戦後俳句を読む(第16回-2)―テーマ:「鳥」その他―

―テーマ:「鳥」その他―


堀葦男の句/堺谷真人

首都の芝厚し栗鼠・鳩・老婆あゆみ

『火づくり』(1962年)最終章「火の章」の句。「太陽の専制」と題された連作50句の劈頭を飾る「アメリカ 九句」より。

見事に手入れされた厚い芝生がどこまでも広がる公園。愛くるしい栗鼠が垣根づたいにひょいと顔を出し、一瞬じっと何かを見つめてから、するすると走り去る。子どもの撒くポップコーンに鳩があつまり、ふくよかな老婦人は脚をいたわるようにゆっくりと散歩を愉しんでいる。

1960年6月、国際棉花諮問委員会出席のため渡米した葦男は首都・ワシントンに滞在した。葦男の眼をまず捉えたのは、超大国の首都の美しさである。ナショナル・モールの緑あふれる景観はもとより、輪奐たる諸官庁の建物やオフィスビルの合間にもここかしこに分厚く敷き詰められた芝生は、金銭的尺度や軍事力だけでは測り得ないアメリカの豊かさ、底力というものを思い知らせたに違いない。祖国・日本を完膚なきまでに打ちのめした超大国の凄みを、葦男はビジネスシューズで踏む公園の芝生の厚みから感じ取っていた。

筆者がこの作品を「鳥」の句として取り上げたのには理由がある。第一句集『火づくり』837句には鳥を詠んだ作品が31句ある。しかし、全206ページの69ページ目に位置する鳥の句No.23「つばくらの白胸(しらむね)よごる街貧しく」のあと100ページ近く鳥を
詠んだ句は一つもなく、163ページ目に至ってやっと出現した鳥の句No.24が即ち「首都の芝厚し・・・」なのである。制作年代にして1952年から1960年まで足かけ9年間に及ぶブランクは何を意味するのであろうか。

無論、葦男が9年間ものあいだ鳥の句を一切詠まなかったわけではない。例えば1954年5月に発行された「十七音詩」第3号には「君と見し夕日のごとし雁啼けり」という作品も見える。しかし、『火づくり』編纂時の葦男はこれを採らなかった。

ところで、鳥の句の空白期は『火づくり』第三章「地の章」をまるまる含むが、実はこの「地の章」は『火づくり』刊行当時、集中のアキレス腱と見なされていた形跡がある。今、1963年5月発行の「十七音詩」第25号<火づくり特集号>の座談会「“火づくり”を手にして」を披見すると、鈴木六林男ら同時代の俳人たちは「風の章」から「水の章」への深化を高く評価する一方、「地の章」については「低迷」「足踏み」「勇み足」等の言葉で忌憚なき評定を下しているのだ。

しかし逆にいえば、「地の章」の時代こそ葦男が全身全霊を賭けて俳句表現上の試行錯誤を繰り返した歳月だったともいえよう。僻目かもしれないが、葦男が新しい表現や思想の地平を開くため、敢えて好きな鳥の句を封印するという「鳥断ち」の挙に出たのではないかなどと筆者は想像してしまう。

葦男が約2ヶ月の外遊を終えて羽田空港に降り立ったのは1960年7月14日であった。同じ日、アメリカの民主党大会においてジョン・フィッツジェラルド・ケネディが大統領候補に指名された。指名受諾演説で彼が高らかに掲げたスローガンが「ニュー・フロンティア」である。

For the problems are not all solved and the battles are not all won—and we stand today on the edge of a New Frontier … But the New Frontier of which I speak is not a set of promises—it is a set of challenges. It sums up not what I intend to offer the American people, but what I intend to ask of them.

