戦後俳句を読む(第14回ー2)― テーマ:「春」その他 ―

テーマ:「春」その他

  • (戦後俳句史を読む)「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会②(仲寒蝉編集)
    出席者:筑紫磐井、原雅子、中西夕紀、深谷義紀、仲寒蝉
  • 堀葦男の句/堺谷真人

    さふらんのもたぐる蕾愛ぞ愛ぞ

    『火づくり』(1962年)所収の句。「昭和二十九年三月十六日福竜丸水爆実験の犠牲と
    なる一句」という長い前書きを持つ。初出は1954年5月1日発行の「十七音詩」第3号。初出時点の前書きは「三月十六日水爆の暴威報ぜらる 一句」であり、作品自体も中七の直後に1字分の余白を置いた

    さふらんのもたぐる蕾 愛ぞ愛ぞ

    という分かち書き形式であった。

    静岡県の焼津を母港とするマグロ漁船・第五福竜丸がビキニ環礁で米国の水爆実験に遭遇したのは1954年3月1日早朝のことである。同月14日、焼津に帰港。読売新聞同月16日付朝刊社会面が大きく報じて世論は騒然となった。葦男はこの記事を読んだのである。

    ここでいう「さふらん」とは、晩秋に咲き、乾燥させた雌蘂が薬用・染料・香料に使用される秋サフランではない。同属で早春に咲くクロッカスのことを指すと思われる。観賞用のみに栽培され、春サフラン、花サフランなどと呼ばれる花である。クロッカスは地面すれすれに花をつける。だから「もたぐる蕾」といってもそれはごく低い所にあるのだ。

    問題はその形状である。短い茎の先端に蕾を生じたクロッカスを、葦男は水爆のキノコ雲に見立てたのかもしれない。もしそうだとすれば、葦男眼前のクロッカスは早春の景物であると同時に禍々しい原子兵器(当時は核兵器よりも原子兵器の呼称が一般的だった)の喩でもあったわけだ。この句は核軍拡時代の到来を端的に告げる作品であり、核実験のもたらす惨害という現実を同時代的に引き受けようとする葦男の作家精神を素朴かつ明快に示す作例と言える。

    それにしても「愛ぞ愛ぞ」という俳句らしからぬ反復強調表現は何であろう。字余りの措辞は取って付けたようであり、稚拙な印象すら与える。これは水爆の暴威への憤りから思わず発した人類愛渇望の叫びなのであろうか。勿論そう解釈することも可能だ。しかし、筆者はこの「愛」は久保山愛吉への呼びかけではないかと思う。ビキニ環礁で放射性降下物を浴びて重態に陥り、同年9月23日に不帰の客となった第五福竜丸無線長である。

    「愛」の文字を冠する名を持ち、兄貴分として乗組員たちに慕われた人物が、およそ「愛」とは正反対の酷薄なる冷戦の犠牲となった皮肉。この句の発表当時、久保山はなお存命中だったが、同時代の悲劇を体現した人物へのオマージュを以て葦男は一句を締めくくったのではないか。

    因みに、「十七音詩」創刊号および第2号の題言は無署名である。第3号の題言に至って初めて(葦)という署名が入る。

    友だちはみな人間の危機をひしひしと感じてゐる。LOYALTYがHUMANITYをすでに圧迫してゐるのだ。叡智と愛が擦り減ってゆく世界。

    葦男筆とおぼしき題言の一節は抽象的な表現をとるが、これが水爆の恐怖に支配された世界の非人間性を念頭に置いたものであることは言うまでもない。葦男の受けた衝撃は深甚であった。「さふらん」の句にはその衝撃の痕跡が生々しく残っている。

    以下補足だが、上述の「十七音詩」は1953年10月に、金子明彦、林田紀音夫とともに葦男が創刊した同人誌である。俳句を十七音詩として把握し直すことにより新しい俳句の誕生を期するという、清新なエスプリに満ちた試みであった。

    中世的文学理念のつき纏ふ俳と季の束縛を断ち切つても、なほそこに俳句の骨格を形成する特性は失はれず、むしろそれによつてこそ現代民衆の詩精神を盛るに相応しい新しい俳句の誕生が可能であると確信するにある。
    (創刊号 題言)

