戦後俳句を読む(第17回-2)―テーマ:「風」その他―

―テーマ:「風」その他―

  • 成田千空の句/深谷義紀
  • 永田耕衣の句/池田瑠那
  • 堀葦男の句/堺谷真人
  • 戦後における川柳・俳句・短歌/兵頭全郎
  • 三橋敏雄/北川美美
  • 楠本憲吉の句/筑紫磐井
  • (戦後俳句史を読む)「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会⑧(仲寒蝉編集)
    出席者:筑紫磐井、原雅子、中西夕紀、深谷義紀、仲寒蝉(司会)

  • 成田千空の句/深谷義紀

    田仕舞ひの後杳として北吹けり

    千空作品の中で最も多い風の季語は「北風」である。秋風(およびその派生季語)はまだしも、春や夏の風の作例は極めて少ない。津軽の五所川原に生きた千空だから、当然の結果と言えるかもしれない。

    さらに、北風を季語とする作品のうち相当数(8句を数える)は第1句集「地霊」所収のものであり、それ以降の句集では各々数句のみである。帰農生活も経験し、また居住環境も厳しいものがあった時代において「北風」は生命や生活の安寧を脅かすものとして身近に意識せざるをえないものだったのだろうが、インフラを含め生活環境が改善していくに従い、「北風」がもたらす脅威の切迫度が低下していったとみるのは穿ち過ぎだろうか。

    さて、掲出句は第2句集「人日」に所収された作品である。中七の後に切れがあり、米の収穫が終わった後、ある男(或いは一家)の行方が知れなくなったことと冷たく吹きつける「北(風)」との取り合わせから成る句である。なぜ行方知れずとなったのか。一家挙げての離農も考えられるが、まず想起したのは出稼ぎに行った男の失踪である。

    かつて、雪に閉ざされる寒冷地の農閑期で、出稼ぎは不可欠だった。そうしなければ、生活が成り立たなかったからである。だが、出稼ぎにはやるせない思いがどうしても付きまとう。家族を置いて都会に働きにいく男たち。一方、農村に残された家族たち。どちらも辛く長い冬を過ごさなければならなかった。また、出稼ぎが契機となって人生が狂い始め、家族の崩壊や離散につながることもあった(注)し、そうした事態が社会問題化したこともある。「出稼ぎがなくても雪国で暮らせるように」と日本列島改造論を唱え、地方での公共事業を大幅に増やしたのは、やはり雪国出身の田中角栄である。

    そうした大盤振る舞いの甲斐もあり、出稼ぎは徐々に姿を消していったという。だが、千空の暮らした津軽地方ではまだ出稼ぎは続いていたのだろう。千空の後の句集には、次のような句もある。

    もの言へば出稼ぎのお父(ど)冬帽子   「白光」

    津軽から出稼ぎが消えたのはいつの頃だったのだろうか。

    (注)こうした題材を採り上げた例として、同じ青森県出身の作家三浦哲郎の小説「夜の哀しみ」が挙げられる。


    永田耕衣の句/池田瑠那

    風吹けり茅花野行けば臓腑にも

    「風吹けり茅花野行けば」。忽ち、無数の白銀の花穂が春風にきらめき揺れる、美しい景が胸に広がり、茅花の柔らかくもしなやかな感触、穂を噛んだ時の甘みの記憶が生き生きと甦る。陶然と読み下そうとしたところで、下五「臓腑にも」――これが、茅花野を歩む者を躓かせる石塊のように、ごつんと、読む者を立ち止まらせる。

    赤黒く生温かい「臓腑」。その一時も休まぬ働きによって我々は生かされているのだが、健康な人間は普通、そのことを忘れて暮らしている。茅花野を吹く風は思いがけずその臓腑を直撃し、命というものの、本質的なのっぴきならなさを読者に突きつける。