アメリカで始まろうとしていたフロンティア精神の復興運動。その息吹を目の当たりにした葦男の俳句にようやく鳥はもどって来たのだ。


成田千空の句/深谷義紀

白鳥の花の身又の日はありや

第2句集「人日」所収。

千空作品の中で最も多い季語は「雪」である。青森、それも雪の多い津軽の五所川原を終生離れることがなかった千空だから、これは謂わば当然の結果だろう。ところが、それに次いで多いのが「白鳥」。これは、やや予想外の結果だと言える。確かに東京などと異なり、青森には冬季になれば白鳥が多数飛来するから、白鳥を見かけることがさほど珍しくないという事情はあるだろう。しかし、そうは言っても、他の作家の場合「白鳥」の作例はそう多いとは言えないし、この点はやはり千空の句業の一つの特質であろう。

掲出句以外の「白鳥」の句を挙げる。

波なりに冬去る白鳥の墓一基   「地霊」
白鳥の黒豆粒の瞳を憐れむ    「人日」
白鳥の遥かな一羽父なるか    「天門」
白鳥千羽東にひらく海と空    「白光」
白鳥の声かすめ去る夢の端    「忘年」
白鳥の飢ゑのうら声風のこゑ   「十方吟」

各句集から一句づつ引いた。

これら「白鳥」の句を眺めているうちに気付くのは、白鳥に千空の様々な想いが込められているということである。千空は白鳥を客観視するのではなく、かけがえのない存在の人間に接するような眼差しを注いでいる。上述の句に即して言えば、或る時は“墓を遺して逝った男”を、或る時は“幼少時に死別した父”を、或る時は“凶作による飢饉に見舞われた津軽の先祖たち”を、それぞれ見ているのである。

では、なぜ千空はこの「白鳥」という対象に惹かれ、このように己が想いを託したのだろうか。以下は、全くの独断である。

五所川原からさほど離れていない津軽外が浜には「雁風呂」「雁供養」の伝承が残る。津軽の人達は、春になると砂浜に残る木の枝を拾いながら、北に帰ることができなかった雁の霊を弔うという。千空が白鳥を見る眼差しに、これと相通ずるものがあったような気がしてならない。

純白の白鳥の姿は確かに美しい。だが、長い旅路の中途で力尽きるものも少なからずいるだろう。また、たとえ無事に辿り着いても飛来した地で斃れていくものも多い筈である。眼前の白鳥と来年再び相まみえる事は不可能と言ってよいだろう。掲出句では、運命の過酷さに裏打ちされた、哀しいまでの白鳥の美しさが詠われている。


上田五千石の句/しなだしん

火の鳥の羽毛降りくる大焚火   五千石

第四句集『琥珀』(*1)所収。昭和五十八年作。

「火の鳥」の句であるから、厳密にいえば「鳥」の句とは云えないかもしれない。五千石には「渡り鳥」をはじめ、多くの鳥の句があるが、今回はこの「火の鳥」の句を紹介したいと思った。

火焔鳥、不死鳥、フェニックス、様々に呼ばれる火の鳥は、永遠の時を生きるという伝説上の鳥。数百年に一度、自ら香木を積み重ねて火をつけ、その火に飛び込んで焼死し、その灰の中から再び幼鳥となって現れるという。ちなみに鳳凰とフェニックス、東西の聖なる鳥の代表としてよく混同される両者だが、フェニックスのルーツはエジプトにあり、歴史書によれば、形態は猛禽類(エジプトで愛好されていた鷹)に近い。それに対して鳳凰は長い首、尾羽など孔雀に近い見た目をしており、そのルーツはインドにあるという。また鳳凰は雌雄の別があり卵も産むのに対してフェニックスは単性(雄)生殖をするとされているところに大きな違いがある、とのことだ。

この句は「火の鳥」を詠ったものではなく、この「火の鳥」は大焚火の比喩として使われている。

五千石は大焚火を前にして(目の前にしたわけではなく、題詠ということも考えられるが)、舞い上がる火の粉を追い視線を上に向けたとき、炎に染まった夜空に「火の鳥」を認めたのだ。そしてその「火の鳥」が羽ばたきを見せたとき、羽毛がしずかにゆっくりと舞い落ちてくるのを見た。そんな幻想の後、現実の眼前には焚火がまた炎をあげる。それは不死鳥の数百年に一度の再生を見るがごとくである。

