戦後俳句を読む(第13回ー2) ―テーマ:「冬」その他―

―テーマ:「冬」その他―

齋藤玄の句/飯田冬眞

寒風のむすびめごとの雀かな

昭和50年作。第5句集『雁道』(*1)所収。

〈寒風〉というと肌の細胞がキュッと引き締まる感じの風。その寒風には〈むすびめ〉があり、その〈むすびめごと〉に〈雀〉がいるという。ふつう風は直線的に吹き抜けてゆくものと思っているが、実は〈むすびめ〉がある、という発見が、この句のユニークさだろう。おそらく、その〈むすびめ〉は風が休息する場所なのだ。そこを目ざとく見つけて、集まっている雀たち。よくみれば、雀は点在している。おそらく、そこにも〈寒風のむすびめ〉があるのだろう。その〈むすびめごと〉に〈雀〉が身を寄せ合っている。ぬくもりをさがすのに長けた雀ならではの振る舞い。一点凝視で〈むすびめ〉を発見した作者の視野が、〈雀〉の補助線を得て、ひろがってゆく。〈ごとの〉の措辞に作者の認識の深まりが凝縮されている。見逃しがちな雀の生態を空間的に把握しながら、〈寒風〉によって温度感をも伝達させている。寒風の冷たさと雀のぬくもりを優しい視線で手渡してくれた秀句。

掲句と同様に、冬の厳しさの中で息づく生き物たちをモチーフにした句をいくつかみていこう。最初に鳥の句を次に魚の句の順。

玄冬の鷹鉄片のごときかな 昭和16年作
つぎはぎの水を台(うてな)に浮寝鴨 昭和48年作
すさまじき垂直にして鶴佇てり 昭和49年作
凍鶴に寸の日差しも来ずなりぬ 昭和54年作
氷下魚(かんかい)は夢見るごとく釣らけれる   昭和47年作
動かぬが修羅となるなり寒の鯉 昭和50年作

一句目は、初期の齋藤玄の代表句のひとつ。厳寒の空を突き破らんばかりに飛翔する鷹の姿を鉄片に喩え、自己と重ねている。「壺」を創刊した翌年の作。当時は「京大俳句」時代からの俳号、齋藤三樹雄を名乗っていた。「音の句」の項でも書いたが、いわゆる新興俳句弾圧事件を背景とした青年の鬱屈と自由への憧憬に満ちた青春性を湛えた秀句。

二句目は、結社同人間の政治的な振る舞いに疲弊して、長らく俳壇から遠ざかり、個人誌を出していた玄が「壺」を復刊した年の句。昭和50年刊行の『狩眼』および全句集の表記に従ったが、昭和53年刊行の自註(*2)では、下五を〈浮寝鳥〉と改変している。〈つぎはぎの水〉を才智とみるか、凝視とみるかで評価は分かれるだろう。私は〈台〉の一語で、〈つぎはぎの水〉が浮寝する水鳥の不安定さを射抜いているように思うが、いかがだろうか。

 三句目の〈鶴〉は、一句目の鷹とは対照的に空から舞い降りて、大地に降り立った姿を詠んでいる。テレビを通して、世界中の動物の姿態を観てきた我々の目からすると〈垂直にして〉がやや安易に思える。だが、作句年次を考えると一般家庭におけるテレビの普及率はまだそれほどでもなかったはずだ。厳寒の北海道の丹頂鶴を実際に見た者でなければ〈垂直にして〉は出てこない。雪原の広さも見えてくる。

四句目は句集『雁道』を刊行した昭和54年の冬の作。遺句集『無畔』に収録。〈寸の日差しも来ず〉の措辞に雪に覆われてほの暗い天空を仰ぎつつ佇つ〈凍鶴〉の姿がありありと浮かび上がる。