    「十七音詩」はその後、前衛俳句運動の火種のひとつとなってゆくのである。

    青玄系作家の句/岡村知昭

    昼なかのニュース声高蝶みな消ゆ   中川浩文

    掲出句の引用は1962年(昭和37)6月刊行の第一句集『貝殻祭』から。初出はいまのところ未見。作者である中川浩文氏は1923年(大正12年)生まれ、1983年に亡くなるまで「青玄」同人、無鑑査同人として所属。また日本文学者として京都女子大学、龍谷大学などで教鞭を執り、「竹取物語」「源氏物語」研究の著書がある。

    春の真昼、いよいよ緊迫の度を増しつつある状況を伝えるアナウンサーの声は、世情の空気に呑みこまれているかのようにますます甲高さを増しつつある。今ここにいる自分自身の周囲からは、どうしたことか一斉に蝶の姿を見えなくなってしまった。もしかしたらそれは、ひたすら声の甲高さを増しつつあるアナウンサー、すなわち世情の緊迫した雰囲気からなんとか逃れようとしているのだろうか、それともアナウンサーによってさらに声高に伝えられる状況へ対して一層の危機感を募らせて、蝶たち自らが世情へとまっすぐに突き進もうとしているのだろうか。そのような疑問と不安の数々を募らせながらも、すっかり蝶のいなくなった空間に響きわたるアナウンサーの緊迫感溢れた甲高い声を聞いているだけの自分がいる、いまはただ、世情のうごめきの真っ只中にいるであろう蝶たちの行く末を思うことしかできない自分自身がここにいる。

    最初にこの1句を見て、自分自身が立ち尽くしているかのような空間に響きわたるニュースは何かと考え、思わず2011年3月の大震災とその後の顛末を想起してしまったものである。林田紀音夫が1970年代に書いた「執拗なヘリコプター死者の広場があり」(句集『幻燈』所収)もそうだが、災害や戦火といった大惨事を伝えるメディアに対するシニカルな目線というのは、いつの頃にあっても変わらないものかと思ったのだが、もちろんこれは私の漠然とした印象に過ぎない。この1句はある決定的な日付をもって刻印された作品である、その日付は1960年(昭和35)6月15日。以下に引用する2句と合わせ、次のような前書が付されている、「安保条約反対デモにて樺美智子なる学生死す」。

    足裏に舗装路絶えぬ暮色の泥   中川浩文
    安保反抗デモで鳥肌立つポロシャツ

    いわゆる「60年安保闘争」の盛り上がりの中、国会前での機動隊とデモ隊の衝突によって引き起こされた、女子学生樺美智子の死。戦後15年を経て、再び若い命が国を二分する争いの真っ只中で失われてしまった事態が、ニュースを通じて日本中に与えた衝撃の大きさは計りしれないものがあったのだろう(としか今の私には言えない)。当時京都女子大の助教授として学生たちの前にいた作者にしても、学生たちと同世代のひとりが突然に命を断たれたことからもたらされた怒りや哀しみは、即座に言葉としようにも複雑極まりない感情にとらわれたであろうことは想像がつく。俳人としての中川氏はそのような自分自身の感情のありようを見据えながら、だからこそますます甲高い響きを帯びて自らの前に立ち現れる声々と、それらに即座に呼応して立ち上がろうとする学生たちの姿に対しても、さまざまな感情にとらわれながらも、若者たちに生きていてほしい、このような世情の真っ只中にあって、なんとか無事であってほしいとの祈りをもって向き合おうとしていたのだろう。それは「蝶みな消ゆ」の結句に蝶の不在への切迫感だけではなく、いつか蝶が再びこの空間で羽ばたくことを願う気持ちが強く感じられるからである。だが、その願いは「蝶」たちに届いていたのだろうか。「60年安保」とそれ以降の「政治の季節」に「蝶」たちが負った傷の深さを、大学の教員たる中川氏は見届けなくてはならなかったのだから。

    遺影への礼ならば問え犠牲死と言いうるほどに果たしたる何   岸上大作

    あの6月15日にデモの真っ只中にいたこの学生歌人は、この年の12月にまるで闘争に殉じようとするかのような自死を遂げる。その後「60年安保」のモニュメントとしても読まれ続けていった岸上の短歌は、ジャンルは違えど定型詩に関わる中川氏のもとにも届いていたはずである。果たして傷つき倒れた「蝶」の残した短歌に一俳人としてどんな感想を持ったのかは、今からは到底計りしれないことである。

    齋藤玄の句/飯田冬眞

    糸遊を見てゐて何も見てゐずや

    昭和50年作。第4句集『狩眼』(*1)所収。句集巻末の句。

    〈糸遊〉は「いという」で、「陽炎」の傍題季語。『わくかせわ』(宝暦三年1753)に「陽炎・糸遊、同物二名なり。春気地より昇るを陽炎あるいはかげろふもゆるともいひ、空にちらつき、また降るを糸遊といふなり」とある。