題詠という可能性に触れたが、『上田五千石全集』 (*2)の『琥珀』の補遺、「畦」昭和58年2月号には、「左義長や火の切れ宙にむすびあひ」「かんばせをどんど明りにまたまかす」「山風に焔あらがふ磯どんど」という「左義長」を詠んだ句が残っている。これらの作品のどこかに掲出句に通ずるイメージを感じるのは私だけだろうか。

この頃の吟行時の作品には前書きがあるが、この一連の「左義長」の句にはそれがない。「左義長」の題詠だったことも大いに考えられる。そして掲句が「左義長」の一連として詠まれ、「焚火」に推敲されたとも考えられなくない。

掲句、「火の鳥」自体誰も見たことがないだろうから、読み手によってそのイメージは随分異なるかもしれない。ただ「焚火」に対して「火の鳥」を単に持ち出しただけでなく、その「羽毛」という細かい描写を加えたのが、五千石の技であり、詠み手の想像力を刺激するところだろう。


*1 『琥珀』 平成四年八月二十七日、角川書店刊

*2『上田五千石全集』 富士見書房刊


青玄系作家の句/岡村知昭

羽抜鶏の抜けつ放しで遊びをり   安川貞夫

掲出句は第2句集『独酌』(1961年1月 青玄発行所)所収。作者は1919年(大正8)生まれ、奈良県出身。軍隊時代に伊丹三樹彦と出会ったのがきっかけで俳句への関わりが始まり(同じように俳句と出会った楠本憲吉と戦後すぐに日野草城の家を訪れている)、1949年(昭和24)に「まるめろ叢書」第4として第1句集『小盃』を刊行(「まるめろ」は草城が指導、三樹彦が編集で1946年に創刊した俳誌、ちなみに叢書第2が桂信子の『月光抄』)。「青玄」には創刊から参加。『独酌』は1949~60年までの作品220句余りを逆年順に収録、掲出句が収められた1958年(昭和33)の章の作品12句は、すべて「羽抜鶏」がモチーフとなっている。

そこで、「羽抜鶏」という季語を手元にある歳時記で改めて見直してみると、

 西日が射しこむ鶏舎の中で、羽抜した鶏の姿は、なんとも見すぼらしく、哀れである。鶏冠の色まで暗白色にかわり、しょぼしょぼと歩くさまは滑稽ですらある」(講談社版『カラー図説日本大歳時記』より、筆者は飯田龍太)、

 昔は、農家の庭で放し飼いにされていた鶏が哀れな姿をさらして駆け回ったりする光景がよく見られた。滑稽味のある季語。(『今はじめる人のための俳句歳時記』角川文庫)

というように羽根がだんだんと抜け落ちてゆく姿に対する「哀れ」さと羽根を散らばらせながら駆け回る姿への「滑稽」さ、人間サイドからの目線に基づいたこのふたつの感情が受け継がれていきながら「羽抜鶏」は存在しているわけである。

掲出句以外の作品での「羽抜鶏」たちは、「身辺を抜け羽が舞へり羽抜鶏」「抜け羽の行方へ一顧羽抜鶏」「羽抜鶏の尻うごきをり草の中」といった身近にいる鶏自身の羽根が抜け落ちてゆく動きをじっと見つめ続けたところから生まれた句があると思えば、「バスの砂塵へ片目つぶって羽抜鶏」「雲見る間も羽抜けやまず羽抜鶏」「天想うこと多くなり羽抜鶏」「羽抜鶏の尻を見しより母恋し」というような自分自身のいまの姿を鶏に投影したかのような作品も現れる。鶏の尻から母の後ろ姿を想う姿は母恋いには珍しいのではあるまいか。「羽抜鶏の雄が羞らう雌の前」「狡い雌とはなれて雄の羽抜鶏」では雌の優位に対して雄であることへの無力を訴えてやまないのは男性である自分自身、己への「哀れ」「滑稽」の投影もここに極まれりというところなのだろうか。「羽抜鶏どうしであそぶ沼に映り」「沼に映る凡夫につづく羽抜鶏」は沼という独特の不気味さを醸し出す場所との取り合わせを通じて、生命としての存在そのものの不確かさを写し取ろうとしている、その先にあるのはもちろん自分自身の不確かさなのだろう。