    そう言えば茅花という花の名の由来は、

    「つ【傍点】はち【傍点】なり。その草、血の付きたるやうに赤き所はべるゆゑ、茅をち【傍点】と訓ず。はな【傍点】は針なり。唱へよろしきによつて“つばな”といふ。」『滑稽雑談』(正徳3年)

    と説かれている。「針」の印象は刃物、槍や刀に通じる。ふと、茅花の花穂ひともとひともとが血に濡れた刀剣のように思われ、安らかこの上ない茅花野と、血腥い合戦場が二重写しになる。少々飛躍が過ぎるようだが、しかしこの茅花野、過去のどこかで本当に戦場だったことが――、なかったとも限らない。風吹く茅花野を歩めば、「サムライ」を生きていたあの日、一瞬の隙を突いて、おのが脾腹を貫いた槍の感触が甦って来るようである。「臓腑」を刺し通され、斃れた自分の骸は兵馬に踏み付けられ、鴉に突かれ、骨も「臓腑」も「風」に曝されて、長い時間をかけて土に還って行ったことだろう。そんな情景を思いながら掲句を読み返せば、一句が「自らの風葬」を暗示しているようにも読めて来る。自
    分が野ざらしの骸となる様を思う、となれば芭蕉の「野ざらしを心に風のしむ身かな」も思い合わされるが、掲句には芭蕉の句に漂うような悲壮感は淡く、むしろ飄々とした所が持ち味となっている。

    茅花野を歩み、臓腑に吹く風を感じる。それは生きながらにして「自分が殺され、風葬される」疑似体験をすることのように、私には思える。考えようによっては、何ともグロテスクなイメージであるが、常々生と死を表裏一体のものと観じている耕衣にしてみれば、こんな発想は存外自然なものなのかも知れない。却って、こうした死の先取り感覚を一種のカタルシスとして、自らの生命を日々新たに、より充実したものにしていたようにも思えるのである。(昭和30年刊『吹毛集』より)


    堀葦男の句/堺谷真人

    蟹生まる諸樹(もろき)うなずく瀬のほとり

    『山姿水情』(1981年)所収の句。3年後、『朝空』に再録されたときに「うなずく」が「うなづく」に改められている。

    山深い渓谷。明るい瀬々には潺湲たる水の音がひびく。そんな浅瀬のほとり、湿った土の上に小さな沢蟹がひょっこりと姿を現した。その甲羅は柔らかく、か弱い。さやさやと吹く風の中、新緑をまとった木々は互いにうんうんと頷きあうようにゆれている。まるでこの幼い生命をうべない、見守る先輩たちのように。

    湿潤な日本の気候風土には多様な生物相が息づいている。国土の約7割が緑に覆われた先進国など世界のどこにもない。ゆたかな樹木と土壌によって高い保水力を備えた日本の山々はそれ自体がとてつもない貯水量を誇るダムといってよいのだ。

    葦男の見た沢蟹はそのような環境を象徴する生き物であった。風にゆれる諸樹とは「多くの木々」であると同時にまた「さまざまな種類の木々」でもあるに違いない。

    縄より窶(やつ)れて竜巻あそぶ砂礫の涯  『火づくり』

    かつてメキシコの荒ぶる竜巻に挑んだ葦男が、今は日本の新緑の木々をやさしく頷かせるそよ風に目を細めている。これら二つの作品を並べて読むとき、彼我の風土の気の遠くなるような懸隔に改めて気づかされるのである。


