戦後俳句を読む(第14回ー1)― テーマ:「春」その他 ―

テーマ:「春」その他

稲垣きくのの句/土肥あき子

春の夜のこころもてあそばれしかな  『榧の実』
春の夜の触れてさだかにをとこの手  『冬濤』
春の夜の夢にもひとの泣くばかり   「俳句研究」昭和55年5月号

 きくのの最初の師、大場白水郎の「春蘭」(〜1940年)、「春蘭」の復刊ともいえる「縷紅」(1940〜1944年)が終刊したのち、1946年白水郎の親友であった久保田万太郎が「春燈」を創刊したことを知り、入会する。この時、きくの40歳である。「春燈」には文章も頻繁に発表し、まとめたものを句集よりひと足早く随筆集『古日傘』(1959年)として上梓した。『古日傘』の巻頭には万太郎の序句「春ショールはるをうれひてまとひけ里」が置かれている。

 この随筆集のなかで、万太郎が登場する一話がある。1939年のできごとというから、同じ「春蘭」のなかの兄妹弟子という関係のなかの思い出として描かれている。

 万太郎がお座敷遊びの最中に一句を書き付けた紙片を、隣に座ったきくのに渡した。

 秋の夜、と始まるその句に「これ、春の夜ではいけませんか」と言うと、万太郎は言下に「いけない、春の夜じゃいけない」ときつい調子で応えた。紙片をさらにじっと見つめた万太郎は「なつのよ…、ふゆのよ…」とつぶやいたのち、はっきりと「うん、冬の夜がいい」と断言したという。

 抒情が勝り春の夜がふさわしいと思ったきくの。

 小説家として冬の夜が最適とした万太郎。その句とは

冬の夜の大鼓(かわ)の緒のひざにたれ  万太郎

 鮮やかな朱の緒とともに芸の意気まで表しているような演出に、きくのはため息とともに深く納得する。

 このほんのわずかなふたりのやりとりのなかに、きくのの抒情と、万太郎の選り抜かれた演出が見てとれる。そして、言外に漂う信頼関係も。

 1963年5月6日の万太郎の死は、誤嚥性の窒息という誰もが思いもよらない唐突なものだった。悼句の

薔薇紅き嘆きは人に頒たれず  『冬濤』

には「久保田先生逝く、直前、薔薇を賜ふ」の前書がある。薔薇の御礼も言えぬままの別れだったことだろう。

 そして、掲句に並べた春の夜3句はすべてお座敷の一件以降の作品である。きくのの春の夜は、相変わらずしっとりと濡れるような抒情に縁取られていた。

楠本憲吉の句/筑紫磐井

見るからに呪縛の女 マルクス忌

今までことさら取り上げてこなかった憲吉の第1句集『隠花植物』(昭和26年刊)より取り上げた。これからも取り上げる機会がないから一度ぐらいは取り上げておこうと思ったのである。『隠花植物』は昭和20年から25年までの作品を含んでいるから、制作時期はこれから推測するしかない。

この句の季語にあたる「マルクス忌」は季語ではない。しかしマルクスの忌日(1983年3月14日)はある。草田男の「燭の灯を煙草火としつチエホフ忌」 のチエホフ忌は季語になくともチェホフの忌日(1904年7月15日)があるのと同様である。

『隠花植物』は、昭和26年に<なだ万隠花植物刊行会>から限定120部の豪華本で世に出された句集だそうで(筆者未見)、後、31年に大雅洞より95部限定で刊行された(さらに53年に深夜叢書社から、これは部数の限定なく復刊された)。5章、わずか84句からなる句集である。ほとんど人に読ませないための句集であったのではないかと思えてならない。例えば、

オルゴール亡母の秘密の子か僕は
酒場やがて蝋涙と化し誰か歔欷
汝が胸の谷間の汗や巴里祭
妻よわが死後読め貴種流離譚

などの一応人口に膾炙した憲吉の句は、『楠本憲吉集』(昭和42年刊)になって出てくるから、『隠花植物』は句集の名前のみ有名でほとんど句は知られていないと言ってよいのだ。のみならず、<なだ万隠花植物刊行会>刊の『隠花植物』は表題が『陰花植物』となっているのも不思議である。ほとんど句集『隠花植物』は、『隠花植物』という題名のためにだけ存在する句集といっても良いかもしれない(詩人菱山修三も序文でこの句集名を褒めている)。