    『角川 合本俳句歳時記 第四版』では、陽炎を「日差しが強く風の弱い日に、遠くのものがゆらゆら揺らいで見える現象」と定義する。つまりは、晴れ渡った春の日の空にちりちりと針のように見えるものが「糸遊」である。

    〈見てゐて何も見てゐずや〉は自身の感覚に対する不信感の吐露でありながら、〈糸遊〉のもつ神秘的で儚い自然現象の本意と見事に響き合っている。「見ること」に重心を置いて作句をしてきた齋藤玄にとって、自然現象を写生することの難しさを表明した句と言えるだろう。それは玄個人の内面吐露のように見えて、実は、俳人を含めた我々人間全般の「視覚」のあやふやさを鋭く突いた言葉としても受け止められる。

    自註を読むとさらにその思いを強くする。

    ぼんやりして、何も見ていない。しかし実際はかげろうの伸縮を見ていたのだった。それが、いつの間にか何も見ていなくなって いた。(*2)

    要するに、この句は、眼前にした自然現象を言語化することの困難を主題としているのだが、句集の末尾にすえられていることで、齋藤玄という作家の特質を考える上で、重要な意味をはらんでいるように思う。

    つまり、俳人たちの多くは俳句の表現手法である写生に徹することで、俳句表現は成立すると思い込んでいるが、玄は〈糸遊〉の句を通して、写生の限界を感じたことを端無くも表明しているのである。自然現象である〈糸遊〉を前にして、〈見てゐて何も見てゐずや〉と表白することは、とりもなおさず、人間は自然現象に対峙するものではなく、その一部であることを直感的に認識したことを暗示している。大げさに言うならば〈糸遊を見てゐて何も見てゐずや〉は、近代的自我のゆらぎを吐露した句であり、それが『狩眼』という句集の末尾にすえられたことは、齋藤玄という俳人が、その時点で到達していた自然現象に対する認識力の高さを表している。

    それが次の句集、『雁道』への橋渡し的役割を担っているように思う。

    『雁道』の冒頭の句をあげる。

    青き踏むより踏みたきは川の艶   昭和50年作 (*3)

    この句は、「色」の一句の項目で触れたが、〈青き踏む〉という中国に起源を持つ季語を用いながら、季語に寄りかかるのではなく、むしろ季語の情趣を打ち破ろうとした意欲作である。それは、〈青き踏むより踏みたきは〉と句またがりにして韻律を崩している点からも読み取ることができる。また、春の陽光に反射した川面の光沢を〈川の艶〉と捉えた措辞のうまさにも既成の俳句表現にとらわれない進取の精神性を感じるのである。
    『狩眼』巻末句の〈糸遊を見てゐて何も見てゐずや〉と『雁道』冒頭句の〈青き踏むより踏みたきは川の艶〉は、ともに春の陽光をモチーフとしながら「写生」と「季語」という俳句の根幹に揺さぶりをかけようとした齋藤玄の意欲作であったことを確認しておきたい。


    *1 第4句集『狩眼』 昭和50年牧羊社刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載

    *2 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊

    *3 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載

    永田耕衣の句/池田瑠那

    少年や六十年後の春の如し

    初めて「劣化」というネットスラングを目にした時の衝撃は忘れ難い。モノに対してではなく、体形が変化したり老化の兆しが見え始めたりした芸能人等に対して「誰々も劣化した」という風に使う、あの「劣化」である。こうした言葉を平気で発することの出来る人々が少なからず存在するのだ、ということにも驚いたが、何より「劣化」には年を重ねてゆくこと、つまりは生きて経験を重ねてゆくことの価値を全否定する響きがある。そこに、深い恐れを感じた。

    「劣化」という言葉がそれなりに市民権を得ている背景には、恐らくニュートン力学における「絶対時間」に基づく直線的時間観の浸透があるだろう。かつて小林秀雄が「過去から未来に向って飴の様に延びた時間という蒼ざめた思想」と呼んだ時間観である。無限の過去から無限の未来へ続く直線のような時間の、ある一点において若く魅力的な容姿を持っていた者は、それより先の時間においては、より「劣化」した容姿しか持つことは出来ない。出来るのは精々、「劣化」を食い止めるための努力という訳である。そう言えば最近、四十代五十代になっても二十代と見紛う容姿を持つ女性達が「美魔女」と呼ばれ持て囃されているが、これも年を重ねていくことを「劣化」と捉える感覚と相通ずるものがあるのではないだろうか。