そして掲出句の「羽抜鶏」である。この鶏は羽が抜け落ちてゆく真っ只中にありながら、それがどうしたと言わんばかりに周辺を堂々と走り回る。作者を含めた人間たちから向けられる「哀れ」や「滑稽」の目線などはいとも易々と跳ね返し、夏の暑さにおろおろともせずに走り回る。もしかしたら「抜けつ放し」を恐れることのないたくましさこそが本当の「羽抜鶏」なのかもしれない、と思わせてしまいかねないぐらいである。作者がこの1句を外さなかったのも、己が生命もまたこのようにたくましくありたいものだ、との感慨が鶏を見つめながらよぎっていたからだろうか。

著者の第1句集『小盃』に日野草城は序に次の一文を送っている。

「安川貞夫罷り通る」

その安川貞夫氏の目の前を、羽抜鶏たちははつらつと動き回っている、羽を全身からほとばしらせるかのように飛び散らせながら。まさに「羽抜鶏罷り通る」。


赤尾兜子の句/仲寒蝉

目なき頭垂る海をついばむ小鳥たち   『虚像』

まず、個人的な好み、というより信念と言った方がよかろうが、敢えて言わせてもらえば「頭」を「ヅ」と読ませるのには反対である。どうもそのような俳句をよく見かけるがこれは俳句の世界だけの現象ではなかろうか。確かに漢字には呉音、漢音、唐音、宋音などがあり、「頭」も頭痛などの時には「トウ」ではなく「ヅ」と読むこともある。しかし矢張り「頭垂る」とあればその読みは普通「かうべたる」、百歩譲って「あたまたる」であろう。これを「づたる」と読む感性にはどうしても同調できないのである。この句もどうやら「めなきづたる」と読ませようとしているようだ。兜子のこの頃の句はもともと破調が普通であるから勝手に「めなきかうべたる」と読んでも構わないと思うが句集ではきっちり「ヅ」とルビが振ってある。

この句の初出は昭和37年3月刊の「渦」第9号である。「熱い背景」と題した12句は、その中から8句が『虚像』の「轢死の葡萄」という章に取られているから当時の兜子としては自信作だったのだろう。前の句には

癌の雨と盲児の硬い手まじわる空

と空が登場するがこの句とはあまり関係なさそうだ。このシリーズでは一句一句が完全に独立している。いやもともと兜子自身が連作的な作り方をしない人であった。少なくとも雑誌や句集に発表する時はそうであった。従ってこの句も一句を完全に独立した詩として味わう他はない。

それにしても目のない頭を持つ鳥が海をついばんでいるとの異様なイメージはどこから来ているのだろう。ここで思い浮かぶのは、この昭和30年代後半が水俣病などの公害とサリドマイドなどの薬害がクローズアップされた時代ということ。水俣病については翌昭和38年2月にその原因がチッソ(新日本窒素肥料)の有機水銀と特定され、政府が公式にそれを認めたのはもっと遅れて昭和43年のことであった。しかし患者の報告は昭和31年から始まっており、昭和34年頃にはどうも原因がチッソの工場排水らしいということになってきていいた。またサリドマイドという物質を含む睡眠薬やつわり防止の薬が出荷停止になるのはこの句が発表された昭和37年5月のことである。だがすでに昭和34年頃からこれらの薬を内服した妊婦から生まれた子に奇形の発生することが知られていた。またこれより少し後のこととなるが昭和40年代にスモンという一種の奇病が多く発生し45年にキノホルムという整腸剤がその原因とされ製造販売中止となっている。

