戦後俳句を読む(第12回の2)―テーマ:「記憶」その他―

―テーマ:「記憶」その他―


齋藤玄の句/飯田冬眞

ひもじくて芒かんざししてゐたり

掲句は、昭和50年作、句集『雁道』(*1)所収。

この句を鑑賞するさい、ポイントになるのは〈ひもじくて〉の主体である。擬人法と捕らえるならば、〈芒〉が〈ひもじくて〉となる。ススキの姿を凝視した結果、腹が減って食べ物が欲しいと思いながら、うな垂れている人のように見えたというのだ。しかも風になびいている黄金色に輝く花穂を長い髪にさしている〈かんざし〉に見立てた。そこにこの句の独自性を見出すことも出来る。

齋藤玄が「見る」ことにこだわる「凝視」の作家であることは、この連載において何度となく書いてきた。晩年の句集である『雁道』においても見ることに重点を置いて表現を重ねている句が多いことを考えれば、この句は凝視の成果のひとつといえるだろう。

芒はとてもひもじかった。風が吹き通るたびに、ひもじさは身に応えた。頭のきらきらしたかんざしは、ゆらゆらと重かった。(*2)

自註の玄の記述を勘案すると、芒の写生句と読めなくもない。

しかし、なぜ〈かんざし〉なのか。ふつう「かんざし」といえば、女性の髪飾りである。かんざしを挿している女性が、戦前ならまだしも昭和50年の北海道で一般的であったとは思えない。ちなみに玄が当時居住していたのは北海道滝川市新町である。新町は空知川の川岸沿いに位置する町で、昭和48年頃から文化センターや図書館、郷土館が建設され、市内の文化地域を形成している。余談だが、同時代に北海道札幌市で暮らしていた筆者の周囲でかんざしを挿していた女性は、明治生まれの祖母くらいの印象がある。ここでの〈かんざし〉は、記憶の中の女性を芒に重ね合わせて詠みこんだと考えられなくもない。

いままではあくまでも〈ひもじくて〉の主体を〈芒〉ととらえて考えてきたのであるが、一方で、作者自身ととらえるとどうなるだろう。

すると、作者である玄が〈ひもじくて〉髪に芒を挿しながら芒原をあてどなく歩いている景が見えてこないか。当時玄は61歳。10月に盟友である石川桂郎を聖路加病院に見舞い、断腸のお思いで別れてきた時期の作と思われる。
桂郎を見舞った時に次の句を残している。

死の側で笑む桂郎や秋の暮   昭和50年作『雁道』

死を予期している友の笑顔を眼前にしながら玄は何を思っただろう。昭和18年、「生涯のつきあいを約した」(*2)という一夜だろうか。それとも昭和19年、第二句集『飛雪』の題簽の染筆を依頼するために横光利一邸に二人で泊まった日のことだろうか。あるいは昭和47年、厳寒の網走を二人で旅した日の着膨れた桂郎の姿だったろうか。

いずれにせよ、句集『雁道』では〈死の側で〉の二句後に〈ひもじくて〉の句がある。掲句の鑑賞に戻ると、〈芒かんざし〉とはススキの花穂を折り取って、髪に挿すことで、女性に限定されるものではない。むしろ、果てしなく続く芒の原を歩きながら一本の芒を短く手折ったのであれば、男性的ですらある。よって〈かんざし〉に女性を読み取る必然性はなくなる。〈ひもじ〉さを紛らわせるための所作、あるいは、芒原に同化するための振る舞いととらえた方が自然だろう。なぜ、芒に同化する必要があるのか。それは、記憶を消し去るためである。たとえば、哀しい記憶。現実からの逃避。あるいは孤独感を忘れるため。昭和の子どもたちがお面をつけて、たやすくテレビのヒーローになりきったように、自分ではない何ものかになりたいとき、人は仮面をかぶり、頭に何かをかざすのではないか。そう考えるならば、先に掲げた自註の解釈も変わってくるように思う。友の死を契機にして、噴出してきた記憶。あるいは文字通り〈ひもじ〉かった頃の記憶を忘れるために玄は〈芒かんざし〉の重さを感じつつ、芒の原を歩いたのではないだろうか。消したくなるほどの記憶を持たないものには、到底理解されることはないと思いながら。


