戦後俳句を読む(第17回-1)―テーマ:「風」その他―

―テーマ:「風」その他―

  • 近木圭之介の句/藤田踏青
  • 赤尾兜子の句/仲寒蝉
  • 稲垣きくのの句/土肥あき子
  • 上田五千石の句/しなだしん
  • 齋藤玄の句/飯田冬眞
  • 青玄系作家の句/岡村知昭
  • (戦後俳句史を読む)「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会⑦(仲寒蝉編集)
    出席者:筑紫磐井、原雅子、中西夕紀、深谷義紀、仲寒蝉(司会)

  • 近木圭之介の句/藤田踏青

    己の影 風にめくれもしない

    平成17年の圭之介93歳の作品である。凍てついた地面に貼りついた己の影をじっと見つめる作者の姿がそこにある。その影は最晩年のもう動かしようのない己の人生そのものを示唆しているのであろう。影とは原像に対する二次的存在である故に、変化の源である風さへその影を動かす力はないと言えば身も蓋もない話となる。やはり影とはその人の可能性や生きられなかった面を象徴しており、その否定的な意味合い故に人間の自我に陰翳を与える立体的な存在なのではないか。ユングの述べた「影を自分自身の否定的側面、欠如側面と意識し、影を自我に統合することが自己実現の道である」の境地に達するにはもう体力も時間もあまり残されていなかったのであろう。

    己れは己れへ消えるため 風むきえらぶ   平成19年作
    おのれの風よ。今の笑いも昔のものよ    平成19年作
    今という風 己れにあり生きる       平成19年作

    風と一体化して風と共に消え去って行く己れという存在を冷静に視つめつつ、圭之介は平成21年に97歳で没した。

    人だか風だか渦を巻き一さいが過ぎ去る   昭和31年作  注①
    冬木というものが躯のなか風ふく      昭和38年作  注①
    私の眼が入って行くのは風のおく      昭和59年作  注①
    小さな驕り身に溜る風にふかれる      昭和60年作  注①

    風という存在を自我の内部に見い出すという事は、その流動的な不安定性を示すとともに、受動的な対応に身を委ねていることでもある。また各作品に於いては、視覚や触覚が意識としての風によって攪乱され溶解されてゆく経過の中で、無時間性というものに至っている。風とは人生そのものかもしれない。

    月夜の石に中也の風の詩刻まれたまま   昭和58年作  注①

    山口遊歩の折、中原中也の詩碑「これが私の故里だ。さやかにも風も吹いている・・・」(注②)の風に立つ、との前書きのある句である。この中也の風も人生への問いかけであり、それを圭之介自身に投影しているかの如くである。ちなみにこの詩碑は小林秀雄の筆により山口県湯田温泉の高田公園に建っており、同公園内には山頭火の句碑「ほろほろ酔うて木の葉ふる」も建っている。山頭火が一時、湯田温泉に住んでいた折には中也は既に亡くなっていたが、中也の弟・中原呉郎とは詩人の会などで昵懇となり、次第に呉郎は山頭火に心酔してゆく。また呉郎の母フク等を含め中原家の人々に山頭火は暖かく受け入れられていたようで、中原家に泊まり込んだり、家族と共に記念写真を撮ったりもしている。そんな山頭火であったが、再び漂泊の思いを風が運んで来たのであろう。山頭火晩年の姿を圭之介は下記の様に冷徹に捉えていた。

    風 狂気匂う背   (山頭火晩年)  平成3年作


    注①「ケイノスケ句抄」 層雲社 昭和61年刊

    注②

    <帰郷>跋   中原中也
    これが私の故里だ
    さやかにも風も吹いている
      心置きなく泣かれよと
      年増婦の低い声もする
    あゝ おまへはなにをして来たのだと・・・・・・
    吹き来る風が私に云ふ


    赤尾兜子の句/仲寒蝉

    濁音疾風のごと越冬工場の靴乾き   『蛇』

    「坂」の章に収められている。昭和30~34年とあるが俳句文学館に残る「坂」には収録されていなかったので正確な発表年は定かでない。

    『蛇』の終わりの方は『虚像』につながる都市風景を描いた作品が多い。兜子の俳句で難解さが最も際立った時代である。実はこれらの俳句を難解と感じたのは筆者だけではないようで、昭和34年2月の「俳句」では「難解俳句とは何か」という特集が組まれている。この時、難解俳句の代表として「前衛俳句10人集」に名前を連ねたのは、林田紀音夫、大中青塔子、堀葦男、稲葉直、永田耕衣、立岩利夫、島津亮、赤尾兜子、東川紀志男、中川蛍思という面々であった。一括りにされてはいるが随分と傾向の異なる作家たちである。