また、この句からもわかるように『隠花植物』は収録句の半ばが無季の句である。季語のように見えながら季語ではない言葉も多い。この句で言えば、ただ、マルクスの忌日だから春だろうと推測するばかりなのだ。おそらく師の草城から受けた新興俳句の匂いを最も濃く残していた時期であったろう。

有季から無季へ、難解な句から平明通俗な句へと変わったが、「見るからに呪縛の女」で分かるとおり女性に対する見方は少しも変わらない(マルクスには愛人がいたというから存外無縁な忌日ではないかもしれない)。

ちなみに、『隠花植物』時代に柴山節子と結婚する。昭和22年25歳のことである。

光る靴踏むや瓦礫のわが華燭

これ以後、憲吉の句集は妻との葛藤に満ちた俳句が満載される。虚々実々の妻との駆け引き、騙し合い、憎み合い、自己憐憫、軽蔑、畏怖、愛情と、まさに圧巻の句集となっているのである。夫婦の機微をこれほどあからさまに述べた句集は例を見ないだろう。これが全て事実とは思えないが、これから結婚を考える人に是非勧めたい句集なのである。しかし結婚する気がなくなっても当方は責任を負わないからそのつもりで。(女性の専門家とみられていた憲吉は、前号に載せた本『女ひとりの幸はあるか』『結婚読本』『女が美的に見えるとき』以外にも、『それでも女房はコワイ』『メオトロジー』『悪女のすすめ』『女性と趣味』『花嫁を走らせないで・・・楠本憲吉結婚読本』『かあちゃん教育』『産報版・源氏物語』『現代ママ気質』『娘たちに与える本』『女色・酒色・旅色』などを出している)。

赤尾兜子の句/仲寒蝉

神々いつより生肉嫌う桃の花      『歳華集』

 昭和48年の作で「八岐」という章に収められている。

 この神々はギリシア・ローマ神話や北欧神話といった西洋のそれでなく、日本古来の八百万の神々であろう。西洋の神々はむしろ生肉が好きな筈だ。そのあたりに日本と西洋の民族・文化に関わる根本的な違いがある。

 日本では仏教伝来以来、殺生を嫌う宗教的な理由から肉食が禁止されてきたと言われることが多い。『日本書紀』天武4年の記事を嚆矢として何度も殺生と肉食を禁じる法令が出され、一部の階層や狩猟で獲た兎、鹿、猪などを除き牛や馬を食べることは明治の文明開化まで忌み嫌われてきたと言うのだ。これについては最近中村生雄著『日本人の宗教と動物観―殺生と肉食』が出てこの問題に疑問を投げかけている。

古事記を繙けば、黄泉から戻って禊をしたイザナギ、スサノヲが機織りの屋へ皮を剥いだ馬を投げ入れたことに怒って天の岩戸に閉じ籠ったアマテラス、いずれも不浄を忌み嫌っての行為と考えられるがこれは天武朝に編まれた史書に記されたことなのであり、本当に日本古来の、例えば縄文時代の神々が不浄を嫌い生肉を遠ざけたかというとそんなことはなさそうだ。アイヌのイオマンテにしても縄文時代の遺跡から出土する獣骨にしても、古代人が、つまりは古代の神々が肉食(生かどうかは知らぬが)を行っていたことを示唆する。

天武4年の禁令をよく読むと殺生全般を禁じているのではなくある種の狩猟法のみを禁じたもので、食肉についても牛、馬、犬、猿、鶏の肉のみ、それも4月から9月の間のみ禁ずる法令であった。中村はこの禁令は仏教思想に基くものと言うより天武朝が推し進めつつあった宗教観から来るものではないかと言う。当時中華王朝に対して日本の独自性を打ち出すため古来の神々を崇める(つまりは肉食や生贄を求めて来た)宗教ではなく新しい神道の体系が作られつつあり、その宗教の中心に「穢れを忌む」祭祀制度が据えられたというものだ。まことに興味深い説ではあるが兜子の頃にはこのような説はまだなかった。恐らく「仏教伝来とともに肉食も禁止され、武家の勃興と相俟って再び狩猟による肉食が広まりキリスト教の伝来がこれを後押ししたものの江戸時代には生類憐みの令からも分るように再び公には肉食が禁じられ薬喰いと称する密かな機会に限定されて明治に至る」という通説を兜子も受け容れていたものと思われる。