*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載

*2  自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊


「青玄」系作家の句/岡村知昭

今奏づ亡き師がききし諏訪根自子   桂信子

初出は『青玄』1957年(昭和32年)2月号、「おでんの湯気」と題された6句の中の一句。句集および『桂信子全句集』(2007年10月、ふらんす堂)には未収録。「ニューイヤーコンサート」との前書きがある。

諏訪根自子は1920年(大正9年)生まれのバイオリニスト。16歳からベルギー、フランスへ留学、第二次世界大戦下のヨーロッパで演奏活動を行った。戦後に帰国してからは国内で演奏活動を行ったが、1960年代に第一線から退いたという。ウィキペディアでの記述によれば「その後、消息はほとんど聞かれず、伝説中の人物となっていた」、また「絶世の美貌を謳われ」たとある。掲出句が書かれた時期はちょうど国内での演奏活動を精力的に取り組んでいた頃にあたるので、前書きの「ニューイヤーコンサート」もそのうちのひとつだろう。

年明けのとある1日、ラジオから流れてくるバイオリンの音色は、いまは亡き恩師が愛してやまなかったあの諏訪根自子が奏でているもの。病床の先生はラジオから流れてくる音楽をジャンルを問わずとても楽しみにしていらして、その中でも特に彼女のバイオリンの演奏は好きでしたねえ、との追憶にしばし身をゆだねるひとときである。このとき師を想う一弟子としての作者の脳裏には、「亡き師」がこのバイオリニストを詠んだ次の一句が浮かんでいたに違いない。

弾きて澄む顔は見えねど諏訪根自子   日野草城

この草城の1句の初出は『青玄』1949年(昭和24年)10月号、つまり『青玄』の創刊号に掲載された作品である。すでに病床での生活を余儀なくされていた自らの耳に届くバイオリンの響き、それはまぎれもなくあの一切の邪念を払いのけたかのような美貌から産み出された音色に間違いなく、今まさに彼女は一心に研ぎ澄まされた精神のすべてを賭けてこの一曲を奏でているのに違いない、それはいまこのとき、彼女自身が曲と一体化しているかのようではないか、と草城は美貌の演奏者への感嘆を惜しまないのである。そのような思いに満ちた1句を草城は主宰誌の記念すべき創刊号に載せ、さらには第7句集『人生の午後』にも収録したのだから、バイオリニスト諏訪根自子への賛歌として詠まれたこの1句は、弟子たちの心にも強く刻み付けられていたことだろう。もちろん桂信子も草城の弟子のひとりとして、このひとときは師が愛してやまなかったバイオリンの音色から浮かんでくるさまざまな回想に思いを馳せていたのだろう、まっすぐに澄んだ表情で。

さて、掲出句が掲載された号の作品を見ると、同じように草城への回想を背景にした作品が他にも見られる。

日向より膝に来し猫沈みねる
膝にねて程よき重さ冬の猫
師の愛せし猫なり師なき部屋あるく

「日光草舎」との前書きのあとのこの3句は今は亡き恩師の家での猫の様子を詠んだものにとどまらず、飼い猫だった「ルミ」の死を悼んだ草城の作品も踏まえられている。

猫死ねりいまはを人に知られずに
凍る闇死にたる猫の声残る
分ち飲む猫亡しミルクひとり飲む    (『人生の午後』所収)

可愛がっていた飼い猫の死を深く悲しむ恩師の姿を作品を通して見ることになった弟子として、いま主なき家を堂々と闊歩し、家族や客人の膝に熟睡する猫たちの姿もまた師への想いを甦らせるには十分なものだったに違いない。とある冬の1日、あのバイオリンの音色もあの猫たちの元気な姿も、もう先生は見ることも聞くこともできないのだということを改めて深く心に刻む、そんなひとときを弟子の一人は過ごしている。年明けということは師の命日(草城の命日は1月29日)はもうまもなく訪れる。