    戦後における川柳・俳句・短歌/兵頭全郎

    かの風の生れし葦は今日も折れぬ  片柳哲郎(1964年 黒塚)
    風の夜は風の化身のお前たち    同

    二度目登場いただいた片柳哲郎の句であるが、おそらく今の自分にとって読み易い、あるいは読み応えのあるものなのだろうと思う(もちろんテーマの言葉が当たる偶然もあるが)。先にも書いたが、花鳥風月の扱いは川柳と俳句ではかなり違う。川柳での「風」は気候・季節の匂いというより、動きであり力の象徴としての意味合いが強い。葦原を吹く風を感じながら「かの風の生れ」た所ととらえた、おそらく一本の「葦」の立ち姿を見つつ「今日も折れぬ」というたおやかさと生命力、さらには「かの風」が大空を闊歩する力強さを表現している。元気いっぱいに駆け回る子供とそれを見る母親のすがたを重ねることも出来るだろう。二句目、相米慎二監督の映画『台風クラブ(1985年)』を思い出した。句の作られた60年代といえばまだ、台風などが近づくと雨戸を釘で打ち付けて準備していたと聞く。電力も不安定なこの頃の「風の夜」の得も言われぬ恐怖感。しかし子供にとってはそのドキドキが胸の高鳴りとなって、何とはなしの期待感とか興奮状態に変化することがある。「風の化身」はそんな子供たちを見る目線だろう。これを「お前たち」と感じているレベルが読者にどう反応するかが、この句の肝となる。もちろん親の目線にレベルが合いやすいと思うが、『台風クラブ』での担任教師(映画ではこの教師の無責任さから台風の近づく学校に閉じ込められた中学生たちが乱痴気騒ぎで一夜を過ごす)から見た「お前たち」への感情を想像しても面白い。当然この読みは、作句時期とのズレから本来は無効であるのだが。

    火の翼もてる言の葉秋の風  野見山朱鳥(1962年 運命)

    俳句における風は、私の印象では主体にはならずに、匂いとか流れとかいう背景になる。「ペンは剣よりも強し」という言葉があるが、「火の翼もてる言の葉」とはまさにこんな感じか。「秋の風」はこの先にある冬を予感させる冷たい風だが、時として火の勢いを強める乾いた風でもある。作中主体とその周辺(世間)との関係性と読んだが、ここに詠まれた風はやはり流れ移ろう存在のように感じる。

    かへりみて風の寂しき起き伏しも吾が裡にして低き亜麻畑  安永蕗子(1962年 魚愁)

    解説に「前衛短歌」の文字がある。かなり抽象的表現を短歌に持ち込んだ作者のようだ。寒い地方で栽培される「亜麻」はリネンの原料となる繊維をとるため北海道で広く栽培されていたが、60年代半ばに化学繊維の台頭で栽培されなくなった(現在は食用油として再び栽培されている)そうだ。さて、その「亜麻畑」を「吾が裡にして低き」と詠んだ作者。寒冷地・高級繊維・農地の縮小…これらを念頭に置きながら「かへりみ」たとき、そこにある「風」の「寂しき起き伏し」を「吾」と重ねて抱いた感慨とすれば想像しやすい。ここで書かれた「風」は、どちらかというと川柳的に主体として扱われている。上の五七五と「低き亜麻畑」とは「吾が裡」で等しく繋がれているが、おなじような事柄を表す暗喩ふたつをひとつの歌に収めたことで、当時には却ってその意を読み取りにくくしていたのかもしれない。川柳の目で読むと、上の五七五はほぼそれだけで川柳としてくみ取れる。

    今から5~60年ほど前の作品を見る上で当時「前衛」といわれたものを読むに当たっては、それ以前の価値観を知らないと何に対する「前衛」かがわからなくなってくる。特に短歌を考えると平安の頃より脈々と続いてきた変遷の中でみる「戦後」という時点と、川柳の250年ほどの積み重ねの中でいう「戦後」とには確実に違いがある。その中で「前衛」と呼ばれたものが単なる亜種になるか、その後の支流あるいは本流へと変わるものなのか。当時の作者はどれほどの自覚を持ってその「時代」を感じていたのか。そんなことを考えていると、現在の作家はどれくらい「今」を感じながら作品に向き合っているのだろうと思ってしまう。