 兜子がこのような日本人の歴史に思いを致すような句を作った背景には以前にも書いた歴史作家司馬遼太郎や陳舜臣との親交もあろうし、欧州旅行の影響もあったようだ。『歳華集』の後記に兜子自らこう書いている。

 大辞典によると、歳華とは“としつき、華は日月の光気。蘇軾の詩に「歳華來無窮、老眼巳久静」”とある。この言葉の放つ落着いた光気に魅かれ、それに集を加えたのである。

 この九年の光陰は、私の壮年期として過ぎた。俳壇の潮流を刹那の流転と見流す私は、あたりまえのことだが、俳句を連衆の詞と知りつつ、遂に自己の詞華を朝鍛夕練すべき自戒をわすれなかったつもりである。短期とはいえ、外遊の見聞が、日本人のみが持つ感、知性の本源をあらためて糺さねばならぬ実感として迫り、宿ったのもたしかなことのようであった。

外遊とあるのは昭和44年11月の欧州旅行のことである。「秋の1句」の稿で紹介したように、和田悟朗による『赤尾兜子全句集』のあとがきには、この旅行が日本固有の文化、とりわけ俳句を見直す契機となり、兜子の句風の変化につながったのではないかと記されていた。この後記を読めば兜子自身もまた欧州旅行の影響を強く感じ取っていたのが分かる。

 「いつより」の答えは先に書いたような通説を知っていれば「天武朝より」と兜子には分っていたろう。大体このような措辞の際、問の答えは分っていることが多い。それより兜子は何故この問を発したのか。年譜によるとこの前年、兜子は陳舜臣夫妻と沖縄に旅している。さらにこの年3月には和歌山の串本、鹿児島・霧島、7月備前、8月伊豆方面、9月高松というようにあちこちに旅を重ねている。ただ「桃の花」とあるから春以降の旅行はこの句とは関係あるまい。この中で神代を想起させる場所と言えば霧島であろうか。何しろ天孫降臨の神話が伝わる地である。そこで神々が生肉を嫌うようになった起源に思いを馳せた、と言いたいところであるが残念ながら句集に収録された順序からすると掲出句は霧島の旅のはるか前に置かれていて、この説は成り立ちそうにない。(尤も句集の順序が制作順かどうかは句の季節がばらばらであることから見てかなり怪しいと言わざるを得ないが。)

最後に唐突に置かれたように見える「桃の花」と中七までの歴史への思索との関係をどう考えればよいのだろう。前後の句を見てもヒントになるような記述は何一つない。桃は中国原産であり、確かに古事記の神話にも登場するがどちらかと言うと中国大陸を想起させる植物である。大陸の、儒教や道教の肉を屠る祭祀とそれを欠いた日本の祭祀とを比較する意味で桃を持ってきたのか?取合せとしては「山桜」のように即き過ぎの感がある花よりも少しばかり謎が残っていい。何より華やかなところがいいと思う。

上田五千石の句/しなだしん

風船を手放すここが空の岸     五千石

第四句集『琥珀』所収。昭和五十九年作。

『琥珀』は、昭和五十七年より平成三年まで、四十九歳から五十八歳までの作品三九二句を収録する第四句集。

 掲句、センチメンタルな句である。「風船を手放す」はすでにセンチメンタルで、「ここが空の岸」というロマンティックさをも加えている。五千石は元来センチメンタルな句風であるが、素材の硬質さがバランスを保っている作品が多く、この句のように素材までセンチメンタルな句は珍しいかもしれない。

 五千石の代表句である、第一句集『田園』の〈渡り鳥みるみるわれの小さくなり〉に、目線や離脱感に通ずるものがあるが、掲句の方が現実にとどまっている感が強いように思う。それが斬新さに欠けるという感想にも成り得るところ。

ところで「空の岸」とはどこを指すのだろうか。岸からは岸壁が想像され、その先には海が見えてくる。だがこの句はその先は「空」なのだ。空を主眼に置くと、岸はそこでもよく、まさに「ここ」が岸になるのだろう。ちなみに「風船」には「船」という字が使われていて、それも「岸」「海」を喚起させる一因になっているのかもしれない。

