戦後俳句を読む(第18回-2)―テーマ:「月」その他―

――テーマ:「月」その他――

  • 成田千空の句/深谷義紀
  • 永田耕衣の句/池田瑠那
  • 三橋敏雄/北川美美

  • 成田千空の句/深谷義紀

    たたみ一畳亡骸を乗せ月のぼる

    第1句集「地霊」所収の作品である。

    千空に月の句はさほど多くない。生涯の句集6冊に収められた句は20句に満たないであろう。派生季語に目を広げても、僅かに以前(於第2回)採り上げた、

    墨磨れば墨の声して十三夜   『白光』

    など数句があるのみである。
    しかも、半数近い8句が第1句集の「地霊」に集中している。
    その時期の作品は、掲出句や、

    直截月の光の病ここに

    のように、どちらかと言えば重く暗い雰囲気のものが目に付く。また描かれた月は冷たい存在、或いは畏敬すべき対象になっているのである。

    それが時代を経るにしたがって、

    三日月を天上に鳴く恋蛙      『天門』
    水の香のまんまる月夜母子像に   『忘年』
     

    などのように明るい作風の句に変わっていき、月は親しみやすい存在に転化する。
    その変化がどこから来たものか確たることは不分明であるが、この変化は、千空の作品世界において、鋭敏な感性が句作の原動力となった青壮年期から、句業を重ね、さまざまな人生経験を経た、ある種の懐の深さを見せる句風への転換を示す典型例だと思えるのである。


    永田耕衣の句/池田瑠那

    枯草の吹き散るやかれこれ満月

    「月」を詠んだ耕衣の句と言えば、良く知られるのは初期の「月の出や印南野に苗余るらし」「月明の畝あそばせてありしかな」(『與奪抄』所収)等であろう。どちらも月としなやかな若苗、月と豊かな黒土との瑞々しい交感が感じられる佳句である。一方、掲句は昭和63年刊『人生』所収のもの。「月」を詠んで先に挙げた二句とは対照的な句である。

    乾き切った枯草が、風に吹き飛ばされて行くという、いやが上にも寂寥感漂う地上の景に、取り合わせられた天上の月も「かれこれ満月」――、だいたい満月、おおよそ満月というどこか突き放した詠まれようである。月に対して然程の思い入れはなく、たまさか見上げたらおおよそ満月に近い形だった、という風な。(これには太陰暦から太陽暦への移行から久しく、日常の中で月の満ち欠けを意識しなくなったことも一因があるか)かれくさ、かれこれと響きは好いのだが、その乾いた響きが却って冬の空気の冷たさを伝えるようである。

    そう言えば、日本神話において人間は「葦原中国【あしはらのなかつくに】のうつしき青人草」として登場する(『古事記』上)のであった。掲句の枯草を、既に命を失った青人草の喩として読むならば、何やら人類滅亡後の世界に寒満月が照り映えているといった景が浮かぶ。誰にも仰がれない月――。だが、忙しない現代人の多くは命ある青人草でありつつも、既に月をふり仰がない者となっている。

    『與奪抄』に収められた月の句の制作時期は昭和18年頃、今から思えば月世界に人々が幻想を抱けた最後の時代であったかも知れない。戦後の科学技術の発達は不可能を可能にし、生活を格段に便利にした反面、自然界の神秘を容赦なく暴いて行った。月面世界は隈なく写真に撮られ、また、人間の足に踏まれるところとなった。月への畏れや親しみを失った青人草は、月神から見ればもはや枯草と同じき者なのかも知れない。何気ない写生句と見えて、 月と人間との関係性の変容をも浮かび上がらせる句。(昭和63年刊『人生』より)


    三橋敏雄の句/北川美美

    月夜から生れし影を愛しけり

    優雅で謎めいている。

    月夜から生れた影、それは物語のはじまりのようだ。

    敏雄に恋、愛の句を見つけるのは難しい。上掲句は、人に恋するのではなく、影を愛する句であることが憎い。掲句は『まぼろしの鱶』に収録される。制作は昭和20年代、敏雄25~35歳の頃である。

    月影ではなく、月夜から生れた「影」である。それをどう捉えるのかを読者に委ねるしかない俳句形式の短さはまさに宿命的である。ナルシストと思える敏雄がもう一人の自己を愛すること。月夜に蘇った断ちきれぬ想いを投影する影と読めようか。