上田五千石の句/しなだしん

鰯雲くづれは雲の襤褸なる       五千石

第二句集『森林』所収。昭和四十五年作。

この句は、俳人協会新人賞受賞後のスランプの時期のものであり、『森林』の、この句の制作年、昭和四十五年の作品はわずかに8句であったことも前回書いた。

        ◆

この句について五千石は自註(*1)で、短く、次のように書いている。

「特攻隊くづれ」とか、「役者くづれ」というが、ここでは「鰯雲くづれ」。

 

「襤褸」は「ぼろ」ではなく「らんる」と読む。「襤褸」とは、破れた衣服・ぼろぼろの衣服・また、ぼろきれ・ぼろ、のこと。つまり、鰯雲の崩れた雲、または鰯雲になりきれない雲はボロキレのようだ、ということ。なんとも捨て鉢のような句ではある。

        ◆

私はこの句の下地になっているのは、昭和三十七年の、

流寓のながきに過ぐる鰯雲      五千石

ではないかと考えている。

流寓(りゅうぐう)とは、放浪して異郷に住むこと。以前にも書いたが、五千石は戦時に信州へ疎開し、その後細かく長野、山梨、静岡と転居する。その間、昭和20年には東京の自宅を空襲で失っている。

この流寓の句の自註には、

「流寓が流寓でなくなってゐるところに人生の寂寥性がある」

「鰯雲は、倦怠の象徴と思はれる」(山口誓子評より)

と、誓子の評をそのまま載せている。この評が行き届いたものだったことを顕していると見るべきだろう。

著書『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』(*2)の「自作を語る」の中で次のように記しており、それを裏付けている。

《前略》(流寓が)あまりに「ながきに過ぐる」ということになりますと、もはや
「流寓」が「流寓」ではなくなっているとでも言いましょうか、妙にさびしく、
うらぶれた気持ちになってしまいます。天を覆う「鰯雲」をうち仰ぐと、いよいよ
そんな思いに胸ふたぐばかりであります。《後略》

        ◆

この二つの句は「鰯雲」が共通するというだけではなく、鰯雲を見上げたときのあきらめにも似たさびしさの極みがベースとなっているのではないだろうか。五千石の少年期の「記憶」の句だと思う。


*1 『上田五千石句集』自註現代俳句シリーズⅠ期(15)」 俳人協会刊

*2 『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』平成21年11月20日 角川グループパブリッシング刊


堀葦男の句/堺谷真人

幾何解く夜花火みどりに裏返る

『機械』(1980年)所収の句。

夏の夜。窓辺の机に向かい、幾何学の問題に取り組む少年。しかし、やがて思考の糸は腹の底に響く爆音で途切れることになる。今夜は花火大会だったのだ。次々と夜空を彩る大輪の花火。放射状に開ききった光の尖端が闇に吸い込まれ、一瞬ののち、緑に反転した閃光が浮かび上がる。花火見物をよそに独り図形と格闘する少年は葦男その人に違いない。受験生としての遠い日の記憶の中から、花火の開く瞬間を鮮やかに切り取ってみせた一句である。

葦男は神戸第一中学校から岡山の第六高等学校文科甲類に進み、1938年、東京帝国大学経済学部に入学した。1934年には六高受験に失敗、山手高等予備校に通うという経験もしている。六高はスポーツの強豪校として有名だった。13の運動部がインターハイにおいて延べ55回の全国制覇を達成しているほどだ。中高時代を通じて陸上競技部に所属した葦男も、厳しい鍛錬に明け暮れるアスリートだった。

学生時代に走幅跳や三段跳の練習をやったせいであろうか。激しく地面を蹴って、
体を空中で海老のように屈伸する姿勢をとると、私の体はふわりと空中に浮く。
その体を弓にそらし、次いで、高く振り挙げた両手を強くうしろに掻きつつ、
揃えた両膝を前へぐつと引き上げる、この動作を律動的に繰り返すと、不思議や
私の体は地上一メートル余りの高さで、地面と並行にスーツスーツと進む。

第一句集『火づくり』の「あとがき」に出て来る奇妙な記述は、結局、夢の中の飛翔体験であることが明かされるのだが、繰り返し肉体に刷り込まれたヴィヴィッドな運動感覚が、はるか後年まで夢の中で再現されることに筆者は興味を覚えた。ひょっとすると記憶の中には、大脳皮質の働きと関連しつつもそれとは別個に存在する「脊髄記憶」あるいは「小脳記憶」とでもいうべきものがあるのではないだろうか。