いずれにしても掲句は「空の岸」という表現に加え、「ここが」という限定が有効に働いていて、この辺りが初期作の「渡り鳥」とは違う、言葉は悪いが「てだれ」的なうまさがあると思う。

この句の作句年、昭和五十九年は五千石五十一歳、主宰誌「畦」が月刊になって八年目、充実期といっていいだろう。「畦」への発表句も当初七句程度だったものが、この時期には倍増している。いわば脂ののった時期、といえるかもしれない。

 「空の岸」というようなフレーズは、他にないわけではないと思うが、この詩的表現は一歩抜け出ていると私は思う。


*1 『琥珀』 平成四年八月二十七日、角川書店刊

近木圭之介の句/藤田踏青

青の蝶 無作為の余白とび去り

 「層雲自由律・101号」(注①)の圭之介追悼号に掲載の平成14年の作品である。この句の場合、何故「青い蝶」ではなく「青の蝶」であるのか。それは「青の」が指定するものが場所であり、時であり、対象であり、所属等の重層したものを示唆しているからではないのか。その事によって蝶は己自身とも他者ともみなされうるし、無作為という偶然性が支配する「余白」はそれぞれの「生」そのものを示していると共に、そこからの飛翔が意思的な一面を打ち出しているとも考えられる。また画家としての圭之介は当然、青と白との色のコントラストを表現手法に用いており、そうした傾向は既出の「自画像 青い絵の具で蝶は塗りこめておく」(注②)の句などにも表れている。

蝶に関連した句はその他にも数多くみられる。

心にはいつも一匹の蝶と空間        昭和39年作   (注③)
蝶の一匹が吹かれているゆえに断崖     昭和39年作   (注③)
蝶そうして花である            昭和48年作   (注③)
蝶 羽の色をひらく            昭和48年作
失イツクシ。蝶残ル            平成6年作

 上記の様に蝶は常に作者と同一体にあり、その視点と思惟はその交感上に存している。そしてその儚さと一過性故の孤独感が、空間への埋没や断崖での切迫感、相対性としての個の存在感や浮遊感、更には絶望の残滓感へと連なってゆくようである。

人員と春においてある椅子         昭和29年作   (注③)
春です。思想なくした街もいい       平成19年作   (注①)

 春というものはその膨張感と共に内部的には空虚感を抱え込んでいるようである。それ故に人員と椅子という数的無機的表情や、茫漠とした無思想の表情がよく似合うのかもしれない。思想というものが直観の立場を超えて論理的反省を加えた思考内容、体系的なものである限り、上記の駘蕩たる春とは相いれないものである事は明らかであろう。特に最晩年の作者は、春の空虚感にゆったりと浸っているかの如くに。

 例によってテーマにそった圭之介の詩を1篇を掲げよう。

「宇宙とラムネ玉」           昭和27年作  (注④)
 
 
春はあらゆるものが光を生み
ブロンズの裸婦の乳房に屈折し
公園のベンチを明るくした
私の喉はからからとかわく
茶店ではラムネ玉が
宇宙の一さいを包含していた

 宇宙とラムネの逆不等合を春はキラキラと媒体しているかの如き、趣のある詩となっている。


(注)①「層雲自由律」101号 平成21年7月 層雲自由律の会発行

   ② 第6回テーマ「色」掲載

   ③「ケイノスケ句抄」 近木圭之介 層雲社 昭和61年刊

   ④「近木圭之介詩抄」 近木圭之介 私家版 昭和60年刊

三橋敏雄の句/北川美美

釘買って出る百貨店西東忌

世の中には常識外の行動で美談となる人がいる。敏雄の先師・西東三鬼もそのひとりだろう。「自由奔放」「放浪者」「モダニスト」「エトランゼ」「ニヒリスト」など三鬼を表現する言葉は限りない。生前の三鬼と敏雄の関わりは、渡邊白泉の斡旋によりはじまり敏雄18から41歳、三鬼が鬼籍に入るまで続いた。西東忌は、四月一日である。

掲句は三鬼への先師追慕であるとともに愛憎と客観がある。三鬼を言い当てるような「百貨店」、「西」と「東」に距離を置く「西東忌」、何故「釘」を買って飄々としているのか、そこに心情が伺える。

