戦後俳句を読む(第12回の1) ―テーマ:「記憶」その他―

―テーマ:「記憶」その他―

三橋敏雄の句/北川美美

いつせいに柱の燃ゆる都かな

読者の記憶から掘り起される映像がある。その映像がどのように映し出されるか作者は読者に任せるしかない。何よりも読者自身が句に向き合わなければその映像は見えてはこない。

掲句は、多くの論者から評され戦後の代表句のひとつとされてきた。昭和二十(1945)年の作、『まぼろしの鱶』『青の中』に収録されている。

一句として成り立つ、先の百年も残る無季句を得たいという敏雄の信念が伝わってくる。

「いっせいに柱が燃える都」という現象は尋常ではない。都が燃える要因となるものは、革命、テロ、暴動、戦争、天災など。さらに、都はどこの都という限定された場所ではない。ただ、「都」という言葉から、政治・行政・皇帝などの中枢機構が置かれている街というイメージを持つ。ポンペイ、バスチーユ(パリ)、ロンドン、平城京、天安門、本能寺(京都)、江戸、何処の都市でも、何時の時代でもよいのである。世界遺産登録の建造物、ひいてはその大元であるユネスコ憲章の世界平和(*1)をも考える、とにかく壮大な句である。俳句はちっぽけな驚きばかりでなく、歴史的な事象を想起させることもあり、ということをこの句を通して知ることができる。猛烈な火の粉をあげ都が燃えている。炎柱と炎柱との狭間にうごめく民衆の姿、声を想像する。大惨事である。

技法的には、「柱の燃ゆる」の「の」は、独立句の主格を示しており(*2)、更に「燃ゆる」の古語表現により、雅で歴史的な音感、質感を持つ。そして「かな」の詠嘆により崩れゆくもの、喪失していくものの美を感じる。『まぼろしの鱶』の昭和三十年代の項から昭和四十年代に制作された『眞神』での復活まで、この「かな」が姿を消す。それは三鬼の影響もさることながら、過去の新興俳句弾圧に対する抵抗とも感じられるのである。

制作年の昭和二十年は第二次世界大戦が終結した年であり、日本各地の小都市の多くが空襲の被害を受ける。確かに、制作年から考えれば、「空襲、特に東京大空襲を詠んだ戦争句」という多くの解説の通り、空襲の惨事に結びつけることができるだろう。しかしながら敏雄は、『まぼろしの鱶』の選句時にあえて何年何月何日という具体的な事象、場所がわかる句を外している。

制作年が同じ頃の敏雄の作品。

こがらしや壁の中から藁がとぶ  昭和二十一年作
梟の顔あげてゐる夕かな        〃
むささびや大きくなりし夜の山  昭和二十二年作

終戦で混乱した頃において、この落ち着きようである。敏雄は、あえて現実を、あるいは戦火想望俳句ひいては新興俳句を早急に遠い目線で見つめ直そうとしていたように思える。戦争が終わった安堵感と同時に暗闇の中の行き場のない悲しみ、慈しみ、そして不安を感じる。

「俳句は一たび作者の手を離れてのちは、そこに使われた言葉の意味と韻律から触発される映像表現に一切を掛けている。」『まぼろしの鱶』後記

「いっせいに…」の句は、ほんの前に起きた生々しい記憶の絵コンテだったかもしれないが、遠い記憶、回想のように滅びゆく美しさすら詠っている。敏雄を通過した言葉から生れる映像は、読者に遠く切なく迫りくる。敏雄は、具体的事象の概念を外すことにより、読者の(それもまだ生まれていない読者も含む)記憶に刷り込まれた映像に懸けたのである。

掲句から六十六年経過した現在も時空を超越する壮大な句である。


*1)ユネスコ憲章前文は以下で始まる。
「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。」

*2)格助詞「の」が独立句の主格を示す他の句例:
五月雨ふり残してや光堂 芭蕉
おのづから影出来たり籾筵 高屋窓秋
夕つばめあつまつてとぶ空あり 石田波郷
 

楠本憲吉の句/筑紫磐井

汗ばみ聞く故人の古き恋歌を

53年7月、『方壺集』より。

亡くなった人の歌う恋のうたを聞いているのだが、その歌の流行った時代が思い出されて、静かな室内におりながら次第に汗が吹き出してくるようである。この故人は、水原弘。昭和10年生まれ、昭和34年「黒い花びら」でデビュー、大ヒット曲となり第1回日本レコード大賞を受賞した。その後低迷するが、昭和42年「君こそわが命」で復活。酒豪であったと言われ、それが原因で昭和53年7月5日、42才でなくなった。