    三橋敏雄の句/北川美美

    新聞紙すつくと立ちて飛ぶ場末

    この句が作られたのは昭和33(1958)年(『まぼろしの鱶』収録)なので今から53年前になる。『名句の条件』(アサヒグラフ増刊・昭和63年7月20日号)での楠本憲吉との対談の中で敏雄自身、「名句の決定は最低100年かかる」と定言している。敏雄の設定する殿堂入りまであと約50年。中間地点として考証してみたい。

    まず「場末」とういう舞台設定。一昨年のあるシンポジウムで司会進行役がこの句の「場末」を「バマツ」と声にしていて驚いた。シャープ電子辞書の中の『やっぱり読めそうで読めない漢字』には、「場末」が入っていた。現在、使用頻度が少ない言葉である可能性があり、「バマツ」とは、どういう場所を想像していたのだろう。「場末」といえば、「スナック」。「酒場」の形容で用いられる例をみる。「場末」は、街外れ、末枯れの意味と同時に「落ちぶれた」「恨みがましい」感もあり、悲しいエレジーが伝わる。俳諧味は充分である。この句の「場末」には世紀末のような緊張感や危機感がありハードボイルド、暗黒なイメージを抱く。どこからか、歌謡曲(@美空ひばり・ちあきなおみ)、シャンソン(@エディット・ピアフ)、ジャズ(@マイルス・デイビス)が聴こえてきそうだ。やはり「バスエ」と読みたい。絶望感漂う場所でありながら、どこか摑み切れない言葉であることも確かだ。

    続いて主役である「新聞紙」。捨ててあるものと仮定できる。金成日の死去を掲げる新聞各紙、「われわれは99%」のデモを報じるNew York Times、盗聴疑惑で廃刊に追い込まれたThe News of the World 等々、銘柄にこだわる必要はないだろう。一方的かつ不特定多数の受け手へ向けての情報を印字したエコロジカルな紙は、世界のどの末枯れた街角にも存在する。身近なマスメディアを生き物のように俳句の中で立ち上がらせたことに驚きが生まれた。まさしく詩の「身体性」である。

    社会を垣間見ることのできる紙がすっくと立ち上り飛んでいく。「場末」にも関わらず、「すくと立つ」が妙に健康的である。末枯れた路地からクラーク・ジョセフ・ケント(@スーパーマン)が立ち上がって飛んでいく、あるいは、紙に代わるインターネット、電子書籍の普及予言にも思える。そして実際に「新聞紙」が生き物のように「すく」と立てば、それは恐ろしい光景である。新聞紙を「捨てられるもの」と考えれば、男達を震撼させた映画・『危険な情事』の中の不倫相手である女が復讐に行くサイコサスペンスすらも連想する。

    戦争が廊下の奥に立つてゐた 白泉

    敏雄は「戦争」でない主体(「新聞紙」)を無季(「場末」)の中で「立たせた」ということか。白泉の有名句に多少の糸口を発見したような気休めを覚える。

    新聞紙は風を受けなければ、立ち上がることもなければ飛んでいかない。それにふさわしい時期、すなわち年末、冬のイメージがある。場末の街に見るのは、枯葉、ゴミなどが冷却するアスファルトに吸い付きながら這うように吹かれる風景である。新聞紙が風を受けて本当に立ち上がるのだろうか。しかし立つと思えるのである。リアルだと読み手に思わせる。意表をついた取り合せが説得力をもつのは、「新聞紙」に置き換えた社会という現場に対する批判精神があるからだろう。

    2011年の日本の場末にすっくと立つのは戦争でも新聞でもなくブルーシートである。53年経過する句の着地点はどこなのか。読者を混沌と惑わせることが敏雄の狙いなのだろうか。


    楠本憲吉の句/筑紫磐井

    蘭は絃、火焔樹は管、風は奏者
    曇り日の風の諜者に薔薇の私語

    「風」の句と言うとこのような観念的な句にこそ憲吉の特色があるように思われる。松風や春風のような俳人好む風とはいっぷう違う「風」だ。しかし残念ながら、この2句とも前回の「鳥」で取り上げてしまったので、舞台裏が見えすぎてしまう。そこで、風に縁のある(鳥にも縁があるが)飛行機を取り上げて見る。