    こうした直線的時間観に対し、時間を一種の円環のような、回帰的周期と見る「円環的時間観」がある。本来我々東洋人にはこちらの方が馴染み深いものであるが、現在、日常生活の中で意識することは少ない。

    さて掲句においては人生の早春期にある、溌剌たる少年の中に「六十年後の春」が垣間見られている。六十年後、この少年は六十年分「劣化」しているのであろうか。無論そうではない。言うまでもなく「六十年」とは干支の一巡、「還暦」を暗示している。彼が生きるのは「円環的時間観」における六十年、青春朱夏白秋玄冬というそれぞれに趣ある季節の巡りとして捉えられる六十年なのである。どの季節も、その季節ならではの苦しみと喜びに満ちていることだろう。そして六十年後の少年は、玄【くろ】 い冬の闇を越えて、再び人生の早春を迎える――。経てきた歳月は、彼に静かな輝きを与えていることだろう。
    掲句が放つ雪解川のさざ波のような勁い光は、直線的時間観の強固な束縛から読者を解放し、生きて人生の季節を経験してゆくことの味わい深さを思い起こさせてくれる。(『闌位』昭和45年刊)

    ※参考文献 真木悠介『時間の比較社会学』

    戦後における川柳・俳句・短歌/兵頭全郎

    仁和寺の櫻へ子供背伸びする  藤本蘭華(1946年 川柳京洛一百題 番傘川柳社編)

    終戦後1年、昭和21年10~11月にわたって行われた京都市・市民文化祭協賛の番傘川柳社主催「川柳京洛一百題大会」に寄せられた句を収録した合同句集。掲出句の兼題は「仁和寺」である。兼題はこのほかに「知恩院」「寂光院」「先斗町」「嵐山」「大文字」「祇園祭」などなど、京都にまつわる言葉が100題揃えられたようだ。良くも悪くも川柳の場合こういった「題詠」や「大会」といった制度が後の流れに大きく影響しているのだが、一旦は置いておく。それにしても100題とは揃えただけでも凄いが、それに投句された数を考えるとこの大会でのエネルギーが思い起こされる。

    仁和寺の桜は「御室桜」と呼ばれ、京都の数ある桜の名所においても特に人気の高いスポットである。一般的なソメイヨシノではなく高さが2~3mと低い里桜で、江戸時代から変わらない姿だといわれている。この高さを知っていれば「子供背伸びする」の風景がはっきりと想像できるだろう。ただ桜の名所と言われるところはたくさんあって、例えば円山公園にあるしだれ桜なども「背伸び」して届きそうな気がする。川柳には句に用いる言葉の固着性とか必然性が足りない場合「動く」という評価がなされるのだが、この句の「仁和寺」は「動く」可能性が高い。今でもどこかの大会などで地名が兼題になった時「~の桜へ子供背伸びする」と書いて出せば、十中八九選ばれるだろう。

    春雷はあめにかはれり夜の對坐  鈴木しづ子(1946年 春雷)

    解説によると作者は「伝説の女性俳人」といわれ、アプレゲール俳人としてマスコミに脚光を浴びたそうだが、後の川柳での時実新子ブームに似た様子だったのだろうか。「夜の對坐」の重苦しい空気感が「春雷はあめにかはれり」という時間の流れとリンクしながら緊迫して読者の中へなだれ込んでくる。「春」というどちらかと言えば華やかな季節を題材としながら、逆にこの激しさや重さを際立たせている「春雷はあめに」という表現の迫力は圧巻だ。先の「仁和寺の~」と比べて、その世界観とか洗練された言葉の質感の差に愕然とする。もちろん表現として凝縮されたものと開かれた場の空気に流されたものとで根本的な違いがあるにしろ、やはりここまでに蓄積された部分の差が大きいように思う。

    しらじらと櫻の花のさくみれば干戈をすてし春のしづけさ  土岐善麿(1946年 夏草)

    Wikipediaで調べると、何だか凄い作者なのでそこは割愛する。「干戈(戦争・武力)をすてし」という時代の言葉を他の句語がしずかに包み込んでいる。ここに描かれた「櫻」は桜吹雪のような激しさではなく、ただ凛と花弁を広げた様をしずかに表している。あるいはこの静かさこそ作者の「希望」であったのかもしれない。いずれにせよゆったりと無理のない言葉選びが、パステル調あるいは単色系の絵画のような空気感を描いている。