掲句から直ちに連想したのは、映画『復習するは我にあり』(公開:1979年、監督:今村昌平、原作:佐木隆三)である。殺人鬼・榎津巌(緒形拳)が雑司ヶ谷の薄暗いアパートの洋ダンスに、老弁護士(加藤嘉)の屍体を閉じ込め、自分の頸をネクタイで絞めるしぐさをする。そして、タンスを封じるための釘と金槌を商店街に買いに行く。どこか清々しい顏をしている。『復習するは我にあり』はキリスト教の言葉である。新約聖書の「悪を行なった者に対する復讐は神がおこなう」という意味であるらしい。

『まぼろしの鱶』後記

当時、傍目には華麗な三鬼の、それ故に無慙な実生活振りは、具体性をもって、私の魂の避難港として在った。

三鬼が商売に失敗したり、突然神戸へ移転したり、俳句以外のさまざまな武勇伝(例えば神戸の遊郭をツケ払いで遊ぶなど)が本当の悪だったかは、敏雄自身にしかわからないが、三鬼作品が「悪意に満ちた美」であることはわかる。「釘」は、少なくとも三鬼作品を表現するに的を射ているし、そこにキリスト教的暗喩が感じられるのは確かである。更に、釘を買ってどうするのかということになれば、書かれてない「金槌」は、既にあると読め(神が金槌を振り降ろすのかもしれない)、没後の西東三鬼の行く末を自ら背負おうという所作に読める。

故に、敏雄が大工ヨゼフになろうと決意の上、バーニーズニューヨークから出てきた、という光景である。百貨店ならば、例え五寸釘、犬釘であろうとも取り寄せ可能である。

聖燭祭工人ヨゼフ我が愛す 西東三鬼

上掲句対する敏雄のシニカルな呼応でもあるだろう。弟子になりたいと訪ねた白泉に三鬼のところへ行くよう薦められ、そのまま三鬼の身辺に渡る関係がはじまった。敏雄の才能、人格、存在の全てを真っ先に三鬼から愛されたのである。男同志のドラマ(私淑の白泉との三角関係も含め)がある。掲句は、西東忌四月一日はエイプリルフールであることも不思議な句である。

掲句は第一句集『まぼろしの鱶』に収められ、三鬼の祥月命日、1965(昭和四一)年四月一日に上梓された。敏雄は、三鬼没後十年に『西東三鬼全句集』(*1)の刊行に尽力した。まさに釘の集大成かもしれない。


*1)『西東三鬼全句集』(1971年・都市出版社、編集:三橋敏雄・鈴木六林男・大高弘達、監修:平畑静塔・三谷昭)、更に補強版の『西東三鬼全句集』(1983年・沖積舎、編集:三橋敏雄)を敏雄単独で編集。

(戦後俳句史を読む)「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会(仲寒蝉編集)

  • 出席者:筑紫磐井、原雅子、中西夕紀、深谷義紀、仲寒蝉
  • コメント:北村虻曳、筑紫磐井

はじめに 仲寒蝉

 2011年1月に刊行された『相馬遷子―佐久の星』はインターネット上のブログ、「―俳句空間―豈weekly」で展開された5人の共同研究を元に書き下ろしの論文を加えて1冊の本にまとめたものである。相馬遷子と言えば「馬酔木の貴公子」「高原派の旗手」とのイメージのみが先行し現在ではほとんど読まれることのない俳人であった。それを謂わばこの5人が再評価しようとした。遷子の研究書としては現在のところ唯一無二と言っていいこの本はいま静かな注目を浴びつつある。既に1ヵ月余で初版は絶版となり、大幅改訂を加えて『改訂版 相馬遷子 佐久の星』が刊行されようとしている(10月15日邑書林刊)。今後さらに多くの人々に遷子が愛されることを期待したい。また遷子研究と同じ手法を用いて、現在「詩客」というブログで18人が自分の選んだ俳人・柳人を論ずる「戦後俳句を読む」が連載中である。

そこでこの「戦後俳句を読む」の場を借りて折角研究した相馬遷子の戦後俳句史における位置付けを行おうということになった。つまり共同研究に参加した5人で「遷子という窓を通せば戦後俳句史がどう見えるか」を考える試みである。具体的には司会が準備した10の質問に『相馬遷子―佐久の星』を踏まえ、Eメールを通して各人に答えて頂き、それを司会がまとめるという方法を取った。以下がそのまとめた原稿である。