    翼重たくジャンボジェット機も花冷ゆる
    「いやな渡世」雲上を航く梅雨の航

    第1句は昭和50年。『方壺集』より。流行に敏感な憲吉らしく、ジャンボジェット機を取り上げた極めて初期の句ではないかと思う(昭和45年7月に日航で就航している)が、これは素材だけが新しく、内容的に憲吉らしさがそれほど出ているとは思えない。

    これに比べて第2句はいかにも憲吉らしい。昭和51年の作。「いやな渡世」は勝新太郎主演の『座頭市』(昭和37年第1作、40年代にブームになる)で語られるセリフだが、相変わらずそのパロディ。憲吉自身の俳人ともタレントともつかぬ行き方は確かに「いやな渡世」というべきかもしれない。俳人の中の『座頭市』とは、カッコつけたがり屋の憲吉のポーズのようである。

    さてこの「戦後俳句を読む」を始めるにあたり、旧知の俳誌「都市」主宰の中西夕紀氏に参加を勧め、桂信子を論ずると言うことで了解をもらったのだが、都合により「詩客」への執筆は辞退された。主宰誌の編集が忙しすぎたからだ。ただその時の約束は、しばらくして「都市」で桂信子論の連載を始めたから、約束の半分は果たされたとみてよいだろう。「戦後俳句を読む」はどこで行ってもらってもよいのだ。

    その中西氏から、私の取り上げている楠本憲吉の批判が来る。憲吉と桂信子は日野草城門のきょうだい弟子であり、そこで私の勧めで楠本憲吉全句集を買って読んでみたのだが驚いたらしい。憲吉の句は男には面白いかもしれないが、まったく女性を馬鹿にしており、女の敵である、というのである。例えばこんな句。

    呼べど応えぬひとまた殖やし夏去りぬ
    夏靴素直に僕を導く逢うために
    風花やいづれ擁かるる女の身

    しかしその後、新潟から出ている「喜怒哀楽」と言う雑誌で中西氏は3回にわたって「クスケン」の俳句鑑賞を連載、編集部によると「毎回大反響」とか。この3句も丁寧に鑑賞に取り上げていた。最終回では、「男の恋歌を長年詠ませた正体を、ダンディズムと言う人もいる。クスケン亡き後、女より、男にもてているのではなかろうか。」と結んでいる。どうやらクスケン俳句は人を元気にするらしい(それも私などより上の世代)。私の僻目でいえば、また楠本憲吉ファンが増えたのではないかと思うのである。


    (戦後俳句史を読む)「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会⑧(仲寒蝉編集)

    • 8.病気・死と遷子について。

    筑紫は〈これこそみなさんに聞いてみたい〉と言い、遷子の死についての反応を〈①応召を受けての戦場での死の対応、②病気となって最後は死を免れないと自覚した時の死への対応〉、の2点に分けて考える。

    ①このような死の危険は普遍的ではないとしつつ、死に対して臆病な遷子の言動を紹介する。「馬に乗っては行軍したが、敵弾が飛来すると、馬から降りるのが実に早かった。こわいのですね。気がつくともうまっさきに降りているのですよ」(堀口星眠聞き書き)「生来臆病な私にとっては、小銃弾の音さへもあまり有難くはありませんでした」(遷子の回想)。

    ②〈無神論者からすれば、次の世や神の国は存在しないのだから、死はあらゆる世界の崩壊である〉から〈この崩壊寸前の世界の最後の瞬間を、たった一人孤独に耐えてどう見るか〉が遷子だけでなく我々にとっても問題と言う。その意味で〈我々は、遷子の俳句を語っているつもりで、実は自分の死に臨む姿勢を考えているのである。「微塵」が美しいかどうかではなくて、美しい言葉を吐きたいと思った遷子の心理を考えてみたい〉と述べる。