やがて葦男は「この天狗飛び切りの術」を進化させ、下級生の教室の窓を飛び抜けたり、泰山木の花を真上から眺めたり、果ては高い丘の上から谷を越えて緑地に着陸するというパラグライダーまがいの飛翔を愉しむ。その多くは病気の時、高熱の後の回復期などに体験するのだという。

葦男が俳句を「形象性の詩」と呼ぶとき、それは素朴実在論的な写生だけではなく、自己の心の中にしか存在しない形象の表現をも含む。夢の中の飛翔体験や鳥瞰イメージを克明に描くこととそれはどこかで相通じている。

さて、冒頭の句は西東三鬼の「算術の少年しのび泣けり夏」を連想させる。が、しのび泣きながら少年が取り組んでいるのは幾何学や微分・積分などの「数学」ではない。「算術」なのである。鶴亀算か、旅人算か。いやそれ以前の九九あたりで彼はすでに躓いていたのかもしれない。要はセンスやひらめきの問題ではなく、それ以前の丸暗記=記憶力の問題だった可能性が高い。

対する葦男作品の少年は記憶力抜群だった。そこに描かれているのは幾何の問題がすっと解けた瞬間の強烈な快感である。葦男はそんな「数学的エクスタシー」を「花火みどりに裏返る」という官能的な表現のうちに見事に言い止めたのである。


成田千空の句/深谷義紀

土偶みな寝に帰りき秋の山

第4句集「白光」所収。

青森は縄文文化が花開いた土地であり、今も県内には三内丸山などの遺跡が残る。その縄文文化の象徴として、よく挙げられるのが土偶である。一般になじみのあるのは、大きな目、突き出た腹が特徴的な遮光器土偶だろう。もっともこの土偶は、どんな目的で制作されたか、今も定かではないという。それでも現代人のわれわれから見ると、何とも言えない温かみをもつオブジェである。

そうしたことから、青森の人々にとって縄文文化や土偶はとても近しい存在である。その点は、他の地域とは決定的に違う。他の地域で土偶に親近感を覚えるなどと言えば、よほどの考古学マニアと言われかねないだろうが、青森ではもっと一般的に語られる。

そして青森の人々は、自分たちが縄文人の子孫であることを、折に触れ意識する。加えて、その意識というのは、単純にそうした遺跡が発掘された地域にたまたま住んでいるということではなく、この土地が何世紀も前には温暖な気候に恵まれた豊穣な地域であり、文化的にも進んでいた地域だったという自負が、その奥底に潜んでいるのである。土地の人達が「縄文」を語るときには必ず、そうした強い自意識あるいは誇りのようなものが根底に存在する。

掲句も、一読した限りではどこかファンタジーを感じさせる空想句とも思えるが、もっと重層的な構造を有しているように思う。例えば、かつての縄文人たちは土偶を、冬眠する動物たちと同じように考えていたのかもしれない。あるいは、千空にとって、この「土偶」は自分を含む津軽人の祖先であり、そうした縄文人も冬になると(冬眠する動物たちと同じように)山に生活拠点を移したかもしれない。いずれにせよ、そうした太古の縄文人たちの記憶が時代を超えて千空の脳裏に蘇ったとみることができるのではないか。さらには、千空自身が、「混沌とした現代社会に疲れた。かつての先祖たちと同じように、そろそろ秋の山に寝に帰ろうか」そんな心情を託したように思えてくる。謂わば縄文人としての記憶や自意識が現代に蘇った作品である。


戦後川柳/清水かおり

某月某日いちばん暗い樹とゆれる     岩村 憲治(1938年~2001年・京都)
  

岩村憲治の句には「樹」が多用されている。「樹」は岩村憲治川柳句集の中で作者の象
徴物のような役目を持った存在である。私達が思う人間と樹との関わり方は生命の交感と
して捉えることがほとんどだ。青々とした枝葉の繁りや大地へつづく根元の力強さ、逞し
さ、そして悠久の時を感じるはずである。だが憲治の句に描かれる「樹」は、季節の変遷
の中でじっと動かず、過ぎてゆく時間を凝視していて、どこか隠者のような空気を持った
それである。