憲吉が水原弘と面識があったかどうかはわからないが、俳人というよりは、タレントとしての活躍が目覚しかった後半生にあっては出会いがなかったとも言えない。年齢的には一回り下であるが、老成した水原弘は憲吉と同世代人と錯覚してもおかしくない。

歌謡曲はとりわけ時代を想起させるが、「故人の古き恋歌」と言えば、やはり「黒い花びら」になるだろう、汗ばんで聴くのにふさわしい歌だ。そしてその時代にはこんなことがあった。

 
南極からのタロー、ジローの帰還
少年マガジン、少年サンデーの創刊
皇太子(現天皇)ご成婚
王貞治の初ホームラン、長嶋茂雄が天覧試合にサヨナラホームラン
児島明子ミス・ユニバースに
伊勢湾台風来襲、空前の5000人の死者
水俣病のチッソの有機水銀に由来することが判明
 

昭和34年とはこんな時代であった。やがて、安保闘争、三池争議という熱い政治の時代を迎えるようになる。暗さ明るさのないまぜになった時代を「汗ばむ」と形容するのは誠に適切な措辞であった。

では、これはだあれ。

歌姫の歌も豊かに夏に入る

昭和55年6月、『方壺集』より。

これはペギー葉山。水原と違い、憲吉とペギーは確かに面識があったようである。

ペギー葉山は昭和8年生まれ、水原より3歳年上であるが、今も元気でいる。水原の「黒い花びら」の出た同じ34年に「南国土佐を後にして」が大ヒットした。また水原と違い、「ケセラセラ」「学生時代」「爪」「ドレミの歌」「ラノビア」など息長い活動を続け、日本歌手協会会長も務めた。

近木圭之介の句/藤田踏青

うまれた家はない風ふく絵本

 昭和53年作の「ケイノスケ句抄」(注①)所載の句である。圭之介は明治45年に福井県舘町で生れたが、生後三カ月目に逓信省勤務の父の転勤で石川県金沢市へ移り、そこで小学校一年生終了までの七年間を過した。当然、圭之介の記憶にあるのは金沢の家であり、圭之介自身「金沢をふるさとに持ったことは一生涯、心の誇りですね」と語っている(注②)。犀川の流れる金沢は室生犀星や泉鏡花等を生んだ文化の香り豊かな土地であり、圭之介の金沢への愛着は後に「北の町に埋れた春はぬれた舌でしょうか  昭和58年作 」の句も生んでいる。

 掲句の絵本は幼き日の記憶の中でのものであり、吹きすぎてゆく風が、心の中の家も絵本も消し去って行くような思いがしたのであろう。時間が記憶の中に紛れ込み、それによって記憶そのものがほろほろと分解されてゆくようにも。また、この句の下敷として山頭火の「うまれた家はあとかたもないほうたる」の句が意識にあったものと思われる。しかしその二人の作風の違いは、自己を現存在の彼方に置くか、現存在そのものに埋没してゆくかにあり、各々の句にその特徴が表れている。圭之介は山頭火と交誼を結んでいたが、「山頭火から俳句の批評や添削された記憶はなく、俳句の話もほとんどしたことはない。」と述べており、句作の上では影響をあまり受けていないと考える。しかし、山頭火の人間そのものには大いに魅かれるものがあったのであろう。後年、「山頭火」と題した思い出の下記の句を発表している。(注①)

いつもらんぷ磨いてあるほどに身辺簡素      昭和25年
らんぷが家の中につき彼が心中にある煩悩       々
独りでおるべき身の茶の花のもつ清貧         々
酒をたべる山頭火に鴉が来て誰も来ない        々
心の暗い日のかれ米をとぐ大いなる手を持つ      々
らんぷより明るい外で 柿の木の柿        昭和31年
仏にあげたものが ひとり食べる           々

