「死ぬまで芒」でいることは、「鳥になりたい」変わりたいという思いと反することなのだろうか。いや、おそらくそうではないのだろう。

 「死ぬまで同じ貌」で生き、「芒のままでゐる」こと。それが、この秋風の中に立つひとつの生命の在り方なのだ。「変わりたいか」と一旦は問うてみるが、やはり、これこそがありのままの姿であり、また、あるべき姿なのだと納得する。嘆くのではなく、微笑んでつぶやく寿美子を、私は思い浮かべる。

身の内に問いを抱きつつ、生命の在り方の根幹を肯定する。その行きつ戻りつする振幅が、寿美子の秋の詩心だったのだろう。(了)

堀葦男の句/堺谷真人

今生を柿のはらから照り合える

『山姿水情』(1981年)所収の句。(ちなみにこの句は『朝空』(1984年)に再録の際、「今生を柿のはらから照り合へる」という風に表記が歴史的仮名づかいに改められている)

 農家の庭先であろうか。高く枝を張った柿の大木に実が鈴なりに成っている。はち切れんばかりに熟した柿の実はどれもつやつやと美しい。折から落日の光を受けて何十何百という柿が一斉に照り輝くさまは、さながら今生の中の今という一瞬をともに懸命に生きている兄弟姉妹のようだ。

 葦男は不幸にして兄弟との縁が薄かった。自身が26歳のときに兄・進の病歿に逢い、28歳のときには弟・治がサイパン島で戦死を遂げている。特に、太平洋戦争屈指の激戦地で落命した治に対しては、晩年に至るまで、生き残った者としての後ろめたさや自責の念を抱えていた形跡がある。現代の精神医学の立場からすれば、葦男こそがグリーフ・ケアの対象者たるべきであった。が、戦中派の常識ではそうではなかったのである。

いくさ経て愚兄われのみ盆の酒 『山姿水情』

この句には「戦後三十四年」という前書きがある。1979年の作である。気がつけば、戦後まるまる一世代に相当する時間を「生き延びてしまった」との感慨、その時間を余命・余生と観ずる姿勢は、1980年に上梓された『残山剰水』の集名からも看守できる。

ビールで別れ弟は神サイパン忌 『過客』

 1944年7月7日、サイパン島の日本軍守備隊は全滅した。出征の壮行会でビールを注ぎあったのが今生の別れとなり、弟は若くして靖国神社に祀られる存在となってしまった。弟よ、どうして神になどなった。倶に白頭を戴き、美酒を酌み交わしながら来し方のあれこれを語り合うような人生もあり得たのではないのか。

かつぎ出す案山子や誰の学生帽 『過客』

 新たに作った案山子が稲田にかつぎ出される。見ると学生帽を被っている。一体誰の帽子であろう。『一粒句集』第30集(1993年)所収の葦男自選作品にも見える句であるが、前年の秋、一粒(いちりゅう)句会の席上で葦男がこの句の名のりをした時のことを筆者ははっきりと憶えている。

詠まれているのは秋の収穫シーズンの他愛ない悪戯である。現に作者である葦男本人も簡単にそのようなコメントをした。だが、そのとき筆者はこの学生帽がなぜか葦男の戦死した弟の遺品のような気がしてならなかったのである。そして、学生帽を案山子に被らせるという行為に度を越えた悪ふざけを感じ、これは戦死者への冒瀆ではあるまいかとまで思ったのであった。

しかし、葦男逝去の後、時間を置いてこの句を読み返しているうちに、思いがけなくも全く異なる読みが浮かんで来た。つまり案山子は憑り代であり、学生帽を被らせることで特定の死者の霊魂をそこに呼び下ろすことができる招魂の装置なのかもしれないと。もしそうだとしたら、はるか故国を離れた地で非命に斃れた人々の霊魂は、年年歳歳、実りの秋に懐かしい祖国に帰って来ることができることになる。

冒頭の句にもどろう。「柿のはらから」というフレーズがすっと出てくる背景には葦男と亡き兄弟たちとの数十年に亘る対話の蓄積がしっかりと活かされているのだ。

戦後俳句史を読む・攝津幸彦2

ジョン&メリー  北川美美

国境の西にジョン&メリー没る

「ケンとメリー」ではない。ジョン&メリーである。

「現代俳句」9号(1980年)に寄せられた幸彦のアンケート回答に以下がある。

問:俳句における課題、執筆・出版予定など

答:自分なりの俳句の完成期をどこまでおくらせることが出来るか。「豈」に精力的に作品発表する予定。来春、書き下ろし句集「John & Mary」を上梓の予定(千句くらい)。