樹の中に曳いて密かに育てる樹
影売りが深夜愛しむ火のマーチ
落ちてくる昼見た街が茫々と
樹を植えてしまったさみしい樹になるぞ

など、個我を見据えた句は社会との関係性が希薄に映る。しかし、社会と自分の肉体との距離を測りながら生活をする目を持つ者は、社会を批判することにも激しい生への希求がつきまとうという現実を知っている。そこには純粋な客観性を持って社会を書き得ないかもしれないと考える表現者の寂しさがあったことだろう。昭和50年代、憲治の周辺には詩性と社会性の相まった濃厚な川柳があった。また、時実新子など私性の横溢を表現手段とする川柳も勢いをつけはじめていた。それらの作品と憲治作品に当時の読者がどれだけの距離を見出していたかは不明だが、そのナイーブな作品世界に魅了されていたことは想像がつく。

あすも冬の森にぼくらの皿ふやす

陽のほしい父へ樹を伐れ つまづくな

掲出の「某月某日」は不思議な時間空間と共に書かれた句だ。これは過去のことのよう
でもあり未来のことのようにも思える。「某」の句語によって読者はある種の既視感へと
誘導される。ここでゆれているのは誰だろう。暗い樹は主体の意識なのか、主体そのもの
であるかによってゆれる人の姿も違ってくる。某月某日は憲治の一生を通じて過去にも未
来にもなるその1日のことであり、その日を記憶しつづける樹が寄り添いながら暗く在る
のだった。

句語の選択は作者の嗜好ではあるが「木」ではなく「樹」である理由をふと考える。
「樹」が憲治の記憶を媒介するものであれば、枯渇する時間と闘う「木」では彼の憧憬が
満たされないのだと思った。

     『岩村憲治川柳集』(2004年発行)所収。


戦後における川柳・俳句・短歌/兵頭全郎

感覚的にざっくりとだが、川柳には「~している」という句が多く俳句には「~がありました」という句が多いと思っている。いわゆる戦後という時期の句を読んでみると、この傾向はより強いように思われる。その分か、川柳で「記憶」をキーワードとして句を探すと案外むずかしい。個人的に嫌いな表現だが、散見する「亡父(ちち)・亡母(はは)」のように、死者への思いや回想のようなものが「記憶」にあたるだろうか。

埋葬や琥珀のパイプ拭きつ帰る  片柳哲郎(1964年 黒塚)

「千の風になって」が流行したが、葬儀や弔いなどは死者のためにではなく、残されたものの記憶の整理のための行為だと思う。革新川柳運動の真っ只中にいた作者が「切れ」を用い「埋葬や」と離して置いたことで、この葬儀が身内のものか見ず知らずの通りがかりで遭遇したものか、いずれにしてもどっぷりと感傷に浸るようなものではなくドライな心情を印象づけている。またそれによって「琥珀のパイプ」が、自分の持ち物か形見分けのものかも不明になるのだが、「琥珀」自体、樹脂が年月をかけて固化したものであり、記憶の象徴とも受け取ることが出来る。「拭きつ」はまさに整理の行動。そして「帰る」は我が身の行動であり、日常への帰還となる。読者の感情はこの「拭きつ」一点に凝縮され、そこにそれぞれの思いが呼び起こされることになる。

夏来ると紫明の空に霊歌湧き  石原八束(1964年 空の渚)

「霊歌」は葬儀とは異なり、特定・個人の死への回想というより一般的・普遍的な「祈り」の要素が強い。ただそこには重層の思い(人種・信条的などを基にした積み重ね)があるので、歴史的な記憶と(やや強引だが)言えるかもしれない。「夏来ると」という作中主体の意識には「ああ、今年も…」といった個人的感慨が含まれていて、ここに特定の誰かに対する想い出などがリンクしているのだろうか。「夏」「空」「湧き」で入道雲の姿を「霊歌」の広がりや力感と重ねているのも面白い。