五句目の〈氷下魚(かんかい)〉は「こまい」の北海道における呼称。海面の氷に穴を開けて釣る。氷下魚の稚魚は目の周りがほんのりとピンク色に染まっており可愛らしい。〈夢見るごとく〉によって、氷の穴から釣り上げられたばかりの氷下魚の姿を活写している。

六句目は、水底に魚体を沈めてじっと動かない姿から〈寒の鯉〉の執念を読み取っている点に特徴がある。動きたいが動けない、鯉と水との相克を、〈動かぬが修羅となる〉とした措辞に玄の底知れない独創性を感じる。

今まで見てきたように冬の生き物を詠んだ玄の句は、的確に季覚と空間をとらえており、そこに卓抜した凝視の力と景物の情感に甘んじない、堪え性の強さを感じる。


*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 

*2 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊

青玄系作家の句/岡村知昭

喋るより黙しがちなる凍鶴忌  小寺正三

 初出は「青玄」1957年(昭和32)8月号、「草城一周忌追悼作品」のうちの一句、

 この特集には同人90名のそれぞれ一句が掲載。季語として用いられた「凍鶴忌」とは、日野草城の命日である1956年(昭和31)1月29日のこと。

 草城と「鶴」といえば代表作である「高熱の鶴青空を漂へり」をはじめとした作品の数々が思い出されるが(第2回で取り上げて鑑賞しているのでご参照いただければ)、この一周忌へ向けて草城の命日を修するにふさわしい言葉として、俳号をそのまま使った「草城忌」、最後の句集のタイトルから取られた「銀忌」(しろがねき、ひらがなでの使用例もあり)とともに、「凍鶴忌」と「鶴唳忌」という草城と「鶴」のイメージから生まれたふたつの語があったのだが、この追悼特集では「凍鶴忌」が多く用いられたのに対して、「鶴唳忌」は八幡城太郎が「鶴唳忌夜雨がありし土やはらか」の一句のみ。「青玄」誌の中での定着の度合いに大きな差が出ているのがうかがえる結果となった。ちなみに「草城忌」の句においても「鶴」のイメージを背景にした作品がいくつか見られるので、合わせて引用してみる。

かの微笑まざまざとあり凍鶴忌    日野晏子
凍鶴忌とて美しい火を囲む      伊丹公子
酔はぬ酒に想ふ凍鶴忌といふことを  播本清隆
天より鶴の羽音高鳴り草城忌     板垣鋭太郎
ねんねこの鶴の模様や草城忌     平井石竜

 ではなぜ「凍鶴」が「鶴唳」より受け入れられたのだろうか、と考えてみたい。草城の「鶴」の句は高熱の身体を空を漂わせている、天高く飛べない己への嘆きに溢れているかのような姿を見せており、「凍鶴」の静かさの極まる立ち姿とはどこか違う存在であるはずで、「鶴唳」のほうがふさわしいと思えるくらいでもある。だが「青玄」誌の同人たちが抱いた草城のイメージはどうやら空高く鳴き交わす鶴ではなく、細い脚を貼り付けているかのように地に付けて、厳しい冷気の真っ只中に立ち尽くす「凍鶴」であった、ということなのだろう。そこには戦前の才気を前面に押し出した作品群から来る華やかさと、戦後の病床での生活によってもたらされた沈静に満ちた作品群とままならない身体と俳人としての活動への不如意の部分、そのどちらをも抱え込んだひとりの俳人の命日を修する語としては「凍鶴」は「鶴唳」より確かにふさわしく思われたのだろう。

 掲出句はそんな「凍鶴忌」の印象が充分に生かされた一句である。「喋るより黙しがち」なのは師の命日を迎えた自分自身であり、同じようにこの日を迎えた弟子たちであり、そして亡き師の家族であろうが、亡き師もまた「喋るより黙しがち」な人であったことよ、との感慨も深く一句には込められている、亡き師は病の痛みも生活の苦しみも創作の苦悶も、それら一切の何もかもを引き受け、嘆きの数々をけっして見せようはせず、静かに微笑んでいた人だったのだと。草城との日々の記憶が鮮やかに残るなかでの追悼の一句として、草城の静かなる立ち姿を見届けたひとりである正三は「喋るより黙しがち」以上のことを喋らないように何とか踏みとどまっている、それこそが師である草城の忌を修するにもっともふさわしい態度であると自らに言い聞かせているかのように。