ジョン&メリーがお気に入りだったようである。

『ジョン&メリー』。1969年のアメリカ映画。ダスティンホフマンとミアファロー主演によるニューヨークを舞台とした24時間のラブストーリー。メリーは、自由奔放だが知的で自然体な女性。嫌味がなく、上品な可愛さがある。ふとバーで知り合ったジョンとメリーは一夜を過ごすMid Centuryな白を基調とするジョンの部屋。朝を迎え朝食、そして昼食までも共にし、他愛無い話を二人は続ける…。

暗さのない映画である。会話、衣装、インテリア、NYという街、“おしゃれ映画”の部類として今後も残っていくだろう。

掲句、青春を葬る儀式を『ジョン&メリー』に託しているように読める。ブレッド&バターの『あの頃のまま』(1979年・作詞作曲/呉田軽穂:ユーミンのペンネーム)は「サイモン&ガーファンクル」が出てくるけれど。

その後の幸彦句は、『赤ちょうちん』『妹』『バージンブルース』(藤田敏八監督)の秋吉久美子風な女性の影がたびたび登場する。そのような幸彦の脳裏に描かれた女性を「金魚」に置き換えているという説もある(@金魚論争)。日本のヒッピー文化の洗礼を学生時代に受けている幸彦世代は、西洋のそれと違い、通称フーテンともいわれアンダーグラウンド文化の基礎を作ったといってもよいかもしれない。文化は暗闇から生れる。

「没る」は、「いる」と読むと予想するが、「ぼつる」の業界用語のように読むこともできようか。(山口誓子の句に「郭公や韃靼の日の没るなべにとは」「太陽の出でて没るまで青岬とは」がある。誓子を踏んでいるとすれば、「いる」だろう。)また「国境の西」とは…。「国境の南」であれば、ナット・キング・コール『国境の南』ジャズのタイトルがあり、村上春樹(*1)の長編小説のタイトル『国境の南、太陽の西』(1995年)はそれからきているらしい。オリバーストーンの映画のタイトルにも”South of border”がある。ヒントはその辺から得たとしても、どうも違う。青春を葬るのであれば、「国境の西」とは、日本の西、幸彦が青春時代を過ごした箕面、枚方あたりかもしれない。

秋出水「カルメン故郷に帰る」頃

掲句と比較してみるとどうだろう。「ジョン&メリー」には鍵かっこ(「 」)がない。「カルメン…」の句は、映画『カルメン故郷に帰る』(高峰秀子主演/1951年日本映画)のストリッパーの二人が珍道中を繰り広げるあの時代の頃という郷愁がある。「ジョン&メリー」は、「ジョンとヨーコ」「ケンとメリー」「ジャック&ベティ」「ヒデとロザンナ」等々に置き換えることのできない、幸彦の中の永遠におしゃれな二人、ジョンとメリーを葬るのだろう。好きだった彼女と行った映画のパンフレットを破り捨てる、回想の恋を葬るのだ。

幸彦は、『ジョン&メリー』に別れを告げ、デイビット・リンチの『マルホランド・ドライブ』(2001年米仏合作映画)的な現実・夢・空想・回想に読者を行き来させる。読者はどこかで起こったようなデジャブな自己体験を重ねあわせ、時に郷愁に浸ったり、映画を観ているように笑ったり、それぞれの人の脳裏に描かれるさまざまな映像を楽しむのである。


*1)村上春樹の2003年翻訳本の中にサリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』がある。野崎孝訳が白水社から上梓されたのは1964年である。村上と同世代の幸彦も『ライ麦…』影響は多分に受けたであろう。『ライ麦…』冒頭箇所に主人公の兄の処女出版の書籍名が『秘密の金魚』であることにも驚いた。

ショートショート風に 幸彦句の「淋しさ」  北川美美

淋しさの涙で辺りが海になった。なまぬるい羊水の中に戻ったようだ。涙の海で泳いでいると太海(千葉県鴨川市)に辿りついた。立ち泳ぎをしながら陸をみると、つげ義春の漫画の原風景が見えた。『ねじ式』の男もいる。その海は唱えると鯛がでてくるという。鯛がそこらじゅうにいる。30年も生きた老鯛も。遠慮なく、(鯛が)体(タイ)当たり…。あぁ泣きながら可笑しさがこみ上げてきた。
淋しさを許せばからだに当る鯛 『鳥屋』

涙の海でぷかぷか浮いていた浮き輪。出てきた空気もそのまま涙になった。俺のあん子は煙草が好きでいつもぷかぷかぷか。西岡恭蔵は何故死んでしまったのだろう。やっぱりひとりが淋しかったのか。輪となれば淋しい、笑っていてもギターを弾いてもやっぱり淋しい。いつもぷかぷかぷか。
輪となりし空気淋しも浮袋 『陸々集』

淋しいという感情はいつから人間に備わったのだろう。夕餉の支度をしながらふと嫌われ松子は考える。ひとりものの女がつくる一人分の筑前煮。ひとは、いずれひとりで死んでいく。
太古より人淋しくて筑前煮 『鹿々集』