    不発の怒り撒かれるビラの活字逃げ     林田紀音夫
    聖夜の脂つながり眠り醒める機械      大中青塔子
    固い産卵 黒革の辞書敵として       堀葦男
    ジャズで汚れた聖樹の雪に詰めこむ密語   稲葉直
    馬を笑わす枯野の石を腰で覆う       永田耕衣
    タイプは機銃盲目の朝の仕事溜る      立岩利夫
    きついエレベーター嘔吐のさようなら達   島津亮
    光る密漁地区抜け出た船長に鏡の広間    赤尾兜子
    軽量の犬行く被爆地以外の土地       東川紀志男
    ぼくの掌にマッチ扁平 都会に生きる    中川蛍思

    試みにそれぞれの作品から一句ずつ引いた。こうやって並べてみると違いもあるが何となくギクシャクしたリズムという点では共通していることが分る。それこそ時代の潮流というものであろうか。敢えて定型を外すことで何かを主張しようという意気込みのようなものを感じる。昨今の総合誌に並ぶ平明な俳句群と読み比べてみればよい。優劣や好悪を抜きにして余りの違いに愕然とする。

    さて「難解」の一言で括られてしまったこの句群だが、十把一絡げにできるほど単純なものでなく印象も様々である。それでも「難解」と感じさせる何かを持っているからこそ一括りにされたのであろう。括ることの是非は措きどのような点が「難解」とされたのか。それを分析することで、この当時の兜子の俳句の立ち位置も確認できそうだ。

    同じ難解というレッテルを貼られた俳句でも所謂人間探求派と呼ばれた頃の楸邨や草田男の句は今読むとどこが難解かと思ってしまうくらい明解である。しかし上掲の10句は時代を経たからとて明解にはならない。日本語の文法に則ってはいるが思念の向かう方向が常識的、伝統的な連想の枠に収まらないのである。ただイメージを重ねて心の中にある思念を表出しようという意志はあるので、それを丁寧にほぐせば時間はかかっても理解は可能である。少なくとも稲葉、立岩、島津、東川、中川の句はさして難解ではない。林田の句は「活字逃げ」の解釈、大中の句は「脂」の正体、堀の句は「固い産卵」の表わすものを明らかに出来れば判る。永田の句は最も難解でありここでは措く。その意味でこの10句の中では最もイメージ鮮明なのが兜子の句である。敢えて難解な点を言えば船長が何者で鏡の広間は彼の望んだものか偶然かというような、どちらかと言えば読者が好きに想像すればいいようなことだけであり、言葉としては難解とは思われない。むしろ「何故兜子はこんな俳句を作ったのか?」という彼の動機こそが難解とされたのではなかろうか。

    聊か寄り道し過ぎた。元の越冬工場の句に戻ろう。この句も言葉として難解な所は毫もない。越冬工場は冬の間も働き続ける工場、神戸のような温暖の地でなく、記者として訪れた北方の土地なのかもしれない。ここで作者が経験したのは疾風のような濁音、恐らく機械の発する音と熱である。熱とはどこにも書かれていないが寒い冬を越すという点と「靴乾き」の表現から感じ取った。何故兜子はこの俳句を詠んだのか、何を言いたかったのか。筆者は工場の持つ生命力のようなもの(生き物ではないので生命力はおかしいが)ではなかったかと思っている。それは先に掲出した「ふくれて強き白熱の舌吸う巨人工場」など当時の都会を詠んだ兜子の俳句に共通してみられる躍動感、うきうきした気分からそう感じ取ったのである。この頃の兜子は都市、それもどちらかと言えば場末の情景や気分を俳句に定着させようとした伝道師なのであった。


    稲垣きくのの句/土肥あき子

    渦潮の風の岬の薄羽織 『冬濤以後』所収

    渦潮は年中見られるものと思っていたが、春の彼岸の頃は一年のなかでももっとも干満の差が大きく、見事な大渦ができるため、「観潮」「渦潮」は春の季語となっている。荒々しい自然を前にした、薄羽織は風をはらみ、まるで岬の上で羽ばたいているような風情である。