    NHKの短歌や俳句の番組では「兼題」が用意されているようだが、それぞれの世界でこの「兼題」がどのくらいの割合で作句・作歌に使われているのだろう。番組を見る限りは、作品が選ばれることはもちろんなのだが、選者はそれぞれにどう読み、どこを選んだのかを話す。もちろん番組として淡々と選ばれた作品を発表するだけでは持たないのだろうが、短歌・俳句でこれらの部分を語るという文化が根付いているのであろう。一方川柳では、選ばれた作品を淡々と発表していくのが通常である。最近でこそ選者が講評を述べる会も出始めているが、下手をすると句への評価ではなく、そこに書かれた内容(ことがら)についての感想に終わってしまうことも多々ある。作品の評価は、何を書いたかではなく、それをどう書いたかであると思う。

    成田千空の句/深谷義紀

    妻の眉目春の竃は火を得たり

    第1句集「地霊」所収。

    昭和26年、千空は石塚市子と結婚する。その折のことを、後に千空は次のように述懐する。

    従弟と暮らした、鍋釜があるだけの所に来てくれた妻でした。めんこくてどうしようもありませんでした。
    (「俳句は歓びの文学」成田千空著・角川学芸出版刊 より)

    前年、千空は帰農生活を切り上げて、五所川原市内に移り、従弟と小さな書店を開いた。これは、千空自身が開墾地での孤独な生活状況から脱却する必要を感じたからでもあった。店の経営自体は繁盛するまでには至らなかったものの、市内の文学青年や若い絵描きなどが集まり、さながら文化サロンのような状況を呈したというから、その意味では所期の目的を達したと言えるだろう。上記の千空の述懐にある「従弟と暮らした、鍋釜があるだけの所」とは、この書店兼住居をさす。

    掲句は、新婚直後の作品である。折りしも季節は春。まさに妻を娶った喜びが率直に現れている。

    実はこの結婚後間もない時期に、千空が生涯の師と仰ぐ中村草田男が地元新聞社の招きで青森を訪れている。千空は草田男に一週間同行し、その謦咳に接した。その折、互いの妻のことに話が及び、千空が「新婚なのに時々諍いをしてしまう」とこぼしたところ、草田男は「喧嘩をしない夫婦は夫婦ではない」と強い口調で語ったという。次に掲げるのは、千空がその草田男を詠んだ句である。

    妻を語る秋栗色の大きな眼   「地霊」

    愛情ある家庭を共に築く妻と信頼しうる師。その双方を得た千空の作品は、この時期以降、さらに充実の度を増していく。そして昭和28年には第1回萬緑賞を受賞し、青森俳壇を大いに勇気付けた。わけても当時青森高校の生徒だった寺山修司は大いに衝撃を受け、それを越えなければならないと語り、さらに熱心に俳句に打ち込んだと言う。

    (戦後俳句史を読む)「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会②

    • 出席者:筑紫磐井、原雅子、中西夕紀、深谷義紀、仲寒蝉(司会)

    2.遷子と他の戦後俳人の共通点についてどう考えるか?

    筑紫は〈戦後俳句の理解のためには、沢木欣一、能村登四郎、金子兜太らが行った社会性俳句とは別の、より広い社会的な志向を持った俳句というコンセプトを定めてみる必要がある〉と主張。「社会性俳句」という概念に入らず切り捨てられ無視された俳句を「社会的意識俳句」と呼び、それら埋もれてしまった俳句を再発見する必要があると言う。「社会的意識俳句」の中に特定のイデオロギーや態度を持った「社会性俳句」があり、その外側にそれとは別の膨大な「社会的意識俳句」が存在したことを忘れてはいけないと強調する。「社会性俳句」が廃れた後も、俳句と社会のあり方の両方に根ざした本質的な俳句であるがゆえに「社会的意識俳句」は生き残っていた、と言う。

    「俳句」編集長大野林火が「社会性俳句」を取り上げた特集「俳句と社会性の吟味」(昭和28年11月)の後、同じ「俳句」での特集「揺れる日本――戦後俳句二千句集」(昭和29年11月)に掲載された次のような俳句を「社会的意識俳句」の例として挙げる。