なお、戦後俳句の範囲は一応終戦から昭和の終わりまでとするが、戦前(15年戦争のはじめ頃)までを含めるという説もあることを申し添える。

1.遷子の俳句の特色についてどう考えるか?(題材、文体など)

筑紫は題材として〈風景俳句(戦後の馬酔木高原派も含め)、生活詠、行軍俳句、開業医俳句、そして療養俳句〉があるとし、〈最も関心を持ったのは開業医俳句であった〉と述べる。その理由は、独自の地域医療が見られた長野県佐久地方に住んでその地域医療を題材としたという意味で独自の俳句だからと言う。

 〈遷子の開業医俳句を引き継いだ者はいなかったし、独自の地域医療の問題が解消した時代からは遷子自身の開業医俳句も消えてゆく。期限限定、地域限定の俳句であった。しかしこうした限定された(言ってみれば極限の)俳句であったからこそ、独自の俳句が生まれ、それは普遍的価値を持った文学へと昇華している〉と述べている。

 『相馬遷子―佐久の星』は注目され新訂版の発刊まで企画されている。これは相馬遷子という一俳人の歴史に埋もれた俳句を世に知らしめるよい機会となろう。

原は〈句集を通読しての第一印象は、ずいぶんさっぱりした文体〉であったと言う。つまり散文的と指摘される一方、〈短詩型の大きな武器になる連想作用や技巧的表現による膨らみといったことに凭れかからない句作だった〉と考える。このことは〈想像の領域ひいては夢まぼろしを詠まない〉という態度に通じ、〈風景句においては輪郭のくっきりした描写〉となり、そして〈社会的題材を詠んだ場合、世の「社会性俳句」の散文化と一見似通った相貌をも見せた〉と指摘する。

最後に〈遷子は題材によって詠みぶりを変えるというような器用な俳人ではなかった〉と結論付けている。

中西は〈俳句の姿に人柄が反映されて、古武士のような風合いがある〉と言う。

俳句では気持ちを直接には表現しないのが一般的だが、遷子は風景句以外、特に『雪嶺』では「憎む」「怒る」という直情的な言葉が使われおり〈思ったことを散文に近いまま句形にして、きちっと納めてしまう技がある〉と指摘する。

 時代を追ってみると揺籃時代は〈秋桜子を真似た馬酔木の人らしい優美な作品〉、〈戦争中から社会に目が向き〉、ことに『雪嶺』の時代は独自の視座から医師俳句を展開、『山河』では〈病気と死というより万人に共感されるテーマ〉を描くように変化している、と言う。

深谷は以下の3点に分けて述べる。

(1)ヒューマニズム

遷子作品に一貫して流れるヒューマニズムの発露は他の作家にも見られるものの彼ほどそれを透徹した作家はいないと言う。〈一歩間違うと、あざとさ、押し付けがましさ、あるいは臆面のなさなどが前面に立ってしまいがち〉なテーマを扱い、〈気恥ずかしい気分が先に立ってしまう〉のを乗り越え、〈そうした心情を中心に据えた作品を多くなしたのは、遷子の生真面目さだ〉と考える。

(2)地域性(地方色)

〈佐久帰郷後、専らその土地での生活(含む医療行為)を句作の対象とし、そのことにこだわり抜いた〉ことにより〈佐久の地やそこに居住する人々への愛憎半ばする心情が生まれた〉と指摘する。

(3)文体

〈自身の心情を平明に述べた作品が多く、あまり捻った詠み方はしなかった〉と述べる。

仲は題材については『山国』までは自然を対象とした俳句が多く(戦争詠や医業に材を取った句も混じるが)、『雪嶺』の時代になって〈医業や病人を題材にした医師俳句、同じ地平上にある社会を詠った俳句が目立つように〉なり、家族を詠んだ俳句が数を増してくるが、『山河』では「わが故郷」としての山河をいつくしむように詠む俳句と家族の老・病・死、自身の病気(或いは病気の自分自身)を題材にした俳句が大半を占めるようになる、と指摘。