    きくのの第三句集『冬濤以後』には連作が多くみられるが、その冒頭に登場するのが掲句を含んだ渦潮作品である。昭和42年、鳴門と前書された26句からなる作品には

    渦潮に呑まれし蝶か以後現れず
    渦潮に生きる鵜なれば気も荒し

    と細やかな視線に裏打ちされたやさしく、あるいは力強い句が並び、また

    観潮船揺れてよろけて気はたしか

    といった、歯切れ良いユニークな句も紛れている。

    きくのは前年に大切な人を亡くしている。その後、住居を移し、心機一転を考えながらも、身も心もあやうい時期を経ての鳴門吟行であった。

    まざまざと覗く渦潮地獄なり

    すさまじい轟音とたて奈落のような渦潮を目の当たりにして、恐怖を感じながらも、その偉大なる自然現象から目を離せないきくのがいる。

    そしてそれは、船上で足元を掬われるように揺れたことによって、一転して自らの関心がしっかりと過去から解放され、確かにひとりの人間としての自分が、現実の世界に生きていることに気づかされたのだ。

    よろけた足を踏み出す先は、新しい恋への一歩なのかもしれない。


    上田五千石の句/しなだしん

    凍鶴の景をくづさず足替ふる   五千石

    第三句集『琥珀』所収(*1)。昭和五十七年作。

    凍鶴の凛とした情景を捉えた句。

    凍鶴のいる景色はそれだけで美しい。原野、もしくは雪原。棒のごとくに動かない鶴。

    その鶴に対峙してじっと見つめていると、微動だにしないように見えていた鶴が、脚を組み替えた。それはあたかも周りの景色に馴染んでいて、その動作自体が幻だったかのように思える。

    掲句はその情景を比喩に頼ることなく、詠み当てている。「凍鶴の景」は、凍鶴が、という意味合いでも読めるが、凍鶴の居る全体の景色を読み手に把握させることにも成功している。

    今回は「風」というテーマだが、実はこの句には「風」ということばは出現していない。

    風は目に見えないもの。頬などに風を感じるように、身体で風の存在を認識したり、落葉が吹かれるなどの風が引き起こす現象によって人はそれと理解する。

    人は古来からこの風を、神のように敬い、時に悪魔の使者のように恐れもして暮らし、季節ごとに風に名を付け語り継いできた。無風という状態でも実は風は確実に在る。この風、大気の流れが無ければ、人間は生きられないのだから。

    掲句には「風」は吹いていない、と読むのもひとつだが、花鳥諷詠の心持ちでこの句に対するとき、鶴が脚を組み替えたのは、目に見えないが、鶴に吹いた一陣の風のせいだったのではないかとも思えてくる。


    *1 『琥珀』 平成四年八月二十七日、角川書店刊


    齋藤玄の句/飯田冬眞

    花山椒みな吹かれみなかたちあり

    昭和52年作。第5句集『雁道』(*1)所収。

    掲句は風そのものを詠んだ句ではない。山椒の黄色い花が風に吹かれると、一瞬だが花々は形を失って黄色の塊だけに見える。だが、風が止むとまた花のひとつ一つの形が見えてくる。〈みな吹かれ〉でいっせいにそよいでいる山椒の花の群れた姿を描き、〈みなかたちあり〉と抑えたことで、〈花山椒〉の細かな花ひとつ一つに個性らしきものすら感じ取っている玄の視線を読み取ることができる。

    深読みをするならば、人は「流行」や「風潮」に吹かれるとき、山椒の花のように一斉になびくものである。しかし、風が収まれば、また普段の顔を取り戻して、ひとり一人の個性を示していく。自然界の現象を写しているように見えながら、そうした人間心理の暗喩としても読めてくる。強度のある句。こうした強度のある句の源流を探るとき、思い出される句がある。

    阿羅漢のつくる野分や切通   昭和17年作『飛雪』

    昭和18年、齋藤玄は石川桂郎にすすめられて「鶴」に入会、石田波郷に師事した。初投句で「鶴」2月号の巻頭を飾ったのが、この〈阿羅漢の〉の句。その後、石田波郷が9月に応召するまでに玄は、8回投句し、うち4回が巻頭になったという。(*2)

    この句はうまい句ではない。叙法などどちらかといえば下手糞だ。……が叙法が下手でも粗野でも何でもこの句はがつちりとおさまつて了つて、もはや一言の抜差もならぬ蕭条たる風景が現出している。

    と、波郷は〈阿羅漢の〉の句を絶賛した。ことに「句の末に至つて益々緊つてくる<や>のひゞきは誠に強大である。俳句の斯かる<ひゞき>といふものを現代の俳人は余りにも忘れすぎている。」と俳句の《ひゞき》を高く評価する。