 この様に圭之介は、山口県小郡の其中庵時代の山頭火の生活やその人間的苦悩そのものにまで踏み込んだ思いを抱いており、圭之介が年齢を重ねるにつれて山頭火の句の深さにも魅せられていったと述べている。

 今回のテーマ「記憶」にも関連すると思われる、圭之介の昭和28年作の一篇の詩を紹介したい。(注③)

「離散」
あれもこれも離れてゆき
これもあれも離れてゆく
コップは手より卓の上に位置をかえ
手とコップは無限のへだたりを生じる
右手と左手の間に 枯野が横たわり
木の葉は女ごころの如く林を離れた
記憶の如きは雲の浮遊と共に移り去り
全てのものが風景の中にへんぺんと離散した

 人間にとって記憶というものは心象風景の中でいつかは離散し、消え去ってゆくものなのであろうか。そしてその時間的推移は瞬時と永遠が交叉したり、隔たったりして過去、現在、未来を照射してゆくのであろうか。その時、個的実存が孤独、不安、絶望といったものに蝕まれてゆくのであろうか。それ等の孤独感を引きずりながら圭之介は後年、下記の句群の中を泳いでいったのかも知れない。

一さいが去り 一つの灯にいる          昭和30年
一対の椅子の時間誰かいて 行ってしまう     昭和52年
記憶の構図くずれ ひたむきに構図        平成12年
己の記憶の中で笑った              平成18年


注①「ケイノスケ句抄」 近木圭之介 層雲社刊  昭和61年

注②「うしろ姿のしぐれてゆくか・山頭火と圭之介」桟比呂子著 海鳥社刊 平成15年

注③「近木圭之介詩抄」 近木圭之介 私家版  昭和60年

赤尾兜子の句/仲寒蝉

冷凍魚鞄に革命と踏絵憶う夏     『歳華集』

 昭和40・41年の作品を収めた「小暁」の章にある句。

 まず「革命」である。広辞苑によるとその定義は「従来の被支配階級が支配階級から国家権力を奪い、社会組織を急激に変革すること」となっている。英語Revolutionの訳としての革命は、近代までの西洋史では清教徒革命からフランス革命を経てロシア革命に至るまで、旧体制である王政を倒して民衆が主権を勝ち取ることとのイメージが強い。現代では市民革命ばかりでなくクーデターによる政権奪取までをも新体制が「これは革命だ」と正当化することがありややこしい。漢語の「革命」は「天命を革むる」との意で、徳を失い天命を失った或る一族の王朝が滅ぼされて別姓を名乗る一族による新しい王朝が誕生する「易姓革命」、つまりは中華王朝の交代を指すものであった。

 兜子はジャーナリストであったから、恐らくは歴史上の革命ではなく同時代の世界で起こっていた革命を念頭に置いていたろう。その候補としては昭和26年のボリビア革命、昭和34年のキューバ革命、などが挙げられる。この句の作られた年からすると昭和43年のペルー革命、昭和45年のチリ革命、ベトナム戦争終結(昭和48年)後のポル・ポトとクメール・ルージュによる政権奪取、況して兜子死後のベルリンの壁崩壊に続くルーマニア革命などは論外であろう。文化大革命は昭和41年8月に天安門広場で勝利祝賀会が行われたのでこれが一番ホットな話題だったかもしれない。或いは必ずしも実際に起こった革命でなくとも、当時はイデオロギーに基く対立、東西冷戦の最中であったから、戦前以来日本で唱えられていた共産主義による現体制の転覆という革命のイメージを指したのかもしれない。

 次に「踏絵」はどうだろう。また広辞苑に登場願うと「江戸時代、キリシタン宗門を厳禁するため、聖母マリア像・キリスト十字架像などを木版または銅板・真鍮板に刻み、足で踏ませて、宗徒でないことを証明させたこと。1628年(寛永5)から1858年(安政5)まで、多く春先に行われた。また、その像をもいう」となる。歳時記では春に分類されるが作者自身が下五を「夏」と結んでいるのでこの句に関しては夏の句ということになる。
なぜ革命と踏絵なのか。片や現在進行形のホットな話題。片や前代の遺物と言っていい古い習慣。革命はイデオロギー、踏絵は信仰。共通項は革命も踏絵もその人の生きる信条に深く関わるということだ。それにいずれも命がけである。