いずれにせよ高度成長期に入った日本にとって、便利で快適な生活を追求することの代償として起こってきたかのような公害と薬害、謂わば戦後日本の闇の部分とこの頃の兜子の俳句とは不可分だと思われる。兜子自身は毎日新聞社の学芸部に所属していたようなので直接これらの事件を取材するようなことはなかったろうが、新聞社に籍を置く人間として無関心でいられた筈はない。この句の海が有明海であるとまでは言わないが、例えば兜子が幼少期を過ごした網干の近くの海にしても工場排水によってとても泳げるような海ではなくなっていたに違いない。この小鳥は人類の将来の姿、或いは兜子自身であったかもしれない。


戦後川柳/清水かおり

春愁の最たるは鳥歯をもたぬ   橘髙薫風(1926年~2005年・大阪)
句集『檸檬』所収

句集『檸檬』は橘髙薫風が川柳を始めた昭和30年から40年までの10年間の作品を自選し纏めた句集である。他に『有情』『肉眼』『愛染』『古稀薫風』など多数の句集があり、個人句集が遺句集で出されることの多かった川柳界で、薫風のように全活動期を通して句集を刊行した作家は少ない。

1926年生まれの薫風と元号昭和はちょうど年表が重なり合う。掲出句は薫風が30代の時の作品で、句語「春愁」が青年期から成熟期へとさしかかる時期の情感を漂わせている。激動の時代といわれた昭和に生きる人間の、愁訴の形として選択された「鳥」、それに続く「歯をもたぬ」は鬱屈した心理の表出であるのは言うまでもない。ジュラ紀の始祖鳥は歯を持っていたらしいがそれ以後の鳥に歯がないのは当たり前だ。その当たり前のことがここでは「最たるは」という句語によってひどく哀しく描かれている。

戦中の言論規制が強かった時代を知る作家にとって「鳥」は鶴の句語に代表されるように思想を語る者になることもあった。孤高を成す形でもあり、諦念の代弁者にもなった。薫風の鳥はそうした時代的な比喩媒体としての「鳥」を含めた位相で書かれている。句語とこの句が書かれた時代との関係性を考えればそういう読みになる。しかし、現代で鳥というと、読者はあまり社会性や思想には結び付けない。鳥は私個人を比喩するものになり、鳥は鳥の器を出ない。句語は時代に影響されることにより比喩される意味が変化していくのである。絵画におこるような経年変化が川柳にもあるとすればそういうことかもしれない。川柳は世相に密着した文芸といわれるが、この句のように年月に沿って感動体の交換がスムーズだと普遍的な作品として評価されるのだろう。事象とそれに付随する心理を詠むこととその心理を超えて言葉に還元することの差異は、今現在、川柳を書く私たちの選択肢のひとつになっている。

檻の鶴又眼を閉ずるほかはなし
黙契やいまも仏法僧がなく
聞香の首かしげいる白鳥か
鵜もやがて切り絵の闇に紛れたり
四季浄土花は歌うて鳥匂う   『 古稀薫風 』

橘髙薫風は、川柳六大家の一人である麻生路郎に師事した。「川柳雑誌」編集部で活動の後、路郎の死後に「川柳塔」を発刊して編集長を務める。ラジオや新聞紙上での選者、全日本川柳協会理事などを歴任した正統派の川柳人としても知られている。川柳の叙情は戦後になって目覚しく発展した部分であるが、薫風の作風も師であった麻生路郎の社会派傾向の作品とは少し趣が違い、情緒の伴った作品が多い。代表句「恋人の膝は檸檬のまるさかな」など、恋の句も多く詠んでいる。


(戦後俳句史を読む)「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会⑥(仲寒蝉編集)