    句の成立過程をたどるとすればこうだ。山を切り開いて通した路を野分が吹き抜けていく。前方には阿羅漢の石像が立ち並んでいた。そうか、この強い風は阿羅漢たちがつくり、吹かせているものに違いない。そうした作者の発見と断定が、〈阿羅漢のつくる野分〉という表現を生み出したのだろう。作者の断定を中七〈や〉で切り、下五を景物〈切通〉で抑える。韻文精神徹底を説いた『風切』時代の波郷の主張を補完するような作品として、この句は「鶴」の巻頭を飾り、波郷門下に何がしかの影響を与えた。しかし、今となってみると波郷の言うとおり「うまい句」ではない。無機物を作中主体に据えて、その動作や意思によって眼前の景物が現出したという擬人化の手法は、今では新しいものではなく、むしろ古典的ですらある。戦後俳句が終わった後に俳句を始めた現代の我々にとってみれば、ある傾向を想起させる俳句でしかない。

    そこには、掲句のような風景を通して人間の普遍に到達するような強度は持ち合わせてはいない。だが、技法や型から自由になり、凝視と独白によって普遍に達する道を探った玄の晩年の句群は、〈阿羅漢の〉の句に代表される古格との格闘から生み出されたことを確認しておきたい。


    *1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 

    *2  細川加賀 「玄の一句」 『俳句』昭和55年8月号所収 角川書店刊


    青玄系作家の一句/岡村知昭

    おろんおろんと風来た 手紙焼き捨てた    坂口芙美子

    作者は1964年(昭和39)に掲出句を含めた30句によって青玄新人賞を受賞。多彩なオノマトペを駆使した作品の数々は、「青玄」が進めた「俳句現代派」運動が生み出した作家の中にあっても異彩を放っており、「音楽性を採り入れた話し言葉とオノマトペ使用によって、未開拓の世界へ果敢に切り込んでいった」(森武司『青春俳句の60人』より)彼女の作風は、口語・現代語使用のあり方を見ていく上において欠かすことのできない存在である。オノマトペ使用の作品についてはまた機会を改めて紹介したい。

    たとえば、今をときめくアイドルグループが「風が強く吹いている」と唄うとき、聞き手の脳裏では「ビュービュー」とか「ごうごう」といった強風にふさわしい音のオノマトペが、これから訪れるであろう困難の数々とそれに立ち向かう決意とが思い浮かんでいることだろう。「そよ風」という言葉が出てきたとき、脳裏には柔らかさと温かさとを兼ね備えた風が肌に当たるときの心地よさ、また風とともにもたらされる柔らかな陽射しといった穏やかな空間がたちまちに浮かび上がってくることだろう。では1960年代の女性の手による掲出句においてはどのような風が、空間が浮かび上がってくるのだろうか。

    この一句においてのオノマトペとして選ばれた「おろんおろん」、まず並大抵の風のありようではなさそうなのはたちまちに想像がつくのだが、さらにただごとではない雰囲気を醸し出しているのが「風来た」との措辞である。確かに風はいきなりどこかから自分のもとへ訪れてくるものではあるのだが、風が自分のもとへ「来た」と見立てる、ありがちとも思える擬人法であるにもかかわらず、掲出句においては女性が感じる不安や恐れに対する隠喩的な役割を帯びた物象として立ち現われている。肌触りもまず気持ちいいものではなさそうである。そう「おろんおろん」は風の音の響きでもなければ風の温かさ冷たさを表したのではない、自らが迎えている危機のありようを示す存在なのだ。

    そんな「おろんおろん」と来る風を受け止めるひとりの女性(とひとまず見ておく)の足元では、かつて自分あてに届いた手紙がすっかり焼け焦げて、まもなく灰となるのである。「手紙を焼く」という行為からは誰かとの関係を断ち切ろうとする意思は十分にうかがえるし、女性ともなれば恋人との別れの一場面と想像するのは正直安易すぎるきらいもある。だが一方においてこの女性は、自分が誰かの「手紙焼き捨てた」事実に対してどこか現実感を感じていないところも見受けられる。「来た」「焼き捨てた」との末尾のT音の連打は、風の訪れと誰かとの関係を断ち切る決意の訪れとの取り合わせを確かなものとして形づくり、そのどちらに対しても心からのおののきを感じずにはいられない、ひとりの女性の姿をまぎれもなく写しだしているのである。