出張の次いでの日帰り温泉旅行。湯畑の階段で別の男女と眼があった。どこか後ろめたさのある眼差しはあの男女も俺たちと同じということか。神社の境内ではホトトギスが喉を赤くして鳴いている。東京に戻るまでに噎せ返るような硫黄の臭いと情事の怠さを取らなければならない。
情交や地上に溺るゝ蜀魂(ほとゝぎす) 『鸚母集』

外はギラギラと太陽が照りつけている、昼間のアパート。知らぬ間に部屋の隅で女が汗をかきながら泣いている。ふと女に手を入れるとすでに濡れていた。これは白日夢なのかと男は考える。自分はこのまま堕ちていくのか。ここを出なければ。
手を入れて思へば淋し昼の夢 『鸚母集』

薄暗いアパートから外に出ると、夏燕が忙しく飛び去って行った。雛に餌を与えるために飛び回る夏の燕は忙しい。頬に燕の糞がしたたれた。糞は、燕の涙だろうか。それとも松子の涙なのか。松子から離れるなら今かもしれない。
肛門をゆるめて淋し夏燕 『鹿々集』

しばらく連絡のない男の様子に気づき、松子は、男の仕事場である祐天寺のマンションに来た。エレベーターの中に落書きが彫ってあった。「松子のバカ」。ドアの前でベルを鳴らすこともできず、泣きながら非常階段を下りた。見上げると虹がみえた。
階段を濡らして昼が来てゐたり 『鳥屋』

***

「淋しい」という漢字「淋」には、「そそぐ」「したたる」「長雨」などの意があり、「さびしさ」の別の意味を持たせたのは日本特有の用法である。だから「淋しい」とは濡れている状態になりうること。淋しい→泣く→濡れる→エロティックという構図を描いてみる。淋しくてすぐ寝てしまう、薄幸そうな女についつい惹かれてしまう、男の儚い願望がみえる。
萬愚節顔を洗ふは手を洗ふ 『鹿々集』
泉よりはみだす水を身にとほす 『陸々集』
ぬばたまの夜の人となり舟となる 『鹿々集』
渡仏して極楽浄土の雨に遭う 『四五一句(未刊句集)』

幸彦句は水っぽい。だからなにもかも流れてしまう。悲しさ、情念も流れていく。「淋しさ」も、諸行無常のものなの。彼の岸も濡れているのだろう。幸彦のいる岸辺は生温い涅槃の水であることを想像する。
淋しいは濡れてゐること幸彦忌 美美

攝津幸彦一句鑑賞               北村 虻曳

戸締まりの亡父の脛より花ふぶく  『鳥子』

「戸締まり」という語、最近はあまり用いない。使われるとすれば、国防論や排外主義の文脈で比喩としてだ。掲出句の戸締まり、様式は錠と言うより「締まり」で、昔普通の家では「捻子締まり錠」や、「落とし」、「かんぬき」、あるいは簡便な「心張り棒」で行った。「戸締まり用心火の用心」などと聞かされたように主として寝る前に家を見回って行ったものである。しかし今は、外部に面する戸は出入りのたびに錠を下ろすことが決まりであるから就寝前に限ったことではない。行き交う人の殆どが「他所者」であるからだ。

この句の亡父は自ら見回るのだからふんぞり返っている亭主ではない。そこで昭和前半の景としよう。この場面の「亡父」には、洋服よりもパジャマよりも寝間着を纏わせたい。やや腰の曲がりかけた亡父が戸締まりを行っているのである。その頃は五十代でもりっぱなおじいさんであった。亡父は、かってこうであったという像というより、今まぼろしとして顕ち現れる父の像であろう。攝津の父が何時亡くなられたか、あるいはご存命かは存ぜぬが、句の中は自由の王国であるから彼自身がこうした考証や辻褄合わせに拘(かかず)りあっているわけではない。

 さてその父の細いすねから桜の花吹雪が発っている。翁と花吹雪と来れば、我々の記憶の蓄積が指すものは能・芝居である。そんなものを実際に見たことがほとんど無い私でさえどこかでならい覚えている。亡父のわびしい姿が一挙に舞台に立つ。戸による姿は杖による旅姿とかさなり、住まいは野面となって風にさらされる。やがて脛も身も風にちぎられて飛びさり消えて行くだろう。

 幽玄であり、耽美的である。攝津の句には、おっとりとしたはぐらかし・アイロニー・ちゃかしなどが含まれていて揺らぎがあり、この句のようにまともに古典美に通じるものは少ない。しかしそれが半ばリアルな「戸締まりの亡父」に担われるというところが、俳味でありひねりである。(作句の手順から言えば「脛より花ふぶく」の方がひねりであるが。)そしてこのひねりがなければ、脛が花となって吹雪いても、当代のCG、VFXとなり、幽玄の幽が消えてしまうのである。

 

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