    インフレの街の夜となり花氷 岩城炎 21・10
    ラヂヲまた汚職をいふか遠雲雀 萩本ム弓 29・5
    絞首刑冬の鎖はおのが手に 小西甚一 24・3 
    深む冬接収家屋の白き名札 草間時彦 28・6 
    桐咲いて混血の子のいつ移りし 大野林火 28・5 
    血を売る腕梅雨の名曲切々と 原子順 24・9 
    堕胎する妻に金魚は逆立てり 野見山朱鳥 24 
    嘆くをやめかの裸レヴューなど見るとせむ 安住敦 24・7 
    汝が胸の谷間の汗や巴里祭 楠本憲吉 28・9 
    小説は義経ばやり原爆忌 佐野青陽人 27・12 

    文学性については吟味するべきとしながらも、これらの俳句を忘れてはならず、社会性俳句が否定されたとしてもこれらの〈俳句やそのモチベーションを社会性俳句と一緒に葬ってしまうことは危険〉と述べる。

    この「社会的意識俳句」の代表的な作家として相馬遷子を位置付け、その他多数の社会的意識を持った俳句作家を「別の遷子たち」と呼ぶことを提唱する。

    は「社会性俳句」から前衛俳句という流れの中で、次第に個に拡散していった傾向に触れ、遷子の場合、地方の風景や生活を実直に詠んだ個の一つと認識する立場を取る。

    中西は遷子が入会した昭和10年代の「馬酔木」は俳壇で革新的な役割を果たした時期であり、その同人達の影響を受けているだけで十分に革新的だったのではないかと言う。

    当時は今よりずっと結社の束縛が強く、遷子の時局詠、生活詠、自然詠のすべてが馬酔木の中にあったのではないかと指摘する。つまり〈遷子は「馬酔木」を通して、戦後俳句と間接的に繋がっていた、だから消極的な社会性俳句も理解できる〉と述べる。

    深谷は同じ馬酔木「高原派」でも堀口星眠・大島民郎などの純粋自然賛歌と遷子の作風と大いに異なると言う。かと言って所謂「社会性俳句」の範疇も入らない。たとえ社会的な問題を含む題材でもヒューマニズムの発露が成せるものであって政治的イデオロギーの匂いはない、と述べる。

    また地域性(地方色)と言う点でも、大野林火の慫慂を受け謂わば戦略的に「風土性」を全面に展開した側面のある「風土俳句」作家とも異なり、遷子は〈あくまでその作品の素材を自分が居住する佐久に求めたに過ぎない〉と言う。

    は、高原派と呼ばれる作風から『山国』の終り頃、昭和28年頃には医業を含めた生活詠、患者の貧しい生活や税金、医療費のことを取り上げた社会性俳句と呼んでもいい内容の句が増えて来るのに注目する。これは「俳句」の特集「俳句と社会性の吟味」、沢木欣一『塩田』、能村登四郎『合掌部落』といった所謂社会性俳句の潮流が高まってくるのと軌を一にしている。さらに文体という点からは新興俳句への架け橋的な存在であった「馬酔木」の影響があると言う。

    一方、西の兜子、東の兜太を中心とした前衛俳句の影響はほとんど受けていない。その証拠として『雪嶺』(昭和44年刊行)の字余りの句が95/430=22.1%に過ぎないことを挙げ、赤尾兜子『虚像』(昭和40年刊行)の95.2%と比較して破調の句が少ないことを指摘する。〈遷子の俳句の姿の正しさは写真に見る彼の背筋の伸びた姿勢に通じる気がする〉と述べる。

    まとめ

    これについては意見が割れた。

    は遷子について、「社会性俳句」の影響を受けたにせよ、それらの作品の題材は自己の生活の一環であり、飽くまで佐久での生活を基盤に自己の作風を培っていったと捉える。

    中西は時局詠、生活詠、自然詠のすべてが「馬酔木」の中にあり、社会性俳句についても「馬酔木」を通して、戦後俳句と間接的に繋がっていたと考える。

    自然詠については仲も「馬酔木」高原派としての遷子、との捉え方であるが深谷は他の高原派との違いを言う。

    問題は社会性俳句である。中西、仲は「馬酔木」や周辺の所謂「社会性俳句」の作家たちの影響を強調、原、深谷は飽くまで地域性を基盤にして出てきた独自性があると主張する。こうした中、筑紫の「社会的意識俳句」という捉え方は遷子の俳句を論じる上で新しい観点を提供するものである。〈沢木欣一、能村登四郎、金子兜太らが行った社会性俳句とは別の、より広い社会的な志向を持った俳句というコンセプト〉は魅力的で、所謂「社会性俳句」の影に埋もれてしまった多くの俳句を見直すことにつながる可能性がある。遷子をこれら「社会的意識俳句」の代表的作家と位置付けるのである。


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