 最後にもうひとり「凍鶴」の句を紹介したい、作者は草城の第2句集「青芝」の扉に登場する愛娘の温子さん、この頃「青玄」の一員であった。父から句集の冒頭に「温子よ はやく 大きくおなり/ちよこちよこばしりが できるやうになつたなら/青い芝の上で 鬼ごつこをしよう」と呼びかけられた娘が、いまは亡き父への想いを寄せた一句である。

冴ゆるなり凍鶴星となりて燦    日野温子

成田千空の句/深谷義紀

仰向けに冬川流れ無一物

第1句集「地霊」所収。

一読、冬の津軽野の景が目に浮かんでくる。平野に川が走るが、冬涸れで水量は乏しい。そのどことなくうらぶれた様子が、当時の千空の生活状況あるいは心境と重なり合ったのだろうか。自らの姿を投影した作品とも言える。

眼目は「仰向けに」という措辞だろう。無論、直接的には冬川の様子を上空から鳥瞰しての描写であるが、謂わば無防備に己をさらけ出した、あるいはあっけらかんと開き直ったような川の姿に、千空は、ある意味での潔さを感じ共感を覚えたのだろう。

千空は、若き日に肺を病み、4年にわたる療養生活を送った。折りしも太平洋戦争の時期と重なる。戦後も開墾地での帰農生活を五年ほど送り、その後五所川原に小さな書店を開いた。作句当時の経済状況の詳細は不明であるが、過ぎし日に「無一物」の生活を送った自分の姿を、冬涸れの川の景に重ねても不思議はなかろう。

その後も、決して豊かとは言えない生活が続いていた筈だが、徒にそれを哀しむわけではない。千空には、後年、次のような作品もある。

びんばふが苦にならぬ莫迦十二月     「百光」

こうした骨太の向日性が千空の人柄あるいは作品の魅力である。

技法的には典型的な擬人法ということになろうが、決して安易な見立てに陥ってはいない。それは、上述のような深い共感に裏打ちされているからだと考える。

実は、津軽でこうした光景が見られるのはそう長い期間ではない。冬が来れば、やがて雪が降り、一度降った雪は根雪になる。津軽平野は何もかも雪に覆われてしまうのである。千空が見た川の姿は、その直前の一瞬の光景でもある。

永田耕衣の句/池田瑠那

夢の世に葱を作りて寂しさよ

 耕衣、代表句中の代表句。生前自ら名付けた戒名が「田荷軒夢葱耕衣居士」であることからも、耕衣俳句の精髄と言うべき一句であることがうかがえる。掲句の主人公は現世を仮初の「夢の世」と観じ、その夢の世に在ることの深い寂しさを噛みしめている。観念に流れがちな内容なのだが、葱という野菜のほっそりと頼りないイメージが、まさしく現世の「夢の世らしさ」を凝縮しているようで、不思議な実感のある句となっている。

さて、耕衣の後年の句集『葱室』(昭和62年刊)の末尾に次の2句がある。

死を以て逃亡と為す葱の国
逃亡も夢なり夢なり葱の国

葱畑を「葱の国」と見るまなざしには、恰も神や仏が人間の世界を眺めているような趣がありはしないか。葱の姿かたちは、そう言えば少し人間に似ている。葱坊主の「頭でっかち」な容子と言い、芯が、「空洞」であることと言い。その空洞にあれやこれやの煩悩を満たしながら、葱も、人も、精一杯伸びてゆく。所詮は神仏に「植えられた」、定められた位地から逃れようもないままに……。