 文体については以下の特徴を挙げる。

1)「かな」「けり」の使用頻度が「や」に比べてかなり少ないこと。

2)『雪嶺』では「や」が頻用されていること。しかし『山河』の入院以後にはまたほとんど見られなくなること。代って「よ」「か(疑問)」が目立つようになる。

3)動詞で終わる句がとりわけ『雪嶺』以後に多くなること。

4)万葉調の「も」は『山国』に顕著であること。

これに基づき、〈波郷(「鶴」)の唱えた「古典に還れ」よりも秋桜子(「馬酔木」)の万葉調の影響の方が少なくとも『山国』の時代には強かった〉と言う。

また〈句末を動詞で終える句が『草枕』25.0%、『山国』22.9%、『雪嶺』30.9%、『山河』26.9%と平均4分の1もあり、とりわけ『雪嶺』以後に多い〉ことから散文的な印象が強くなったと指摘。

まとめ

 この問に関しては各人注目する所が異なりバラエティに富んだ回答集となった。

 筑紫は遷子の俳句を風景俳句、生活詠、行軍俳句、開業医俳句、療養俳句と分類し、中でも全く独自のものとして開業医俳句を評価する。それは期限限定、地域限定であるが故に却って普遍的価値を持った文学へと昇華しているためであると言う。

 は文体に関して遷子を器用な作家ではなかったと言い、連想作用や技巧的表現に凭れかからないため対象が風景の場合はくっきりと、社会的題材の場合は散文化しやすい傾向のあることを指摘しつつ、態度において夢まぼろしを詠まないという特徴を挙げる。

 中西は初期の優美な作品から社会に目を向けるようになり、晩年の万人に共感される病気と死というテーマを扱うに到ると概観。思ったことを散文用にそのまま述べながら句としてまとめてしまう力量があったと指摘。遷子の俳句を〈句の姿に人柄が反映されて古武士のような風合い〉があったとまとめている。

 深谷は〈作品に一貫して流れるヒューマニズムの発露〉に注目、地方での生活に拘った(後の回答から所謂「風土俳句」作家とは異なると指摘)俳句を詠んだが文体としては平明であったと述べる。

 は題材については年を追って自然→医業、家族→故郷の山河、老・病・死と変遷したことを指摘。文体については切字の使い方、動詞で終わる文体、万葉調の「も」などに特徴を見出している。

 以上のように各人焦点の当て方は異なるが、やはり医師としての生活を詠んだ句(医師俳句)と晩年の療養俳句に遷子の魅力が表れていると考えるのが大勢の意見であったようだ。

【コメント】

北村虻曳:相馬遷子という俳人の名はまったく私の知らないものであった。この座談「遷子を通して戦後俳句史を読む」の議論と『相馬遷子―佐久の星』を読むことによって得た知識のみで述べさせていただく。

詩は、何か他人(ひと)の見ないものや、無意識で見ていても言葉に上(のぼ)せていないものを定着するわけであるが、対象によって便宜的に次のような区別して考えて見る。
1.己を消して周りのもの、あるいはそれらの関係を描き、写す。
2.作者の内なるものを述べる。
3.言葉の自己展開を記し、あるいは言語の新しい用い方自体を示す。

近代的な俳句では1の写生が意識され重視されてきた。そこから2のように表に出されていない、内なるものを読み取ることが鑑賞の作業となった。
2は、はっきりと感慨、批判や志を述べようとするものである。しかし内的なものといっても、それだけを展開することは難しい。外のものを契機とし、見えるものを媒介とする、すなわち1を用いなければ理解を呼びにくい。しかし5・7・5に盛り込むことは難しいし、実際2は伝統的にはあまり推奨されてこなかったようだ。(7・7を加えるだけで、様子はずいぶん違うのであるが。)むろん境涯句や社会性俳句などを代表として、試みは多くある。
3は加藤郁乎の言葉遊びやオートマティズムをはじめとして、現代俳句ではいろいろな手法が工夫が成されている。

この図式で行くと、座談の皆さんの意見はおおむね、相馬遷子は1にとどまらず2に踏み込んだが、3の要素は見いだしていないということになるだろう。このことは私が今回『相馬遷子―佐久の星』で代表作を読んだかぎりでは納得できる。ある時期、遷子は「『憎む』『怒る』という直情的な言葉」(中西夕紀)を使うこともあった。一方で、原雅子は「想像の領域ひいては夢まぼろしを詠まない」とし、また中西夕紀は「風景句において」は「輪郭のくっきりした描写」を行い、「思ったことを散文のまま句形にして、きちっと納めてしまう技がある」とする。「夢まぼろしを詠む」ことは、1と2の間にあるものだろうが、遷子はこれをとらず潔癖な描写を選んだのである。