実はこの文章を書いている最中親戚に不幸があり、葬儀に参列した。母方の実家が寺で故人はそこの先代の住職なのだが、生前にかなりの要職に就いていたこともあり、寺の本堂で行われたその葬儀には30人近い僧侶が揃う荘厳なセレモニーとなった。もちろん親戚筋や門徒衆なども数多く集まり、粛々と進められていったのだが、弔辞などの際にも不思議と涙の見られる場面がほとんどなかった。ただ読経や挨拶も終わり出棺の前、棺へ花を詰めていく段になって、故人の亡骸に近づいた人々が次々にわっと泣きはじめたのだ。某国の「泣き屋」的なものではなく、故人を知る人が最後の対面をした瞬間にこみ上げる感情である。肉体はまもなく火葬されてなくなる。故人への直接の感情は、これを最後にこみ上げてくることはないだろう。ここからあと、故人の魂とか精神というものは、おそらく生きている人間それぞれの記憶の中で個別に立ち上がるもので、寂しさや悲しさといった感情も、記憶の中にある感情が再生されている場合が多いと思う。葬儀や霊歌などはそういう感情を含めた記憶の整理や復元の場とか装置になるのだろうとあらためて感じた次第である。

亡き母の真赤な櫛で梳きやれば山鳩の羽毛抜けやまぬなり  寺山修司(1965年 田園に死す)

「山鳩の羽毛」を「梳」くことなどない。「亡き母」の「櫛」にまつわる記憶である。「抜けやまぬ」姿と「真赤」の印象。生前に見た、母が髪を梳く姿へ何らかの感情が、今沸き立ったという歌ではない。「羽毛抜けやまぬなり」という「山鳩」の姿(現実にせよ想像にせよ)と母の当時の様子とを重ねて、母がその時にどのような心持ちだったのか。さらには、ひょっとすると今の自分も似たような状況にあって、記憶にある母の魂と会話しようとしているのかもしれない。資料・解説文からの抜粋だが寺山の「やむにやまれぬ感動や、追いつめた自我などをうたうには、実は短歌という様式第一のジャンルは不的確なのだ。」という言葉によれば後半の読みは行き過ぎかもしれないが、作中主体の動きを追おうとするとこうなるのだ。そうして考えると、句や歌というものはお経や霊歌と同じような存在なのかもしれない。

戦後俳句史を読む・攝津幸彦3


攝津幸彦俳句鑑賞   堀本 吟

断片的にしかいいえないとは思うのだが、こういう場を借りて、じわじわと攝津幸彦を読んでみようと思う。先に攝津幸彦の散文を取り上げて読んでみた。[戦後俳句を読む(第10回の3)・攝津幸彦 1:2011年09月23日 ]

そこにもすこし触れていることだが、彼の散文につかわれるレトリックの大胆な省略(抽象化というのともすこし違う)は、読む者に理を分けた叙述より強い何かを喚起する。論理的には絶対説明できぬことをいおうとすれば、無限に短くなるか無限に長くなるかしかない、攝津の散文に於ける省略癖は、言い得ないことを直観的に言ってしまって、そのことを自ら説明するために、回りくどく、その思考の核の廻りをグルグルとまわっている。

「青春が確固たる目的もないままにひたすらに上昇を思考する病い」
「私と俳句とのかかわりも、またひとつの病いであったのだ。」
「いまや病いとてけっして近寄ることができないほどの空虚が私の身辺を取り巻いている」
「意匠がそのまま思想であるかのような、思わせぶりのみが目立つ俳句形式の逆説的構造」

「なんどか徹底的に白けてみようと思った」
「白けきろうとする時」、やがてそこに無化された「私」が発見される」
《俳句と極私的現在》(「俳句研究」1981年3月)。『俳句幻景』所収一九九九年南風の会発行

上の文章などから、ものごとは決めがたいということ、またその決めがたい領域について、彼にはかなり強い関心があるのではないか、と推理する。それは俳句の方法への懐疑として言われているのだが、むしろ攝津幸彦の持ちまえの、資質的なものではなかったろうか。また持ちまえといっても、けっして優柔不断なのではなく、物を見極めようとすれば相対化してみるほかはなく、特に、その眼前のことにアンガージュマンへの積極的な動機がみつからず、情動もがわかないかぎり、かれは性急に二者択一を果たすよりも、それらについて態度決定しない、という方を撰んでいる。その時期に、彼は、大学封鎖などの現実にぶつかっている。