見ているうち、農婦が今日の夕餉の菜に、と一本の葱を無造作に引き抜いて行く。引き抜かれた葱は、自らの「死」を以て「葱の国」からの逃亡を果たしたかと思えるのだが、その逃亡も瞬く間に「夢なり夢なり」と喝破されてしまう。生まれ変わり死に変わる因果律の巡りからの「逃亡」は、容易く果たせることではない、ということか。

改めて冒頭に挙げた「夢の世に」の句を読み返してみると、この句の「寂しさ」は、「夢の世」全体を見渡している神や仏といった存在が感じている「寂しさ」に通ずるのではないか、と思えて来る。葱畑、「葱の国」は人間世界の極小の相似形。葱畑を眺めているうち、仮初の夢の世に、儚い葱のような人間たちを「作り」続ける神仏の「寂しさ」にふと触れてしまった――。その空恐ろしいような瞬間が結晶した句と、思えて来るのである。(昭和27年刊『驢鳴集』より)

戦後における川柳・俳句・短歌/兵頭全郎

寂しさに大根おろしをみんなすり  岩井三窓(1959年 句集三文オペラ)
なさけうれしくきつねうどんにむせかえり  同

 「大根おろし」は冬、うどんは「鍋焼きうどん」で冬の季語になるそうだが(間違っていたらスミマセン)川柳なのでイメージとして。

以前のテーマ「秋」の際に少し触れたが、川柳と俳句の作者の生活環境の差について、同じタイミングで野口裕氏(=文中の「知人」)が『週間俳句』上でそのことについて文章にしていた。曰く「明治以後の俳句を担っていたのが書生で川柳は商家の小僧さんが中心だった(要約)」とのことで「川柳を支えていたのが最も貧しい階層の人々だったのでは」としている。

『週間俳句』名古屋座談会印象記  野口裕

 岩井三窓は川柳の最大結社である「番傘川柳社」で編集長を1986年まで務めた番傘を代表する作家の一人である。資料上にピックアップされた20句は全て「貧乏」だ。「寂しさに」という状況にいながら「大根おろしをみんなすり」というわずかな喜びの瞬間。「なさけ」を受け「うれし」を素直に出しながら「きつねうどん」を一気にすすり「むせかえ」った瞬間を切り取った句。いずれも貧しいながら「生きている」という実感をスチール写真のように捉えている。これらの句は現在も人間諷詠とか、いわゆる「番傘調」として受け継がれているようだが、今のそれは「わかりやすさ・平明」などといったある種の呪縛によってステレオタイプ化されてしまっていて、画素の粗いCG写真が大量にコピーされているような状況が見受けられる。当時なぜこのような句が評価されたかを分析し、では今どのような形でこれを表現すべきかを考えなければ、この方向での川柳は潰れてしまうだろう。コピーのコピーを続けていけば、やがては原型を留めていられなくなる。

(尚、岩井三窓氏は本年9月22日に他界(享年89歳)。ご冥福をお祈りいたします。)

冬の波冬の波止場に来て返す  加藤郁乎(1959年 球體感覺)

 いわゆる戦後の貧しさというものを表現する際、俳句は「空虚感」を、川柳は「極貧」をベースにしているように思える。もっとも、1959年は皇太子のご成婚や長嶋茂雄の天覧試合サヨナラホームランなど「華やかな昭和」のはじまりのような時期でもあり、その分貧富の差も相当な体感を持ってあったと考えられる。冷たく荒い「冬の波」が吹き曝しの「冬の波止場」へ、当たり前のようなことだがそれが当たり前に「来て返す」無情。これを見ている者が見窄らしい格好をしていようが毛皮のコートを着ていようが、ただただ「冬の波」は繰り返し「冬の波止場」を浚うのである。ここに書かれている「冬」は徹底的に冷たい。それだけに読者は、眼前にあるその場から少しでも遠ざかろうとして温もりを欲することだろう。