「冷凍魚」は戦後日本の家庭生活を象徴するとも言える。われわれが食品を冷凍して保存し、冷凍食品を普通に調理するようになったのはいつ頃からだろう。かつて家電製品の三種の神器というものがあった。白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫がそれである。1960年代の東京を舞台にした映画『オールウェイズ三丁目の夕日』ではテレビを買った家に近所中が集まったり、冷蔵庫に子供が頭を入れて「涼しい!」と言うシーンがあった。テレビ放送が始まったのは昭和27年、当時世界一の高さを誇ったテレビ電波塔、東京タワーが竣工したのは昭和33年10月14日。この年の11月に発表された皇太子と正田美智子さんの婚約発表はミッチーブームを巻き起こし、翌年4月の「ご成婚」の中継を見るためにテレビを買った家庭も多いと聞く。また洗濯機や家庭用冷蔵庫が普及し始めたのは昭和28年頃である。ちなみに今や冷蔵庫を夏の季語から外そうとの意見も多いようだが、この季語は家庭用冷蔵庫が普及するずっと前から歳時記に載っていた。載せたのは勿論虚子である。西村睦子氏の労作『「正月」のない歳時記』によると作品としては大正7年の「ホトトギス」とじこみ付録かららしい。そこに「冷蔵魚」という語も傍題として並列されている。流石にこの時代では「冷凍魚」はまだ無理か。

話は逸れるけれども、これより後に車、エアコン(クーラー)、カラーテレビが新三種の神器と呼ばれた時代があった。英語の頭文字を取って3Cとも。三種の神器は神武景気の頃、新三種の神器はいざなぎ景気の頃である。神武景気は昭和29年12月~昭和32年6月、岩戸景気は昭和33年7月~昭和36年12月、いざなぎ景気は昭和40年11月~昭和45年7月を指すらしい。いずれも右肩上がりの高度成長期のこと。いざなぎ景気以降日本はアメリカに次ぐ世界第2位の経済大国に躍り出た。

従って掲出句の意味としては、冷凍した魚を勤め帰りに買って鞄(これは買い物籠ではなく仕事に使う鞄であろう)に入れている、この極めて日常的な主人公が頭の中では革命や踏絵に代表される信条を忘れないということだろうか。ただ兜子は2年後の昭和43年に佐世保・平戸を訪れて『歳華集』に句を残しているし、この頃司馬遼太郎と共に各地へ旅行しているから踏絵を憶ったのは歴史への興味からだったのかもしれない。そうなると単なる歴史上の知識ではなく物として遺されている(資料館などに陳列されている)踏絵を指すと考えた方がしっくりくる。それなら革命もやはりジャーナリスト兜子が同時代人として知ったキューバ革命や文化大革命など具体的な事件を指すことになろうか。

いずれにせよ「記憶」の1句と呼ぶにはやや無理があるかもしれないが、昭和40年代初め頃を生きていた兜子の周辺を窺い知るには相応しい一句と考えた。

稲垣きくの/土肥あき子

養へば命哀しき籠蛍  「春燈」昭和56年8月号

 昭和54年8月号「俳句とエッセイ」にきくのは「想い出」というエッセイを寄せている。最近見た蛍養殖のテレビニュースから、亡くなった師久保田万太郎の作品「蛍」に思いを馳せる。戯曲「蛍」は、悲運な男女の死を予感させるラストを蛍籠で暗示させる。