この潔癖さとつながるのか、私には遷子の孤独な相貌が印象に残った。内なるものを述べるとしても誰かに向かってうったえるメッセージではない。そこにはいわゆる「社会性俳句」とは反対に、性格としてのペシミズムが覗いている。医師としての社会意識はあるが、言葉の生み出す共同性は希薄である。したがって、ユーモア・諧謔・アイロニーなどをもって虚の空間における共生を目指す3などは、まったく相容れないわけだ。

遷子は明治41年生、昭和51年没である。戦後といっても昭和半ばを境に人々の意識は非常に変わったが、それ以前の知識人は、庶民の中に「先生」や「インテリ」と呼ばれ、敬されて立つ少数者であった。特に「地方」では同様の存在は数が少なく、自分の使命をつねに意識させられ、つきあいはあっても精神的な孤立感は強かったであろう。そういう人の生活を感性を含めて描くことは小説などには見られるものの、俳句として詠んだ人は、遷子以外にあまり知られていないようだ。彼の誠実で飾らない性格の故に、極小短詩のかたちでもユニークで記録が残ることになった。正直・実直な姿には身に詰まされる、そう感じる人が多くいるということである。

筑紫磐井:既に遷子については十分論じたつもりだが、共同研究の終わったあと、共同研究者の作業を改めて読み直してみるとまだ言い足りない部分がある、いやさらに強調したい部分があるという思いがある。特に、平成23年という特殊な時間がそれを感じさせるということもあるのだ。なにしろ、俳人がほとんど花鳥諷詠に等しかった創作環境に突然社会的な要素が加わり、震災を詠まねばならない、震災を詠んだ作品を評価しなければならないという脅迫意識が生じたからだ。なぜ、我々は震災以前の社会的事件に無関心であったのか、それがなくて何故震災俳句が詠めるのだろうか。かれらは、今日以後、社会的意識派に悔い改めるのであろうか。とりわけ奇異な感じがするのが、震災以前に社会的意識のなかった作家たちがにわかな着け焼刃で詠み出した作品に社会的意識の核心が見えてこないことである。俳人というと、あまり実感がわかないので詩人と言っておくが、以下は全て俳人と読み替えて欲しい。

詩人は何に関心を持つかは自己の責任で決定する。その詩型に責任を負わせることはできない。社会と没交渉の自然に関心を持つことも立派な詩的作業であるが、その瞬間に(逆の意味の)社会的責任を生じている。おそらく、花鳥諷詠という思想は、とんでもないアナーキーさを持つのである。現代社会において人類が関心を持つべきとされる社会活動を拒否せよと呼びかけるからだ。もちろん社会的意識をもったからといって、俳人という詩人のもつアナーキーさが薄まるものではないかもしれない。それでも地震とか、地域医療に関心を持つということは悪いことではない。自らの詩型によって、社会的意識に対する告白をすることになるからだ。

しかし、詩人は作品においてのみ責任を持つ。社会的意識、例えば「社会性俳句」におけるイデオロギー論者(沢木欣一)のような態度をとれば、それは詩あるいは俳句という爆弾(もちろん大した破壊力があるわけではないが)を使った職業革命家でしかない。詩人が作品において責任を持つということは、社会的意識の中に自分の新しい活動の指針を持つということであろう。果たしてどれだけそうした覚悟を震災俳句を詠む彼らがしているのであろうか。言行乖離していた説明責任を取るということが、彼らのまず責任であるべきなのだ。

相馬遷子は、確かに自然讃歌の俳句から、地域医療を詠むという隘路に落ち込んだ。しかしそれはそれで遷子の必然であったことは間違いないし、尊敬すべき迷路である。また作品も、凡百の社会性俳句に比べて劣るとも思えない。師である水原秋桜子からは批判され、敬愛する飯田龍太からはほとんど見るべき作品がないと酷評されたが、秋桜子や龍太も実はアナーキストなのであり、彼らの評価も割り引いて考えるべきなのである。秋桜子や龍太の目から解き放たれて遷子を読む(何も遷子を第一等の作家だと言っているわけではない)ーーーそうした作業が『相馬遷子』という本であったということである。


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