    人は深い傷を負った頃の自己の影に突然遭遇することがある。月夜の艶めかしい光の中で忘却の彼方へ置き去りにされた影が生まれたかのようだ。蘇った影さえも愛すべきこととして捉える余裕。穏やかで平坦な時間。「生まれし影」に雅が、そして「愛しけり」に切ない余韻が残る。

    映画『過去のない男』(2002年/監督・脚本・制作:アキ・カウリスマキ)の中で暴漢に襲われ記憶を失った主人公が飲んだくれの男に「過去なんてなくても心配ない。人生は後ろへ進まない。」と言われる。様々な境遇、様々な想いを抱えつつ登場人物達は日常を淡々と生きる。リセットしたいとおもいつつ人は簡単に過去から解放されない。

    生まれてしまったものは生きてくしかない。過去から現れたもう一人のわれの影と読みたい。人間の悲哀、愛らしさが感じられる。青年期の敏雄の高い精神性が伺える句である。


    堀葦男の句/堺谷真人

    良夜疑わず鯉こんじきの頭を揃へ

    『過客』(1996年)所収。「唐招提寺観月会」との前書きを持つ句。

    葦男の歿後、彼を欽慕する関西俳人たちが創刊した「一粒」no.1(1997年3月)には、1983年1月から1993年4月に至る10年余の詳細な年譜が掲載されている。この年譜を読み込んでゆくとたしかに1989年(平成元年)9月の条に唐招提寺観月会の文字が見える。だが、ここで注目すべきはその直後に続く(俳句研究二年十月号九句)という記述である。「俳句研究」平成2年10月号にこのときの作品9句を掲載の意。つまり葦男は、平成元年9月の奈良旅行を題材にした作品をちょうど1年のあいだ寝かせておいてから「俳句研究」誌上に発表していたことになる。

    実際、生前の葦男を知る複数の人々の証言によれば、晩年の葦男は常に1年分の作品をストックしており、商業誌の需めに応ずる際などには前年同時期に詠んだ作品を寄稿することが多かったという。締切日オーバーや欠稿等で編集者に累が及ぶのを嫌うプロ意識のなせるわざか、それとも「句日記」と題して「ホトトギス」に1年前の作品を連載し続けた高浜虚子の顰みに倣ったものか。真意は不明であるが、「11月某日までに新年詠30句」などと注文して平然としている月刊誌の無体な要求に対する、葦男一流のささやかな抵抗だったのかもしれない。

    そんな気がしたのも、冒頭の句に出会ったからである。作者は金色の鱗をまとった見事な鯉が頭を並べて悠々と泳いでいるさまを見て、まことめでたい気分に満たされている。そして中秋の名月の照りわたる素晴らしい夜の到来を確信している。しかし、決して今年の良夜を目撃したわけではない。「良夜疑わず」という表現は、今年の十五夜の月を未だに観ることなく「良夜想望俳句」を発表するのだという葦男の微妙に屈折した心理の正直な反映なのである。ある種の俳人たちは、平素、季感や実感を後生大事に云々し、眼前嘱目の景物との実存的邂逅をひどく重視する。いわば「制作時点主義」の信奉者なのである。そのくせひとたび活字媒体からの要請があれば、たちまち「掲載時点主義」に宗旨替えをして恬然としている。この句の切っ先はそのような俳壇特有の「隠蔽された大矛盾」にも果敢に突きつけられている。

    晩年、葦男は有季定型に回帰したとも評される。しかし、季語に対する身構えを解き、季に寄り添い季に遊ぶかに見える一方、「良夜疑わず」の句に隠された鋭利な仕込杖の如き批評性はなお健在であった。


    戦後における川柳・俳句・短歌/兵頭全郎

    泣きに出て月夜はいつもいいきもち  笹本英子(1951年 句集詠ふ人々 岡橋宣介選)

    「句集詠ふ人々」は、せんば川柳社編者の岡橋宣介が創刊3周年を期して刊行1年目の掲載句から精選したアンソロジー。当時「川柳非詩論」が盛んに論争されていて、「柳樽の価値を充分に認めつつ、その川柳精神を現代感覚をもってつかみとろうとする、文芸性を重視した立場を取った。これは新興俳句運動に加わった経験を持ちながら川柳を選んだ、主宰者・岡橋宣介の理念でもある。(大西泰世氏の評より)」という流れの中の句である。この句には特別な読みは不要であろう。