 掲句の「養う」にも、蛍の命終をそう遠くない日に見届けなければならないことをじゅうぶん承知している屈託がにじむ。

 さらにきくのにとって、蛍は特別な記憶を呼び覚ますものでもあった。

 「思い出」に書かれた蛍のエッセイは、いよいよ過去へとさかのぼり、忘れられないあるできごとへと誘導されていく。

 大正9年、きくのが女学生になった頃、幼友達に近所の田圃へと蛍を見に誘われ、躊躇なく同意する。そこで14歳の少女はゆらめく蛍火のなか、いきなり接吻をされたのだった。「いやっ」と少年を振り切ったきくのは「息もつかづに家へ戻ると、台所へ下りて柄杓の水でがぶがぶと気がすむまで口を漱いだ」。これだけだったら感じやすい少女時代の微笑ましいとすら思える経験で済むのだが、きくのの場合、その後結婚してからも男女に関する不潔感はつきまとったのだという。

 幻想的な蛍火に惑わされた、あるいは思慕を募らせたあまりの計画的な行動だったかもしれない少年の想いに一切触れることなく、半世紀以上前経った今もまざまざとその忌まわしい感触に身をこわばらせる。

 多感な少女期の不幸な経験が、その後のきくのの並外れた潔癖さと、それにあらがうような、ときに退廃的な選択の原点となったように思える出来事である。

 蛍火は明滅する業火となって、いつまでもきくのにねっとりとまといつく。

 「私は今でも接吻が怖くて出来ない」

 最後に置かれた一文は、「恋のきくの」にとってあまりに切ない告白である。

永田耕衣の句/池田瑠那

ある日父母がいないと思う梅香かな(平成8年刊『只今』より)

人間にとって、親しい存在の「死」と、「不在」とは、どちらがより受け容れがたいものなのだろうか――。

耕衣の父は昭和九年二月七日に、母は昭和二十五年一月十七日にそれぞれ亡くなっている。季節柄もあるだろうが、父の死を詠んだ句にも母の死を詠んだ句にも、「梅の花」が登場している。

死近しとげらげら梅に笑いけり(『加古・與奪抄』より、「父終焉」と前書あり)
母の死や枝の先まで梅の花(『驢鳴集』より)

梅の花といえば、中西進氏が道元『正法眼蔵』中の「梅花」篇と耕衣俳句(ことに晩年のもの)における梅花詠との関連を指摘している(『詩心――永遠なるものへ』平成18年刊)。その「梅花」篇においては、梅の花の持つ神秘の力は「はかりしりぬ、風をひき雪をなし、歳を序あらしめ、および溪林萬物をあらしむる、みな梅花力なり。」と説かれている。これに従い、梅の花を、自然界の万象を動かす「梅花力」を持ったものとして捉えるならば、先に挙げた父母の臨終を詠んだ句についても、また新たな解釈が可能になるだろう。死にゆく父を詠んだ句では「げらげら梅に」向かって笑うという行為によって父の身に宿る最後の「梅花力」を掻き立てようとしているように、母の死を詠んだ句では、母を生
かしていた「梅花力」が梅の木へと移り、びっしりと花を咲かせることで子へ、あるいは現世へ別れの挨拶を送っているように、読めてくる。

道元が説くようにすべてを「梅花力」なるエネルギーの移ろいと観ずる事が出来れば、人の世のいわゆる生老病死も「苦」ではなくなるのであろう。だが、多くの人は、それ程強くは在り得ない。冒頭の句は、耕衣最晩年期の句。ふと口をついて出たというような、飾らぬ詠み振りである。父母は、疾うにこの世での姿かたちを失くしてしまった。それは自然のなりゆきであり、嘆くべきことではないのであろう。とはいえ、それでも、自分自身が九十歳を越える身となっても、やはり、不在を寂しく思う瞬間はある。辺りに漂う梅の香は――、亡き父母が幽明の境を超えて送って来たほのかな「梅花力」なのであろうか。
父母の死の直後の句や、その後の忌日の句(※注)には「梅の花」それ自体を詠んでいた耕衣が、掲句では「梅香」と、花の香りのみを詠んでいることも興味深い。父母を偲ぼうにも、眼前に梅の花はなく、清らかな梅の香に包まれながら却って深くその「不在」を思う。


※注「母の忌や後ろ向いても梅の花」(『吹毛集』)「母の忌に亡父讃めらる梅の花」(『悪霊』「母の忌や数限りある梅の花」(『闌位』)など。

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