    は突然に来る戦地での死と異なり、病気の場合は一歩一歩死に近づくので〈自分だけの孤独な心の揺れがあ〉ると述べる。〈病状に一喜一憂しつつ、その折の心情に正直な句が並ぶ中での「冬麗の微塵となりて去らんとす」は、意志のかたちを取った虚無なのか、それとも静かな覚悟か、今も分か〉らないと言う。原句「何も残さず」から「微塵となりて」への推敲については〈言葉によって心身の昇華を願った結果〉かと考える。

    中西は自身の病気(生来の胃弱、戦中戦後の肋膜炎、死に到った癌)という意味でも医師として毎日病気の人を治療していたという意味でも〈遷子にとっては病気は常に身の回りにあった〉と述べる。

    だからと言って病気と死に慣れるものではないが〈自身の死期は他人には言わなくても、分かっていた〉、だからこそ「冬麗の微塵となりて去らんとす」という辞世を用意できたと言う。

    〈死によってすべてなくなるという発想は、再生も輪廻もない、無宗教のものである。死を学ぶことを医師として良かれ悪しかれ患者を通して体験的にしていた〉と述べる。

    深谷は患者の病気や死を対象とした作品は医師俳句として結実し、自身の病気については晩年の闘病俳句となった、と言う。「冬麗の微塵となりて去らんとす」については〈文字通りの絶唱であり、まさに古武士の最期を見るような感すらする。あまりにも見事な人生の幕の引き方であり、最後までその美学(生き様)を貫徹した〉と述べる。

    は『山河』の闘病俳句を読めば諦めたり強がり言ったり煩悶したり、心が揺れ動いているがこれは人間として自然で、〈冬麗の微塵の句になってやっと覚悟が定まったかに見える〉と言う。ただ遷子は揺れ動く自分を冷静に見て「写生」しており〈患者や身内の病気・死に対しても自分のそれに対しても冷徹な姿勢はぶれることがない〉という意味で〈極めて科学者的な目を持った人であった〉と述べる。

    自分を「無宗教者」と決めつけ、信仰を持たず、「死は深き睡り」に過ぎないと考えていた遷子は死後故郷の自然と一体化すると思っていたのではないかと推測する。

    • 8のまとめ

    遷子は生涯に少なくとも2度死に直面している。

    最初は応召されて戦地へ向かった時であるがこれに触れたのは筑紫と原のみであった。これに関しては誰もが経験するものとは少し異なり、ことに現在のような平和な日本ではあまりピンとこないものであろうが忘れてはなるまい。筑紫の紹介する死に対して臆病な遷子の言動は決して誰も笑えないものである。

    一方、癌を患ってから死に至るまで遷子が思い悩み、考えたことはほぼそのまま俳句として結実しており、それこそが我々の心を打った。この死を前にした時の揺れ動く気持ちは誠に人間的で原、仲がこの正直さに注目している。また病気自体は医師遷子の周りに常にあったものだが、中西はだからこそ自身の死を覚悟で来たと述べ、仲は患者や身内の病気・死に対しても自分のそれに対しても冷徹な姿勢はぶれることがなかったと強調する。

    死に対して無宗教者、無神論者であった遷子の虚無的な死生観についてはほぼ全員が触れている。筑紫はそこから我々のうちやはり無神論者である者が学ぶものが多くあると考える。

    また辞世と言われる「冬麗の微塵となりて去らんとす」を全員が挙げており、筑紫は美しい言葉を吐きたいと思った遷子の心理に注目、原は推敲の過程から言葉によって心身の昇華を願った思いを忖度、中西は患者から死のあり方を学んだ末の覚悟と言い、深谷は文字通りの絶唱で古武士の最期を見る感があると述べ、仲は故郷の自然と一体化する思想を読み取っている。

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