ゆずらざるわが狭量を吹きてゆく氷湖の風は雪巻き上げて  武川忠一(1959年 氷湖)

 短歌が「私」を書くとき、言葉数の多さからより「具体的な個」である「私」に近づく。「ゆずらざるわが狭量」への自戒だろうか、自らの心を映す「氷湖」に吹き込む「風」は「雪巻き上げて」いくほどの勢いである。「冬」のイメージはやはり冷たく色数の少ないものとして書かれているが、この歌にはこの時代の匂いや空気感は感じられない。先の「冬の波~」の句でも時代性を抜きにして読むことは可能だが、背景にある時代を感じながら読むと句のリアリティが強まるだろう。対してこの歌は個に具体性がある分、却って時代を超えた普遍性をもって読むことも出来る(もっとも三枝氏の解説文によれば、この「狭量」は作者自身を見つめたものであるらしいが)。

この「私」に読者の一部は共感を覚え、またある読者は他人事と感じるだろう。「具体的な個」は、例えばドラマの主人公の設定を細かくつけていくほど実在感が増して親近感が湧く場合と、自分とは別物であるという拒絶感を強める場合、両方の可能性をもつ。柳俳と短歌のどちらを選ぶかは、この具体性の強さをどのレベルで持ちたいかが分かれ目になりそうだ。大幅に話を戻すが、では現在、俳句と川柳を選ぶ理由として、そこに「貧富の差」がまだ存在するのだろうか。だとすれば、俳人が何を「豊か」とし、柳人が何を「乏しい」と感じているのだろうか。疑問は深まるばかりである。

上田五千石の句/しなだしん

剥落の氷衣の中に滝自身     五千石

昭和五十年作。第二句集『森林』所収。

見立てと擬人化のオンパレード、かなりしつこい句ではある。 

凍滝にかかる「剥落」は見立てであり、「滝自身」は滝の擬人化と言えるだろう。そして極めつけは「氷衣」だ。これは「ひょうい」と読ませる造語らしい。ただこの「氷衣」、強引な語彙ではあるが自然に受取れなくもなく、音では「憑依」も感じさせて、この句では面白い効果を生んでいる。こういうしつこい句、私は嫌いではないのだ。

この句は、冬の滝を詠んだ連作と思しき四句の最初の一句で、他に、

凍滝の膝折るごとく崩れけり
氷結の戻らねば滝やつれたり
涸滝をいのちと祀る三戸はも

が続いている。最後の句は「涸滝」であるから、一連とは云えないか―。

五千石の句集には地名をはじめとする前書のある句が割合多く、この『森林』もそれに洩れないが、掲句を含む連作には前書は無い。『上田五千石全句集』(*2)の「『森林』補遺」のこの時期には当該句の掲載がないことから、この関連はこの四句がすべてと推測される。このことから、これらがどこで詠まれた句かは定かでなく、吟行の際の即吟ではないように思われるが、「凍滝」等の題詠だという証拠も無い。

この句の制作年、昭和五十年は、昭和四十八年にはじまった「畦〈通信〉」が正式に「畦」として月刊誌となった年にあたる。言えば「畦」が活発に活動していた時期であろうし、五千石自身もスランプから脱し、吟行やもちろん題詠句会などに精力的に動いていた時期であろう。この精力的な時期に生まれた、精力的な句、ということになろうか。

以前、私は北海道知床で、素晴らしい凍滝を見た。そのとき、自然が創り出した造形を前に私は言葉をなくし、ただの一句も詠むことができなかった。掲句はどこの凍滝か不明だが、その荘厳な凍滝の様をまざまざと思い起こすことができる。

五千石の句としてはあまり表に出てこない作品であるが、冬の「凍滝」の句として、私の愛誦句となっている。


*1 『森林』 昭和五十三年十月十日 牧羊社刊

*2 『上田五千五全句集』 平成十五年九月二日 富士見書房刊


★次回より、(戦後俳句史を読む)「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会が10回の予定で始まります。

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