     
    貝殻に風棲む わたしのてのひらで
    風が聞いてる ねぎ刻む音 一つの音

    掲出句と同じく新人賞受賞の30句から風が登場する2句を引いてみた。貝殻に潜む風を感じたり、家事に励む姿を風が覗いているかのように感じたりというのはどこかモチーフとしてはありがちかもしれないが、風棲む貝殻は手のひらにあるとの見立ては、今このとき風は自らの手の中にある、風は自らのものとしてあるとの喜びにつながっているし、風に「ねぎ刻む音」を聞かれている彼女はその代わりに風の音を「一つの音」として聞きながら風と対峙しているかのようである。自らに吹く風を表すのに「おろんおろん」とのオノマトペを手に入れたこの作者は、もしかしたら自分で意識していないうちに風という存在に対して、どこか原始的な生命のうごめきを感じてしまっていたのかもしれない、風は「強く吹いている」ものではなく、「風は強く生きている」ものなのだと。


    (戦後俳句史を読む)「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会⑦(仲寒蝉編集)

    • 7.職業・仕事と遷子について。

    筑紫はまず教師、政治家、医師、灯台守などの職業は単なる生活費を得るための活動ではなく、〈倫理が先に存在し、社会がその種の職業人に敬意を持って処遇する〉ものであることを指摘。「恩給」という言葉を〈官吏は国家のために身命を賭して働くからその老後の蓄財もないわけで、そうした国家への忠誠に対して御恩として給付される〉と解説、公務を行う者には労働の対価としての給与(給料)は存在せず、〈高邁な無償のサービスに対して生命を維持するために国家から給されるもの(俸給)であった〉という昔の考え方と〈極めて合理的な労働原理の中間に遷子や同世代の人々が存在したことを忘れてはならない〉と述べる。

    はもし遷子が地方の開業医でなく研究者の道に進んでいたら人間的な幅はかなり狭められていたと指摘し、地域医療従事者としての生活が否応なく他者との関わりをもたらし、遷子の意識に影響を及ぼしたと言う。このことは孤独が深まるということも含め〈人間を詠むと言う短絡的なことではなく、自然に対する態度にも反映されたのではない〉かと述べる。

    中西は馬酔木の職業俳句の特集に医師俳句が並んでいる中で遷子の句を見てバッハを思い出したと言う。〈同じ時代の作曲家の作品と一緒に演奏されると、バッハの曲がとてもチャーミングだった。これと同じで、医師本人のことばかりを詠っている医師俳句の中にあって、遷子の句が、患者との対応を詠い真に迫っていると思った〉と。遷子の医師俳句は〈時に厳しい見方も随所にあるが、患者の農民の様子を描いたからこそ〉登場する医師もとても生き生きと見える。〈患者との対人関係を描くことによって医師俳句が立体的に見えた〉と言う。

    深谷は〈遷子が地域医療の最前線に立って患者やその家族と接してきたことを抜きに、遷子俳句は語れない〉と述べ〈何よりも生と死のせめぎあいの切迫感を読む者に伝えてくれる〉と言う。その一方で〈東京の大学などに籍を置き、最先端医療の研究に従事したかったという思いは後年まで抱え続けていた〉のではないかと推測する。

    は職業や患者に対する遷子の態度、信条を次の5点にまとめた。

    1)生真面目。俳句を読んでも「滑稽」や「笑い」からは程遠い。ペットや盆栽にも興味なく、仕事と俳句にひたすら打ち込む真面目人間。
    2)優しさ、温かさ。遷子は手遅れの患者を叱ったり風邪の患者に金を払えば即他人と言ったりもしたが、根は患者思いの医師であった。彼が患者に優しかったのは自分自身や家族が病弱であったことと無関係ではなかろう。
    3)人間嫌い。患者や人間が嫌いだったのではなく世俗の人間関係が鬱陶しかったのだろう。
    4)正義感。常に弱者の立場に立とうとする姿勢。
    <5)潔癖。生真面目と通じるが媚びる自分を許せないようなところがある。

    • 7のまとめ

    筑紫は当時まだ医師という職業への見方は報酬を得ることよりも自分を犠牲にしてでも人に尽くす倫理観の方を重要視する時代であったことを考慮する必要があると述べる。

    原、中西、深谷は遷子が地域医療に携わる医師として患者や家族と関わったことが彼の俳句(自然を詠んだものまで含めて)を育んだことを強調する。

    さらに深谷は遷子が後年まで大学の研究者の道への未練を持っていたと考える。

    は職業人として患者に関わるときの遷子の態度や信条に注目し生真面目、優しさ、温かさ、正義感、潔癖などの一方で人間嫌いであったことを挙げる。

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