  • 6.自然と遷子について述べよ。

筑紫は〈遷子が俳句という芸術に足を踏み入れる動機となったのは、秋桜子に教えられた自然観照の美しい風景によるものであった〉と指摘。ただこうした自然観照は独創的である必要はなく〈あらゆる青年たちが共感したからこそ、馬酔木俳句はこれほど広く展開した〉と述べる。それを示す事項として馬酔木の最初の歳時記『現代俳句季語解』(昭和7年)の例句に作者名の記述がないことを挙げる。水原秋桜子によると「作者名を省いたのは、お互いの共有の芸術であるという親しみを持ちたいから」、つまり〈虚子が確立した日本的季題趣味に対して、水原秋桜子は西洋美術的な自然趣味を導入した〉がそれは個性以前の〈当時の若者共有の感覚であった〉ということになる。

さらに〈こうした共有感覚が壊れ、個人個人の悩みが個性の下で語られるようになるには、人間探求派を待たねばならない〉と述べ、〈戦前の遷子の叙景俳句と、戦後の馬酔木高原派の俳句は本質において何も変わるところがなかった〉、〈皮肉に言えば、少しばかり、近江俊郎風の「山小屋の灯」的通俗性を加えたに過ぎない〉と言う。

は〈遷子の風景句に興味を持ったのは、自然への対し方が、初期と晩年では違うように感じられたから〉、すなわち〈初期の外側から描かれた風景が、次第に内面と重なってきた―自己と一体化した―〉その変化の過程に惹かれたと言う。

中西は〈師の秋桜子は美しい風景句を作る人であったから、遷子の出発点は美しい風景句であった〉と言う。医師俳句を作っている『雪嶺』時代も吟行はしていたはず、と推測する。〈窓を開けると山が見える佐久という美しい山国の環境〉にあって〈美しい反面、寒さの厳しさや、雪の恐ろしさを常に身近にしていたことだろう〉と自然の厳しさを知った人の「わが山河」であったことを強調する。

深谷は〈馬酔木「高原派」の純粋自然賛歌とは作風は大いに異なる〉と指摘。〈自分が暮らす佐久の山々や風土に対する国誉め的な作品もあるのは、重い作風の作品が多い中にあってふと心が和ませられる〉と述べる。

は〈八ヶ岳、浅間山といった山々は佐久移住前の『草枕』時代、『山国』の昭和30年代までは分け入ってゆくもの、それ以後は遠望するものとして詠まれる〉と言う。これら故郷の山や川は〈『雪嶺』の終り頃から『山河』時代になると「わが山河」と呼んで愛するものとなった〉と言う。

また磐井氏の論文にあるように遷子の俳句に星が多く詠まれていることを挙げ、〈佐久の方言で「凍みる」と言われる冬の気温の低さ、そのせいで空気中から水分が希薄となり星が美しくも冴えわたって見える〉と述べる。

しかし一方で〈一つ一つの植物や動物の名前を挙げて詠むことは多くなかった〉ことを指摘。〈盆栽が好きだった父親と違い「生き物飼はず花作らず」と自分を規定しているくらいだから、高原派と呼ばれる割には生物に対して冷たい。人間も含めた生物とウェットな関係を持つことが彼にとっては煩わしかったのではないか〉と述べる。

  • 6のまとめ

ほぼ全員が若い頃の遷子が「馬酔木」特に秋桜子の美しい風景を描く俳句の流れの上にあったこと、佐久の自然の厳しさに触れた後には外から見るだけでなく内面的なものの反映として自然を捉えるように変わって来たことを感じている。

筑紫は秋桜子の自然観は個性のない〈当時の若者共有の感覚〉であって、戦後の「馬酔木」高原派の俳句もその延長線上に過ぎず、それが個性的な様相を呈するのは人間探求派以後であると俳句史を概観する。

は遷子の性質として人間も含めた生物とウェットな関係を持つことを煩わしいと感ずる所があり、単に自然が好きで俳句に詠んでいたというのと異なる点を強調する。

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