若き攝津幸彦は、「私」という器が空虚そのものであることにすでに気がついている。外部から積極的に近づくものを寄せ付けない、好きな俳句に対しても徹底的に白けるんだ、という。上の文章では、そうなってくる。ふつう健康の代名詞のようにおもわれている{青春の上昇志向}そのものを「病」だと言う。これは、やたら他に与しない昂然とした気概であると言うより、ニヒルをきめ込む当時の若者のダンディズムを更に超えた、退嬰性をすら見せている、意志的に生よりも死の美学の方をめざしたものだ。一般的な青春性から見ればこちらこそ「病」と言うべきなのだが、攝津は、無化した器になった「私」=自己をなげだすことで、ぎゃくに存在する理由を得ているのだ。自意識というありかたのもっとも根源的な場面におりていったのである。多くの文学青年は、その虚無をかざして悩める青春字体を美化しまた顕示してゆくものであるが、攝津幸彦はそういう積極的ニヒリズムと違う、退嬰、消滅を辞さないニヒリズムに憧れたのではないだろうか?

すでに新しい形式の発見などを考えないない、求めない、「無」という自己主張をしはじめたのである。

しかしこれこそもっとも過激な自己主張と言うべきであろう。

「無化された私」などというわけの解らぬ自問が内面と堂々めぐりしている時に つまり、私たちが攝津俳句の「初期」だといっている前衛的試行錯誤のその時期は、このような方向を定めがたい時期だったのだ、彼の青春俳句の晩期であったのだ。ただ、こういう特徴とおもわれることも、彼の全体像のひとつに過ぎないのである。

きりぎりす不在ののちもうつむきぬ 『鳥子』

「きりぎりす」はそこには居ない。無を存在としてを形象化すればこういうことになるのだろうか?幻影、または残像というよりもっと輪廓が明晰である、観念の姿としての「きりぎりす」がそこにじっとうつむいている。

言葉に関わるときに、実在とは何か?無と有はいれかわるのか。言葉の錯視に私たちはなげこまれる。

亡きものは亡き姿なりあんかう鍋(『輿野情話』)

「あんかう鍋」はとりあわせだ、と考えてみる。同窓会とか忘年会かなにかの場面設定である。亡くなった知友が、その死んだ姿のまま、生者の宴会に同席している。まるで怪談か落語のひとつばなしであるのだが、怪談も根本的には生と死のわかれめが曖昧である、と信じる精神が生み出したものだ。こういうモチーフも俳句になるのである。

攝津俳句では。生と死の、自己と他の、また言葉と肉体の境界を取り払おうとしている、そのことへのつよい志向があるのである。そう言う俳人はいくらでもいる、と思えばいそうだが、やはり攝津幸彦が、意識化の私をさがし、そこに無き「私」を見出す、という倒錯ともいえる精神の深みにおりていったのである。見えないはずの「私」をやはり見たいという、逆説的な願望はやはりあるのだ。思想を無化し意匠に転成させる形式、その発見という、またもや一種の韜晦の次元にはいりこむ。

聞き込めばまだらの紐や久女の忌  『鹿々集』
花衣脱ぐやまつわる紐いろ\/   杉田久女

が下地であることはあきらか。それとあるいはシャーロックホームズが活躍する『まだらの紐』という小説の謎解きのキーワードを掛け合わせた道具立てが読みとれる。殺人犯の正体はまだらの模様の蛇だったというスリラー小説の古典が、久女にまといついてい噂の虚実をも想い出させる洒落た世界を創る。こういう小説仕立ての句は、楽しさの背後に何か分からぬものをもとめ畏れる、人間心理の撞着を垣間見せるともいえる。攝津は、本来の意味での怪奇現象を書いた作家だと言うことでもある。

 攝津幸彦の俳句思想は、若い日に落ち込んだ、俳句に関して「徹底的に白けようとする」志向をまでひきずってきている。そう言う情熱で俳句を作り続ける俳人・・このことによって、高度な韜晦の技術を得た、とも言えるのだ。俳人を育てる要因ということをしみじみ考えさせられる。(この稿了)

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