    前に戦後の貧しさのとらえ方について川柳と俳句の違いを挙げたが、三詩型の中で早々に戦後感を切り捨てたのは川柳ではなかったか。もちろん特殊な資料(毎年1作ごとの年度別のアンソロジー)を基にしているので偏りはあるのだろうが、特に短歌はこの後も戦争(反戦)や思想的な語句が多く続き、俳句にも戦争とか革命とかの言葉が散見される。一方川柳は50年辺りから一気に単語レベルでの語句に軽さを増し、貧しさは残るものの、こと「戦争」についてはあえて「書かない」という選択をしたのではというほど、その匂いを消している。先に挙げた「現代感覚」を川柳が書くとき、「過去に~~がありまして」から始めると「現代」に間に合わなかったのだろう。とにかく今、目の前にあるところから書き始めたのが当時の川柳精神といえるのかもしれない。

    月下の宿帳
    先客の名はリラダン伯爵  高柳重信(1950年 蕗子)

    「リラダン伯爵」は19世紀後半に活躍したフランスの劇作家で神秘趣味、恐怖描写に特色があるとか。今回のテーマ「月」は、和洋関わらずに神秘的な意味合いが強い。虚構の世界の宿帳に書かれた名前が月下の光にぼんやりと浮かぶ様は、まさに神秘的。この句での多行書きには、宿帳をめくる時間経過が含まれているということだろうか。「月光」は秋の季語らしいが、ここでは季語としての蓄積よりも「リラダン伯爵」がもっている作風などの後ろ盾が句意に大きく寄与している。日本で翻訳されたのが1920年頃かららしいのだが、当時どの程度知られていたのか(今もそれほど?)は不明である。ただこの部分での知識の差は当然読みに影響するだろうが、「月下の宿帳」という演出だけでこの句はある程度まで仕上がっているともいえる。

    わが家のくらし一日ごとの勝負ぞと胸せきあげて月の下ゆく  山田あき(1951年 紺)

    この歌集は終戦を契機とした女性歌人の「心の噴出」と解説にも書かれているが、戦後の貧しさのドキュメンタリーのようだ。このようにストレートな感情表現の中で書かれる「月」とは、神秘性よりも「高み」の象徴と感じ取れる。先の「月下の宿帳」という神秘性よりは、その前「泣きに出」た先の「月夜」の方に近い。短歌の強みは「月の下」にいく前に「胸せきあげて」というベクトル付けができることだろう。つまり川柳では「月夜」という設定に「泣きに出て」という一方向の動きしかないが、短歌では胸からこみ上げるという上方向の動きと「月の下」という下向きの視線がぶつかることで感動を強めている。同じように暗闇に浮かび優しく照らす「月」へのアプローチが、詩型(言葉数)の差で明確に現れている。


    戦後川柳/清水かおり

    牛小屋に月光美しき浪費  橘髙 薫風(1926年~2005年・大阪)

    句集『古稀薫風』所収

    昭和の中期頃まで畜産業とは関係なく牛や鶏を飼っている家が多くあった。旅館を営んでいた薫風の視線は町が街へと変貌していく姿に注意深く注がれていたのだろう。掲出句は家畜の飼養農家が町のあちこちにあった頃のなごりを留めている。句集ではこの句の前後に「妻若し水道いっぱいにひねり」「菊の露ふくんで母の針仕事」など、家族を詠んだ句が散見するため、薫風が30代後半か40代前半の頃の句と推測される。川柳の資料は大方が句集である。過去の同人誌などはなかなか目にする機会もないので、詠まれた年代は大まかに想像するばかりである。

    昭和30年代後半から始まった著しい経済成長と大量消費ブームによって、40年代に日本のGNPは世界で3本の指に入るようになる。地元大坂では世界万国博覧会も開催され日本全土が怒涛のように動いていた。そうした社会背景の中にひっそりとある「牛小屋」。この句、牛小屋に牛はいたのだろうか。いなかったのかもしれない。いずれにしても降り注ぐ月光は、人間の営為に関係なく美しかったのである。ここでは「浪費」の句語が作者の感慨も含めながら、かすかな社会批判の姿勢を匂わせている。一方では、牛の居なくなった小屋に満ちてくる月光自体を「浪費」と呼び、屈折した心理も表出していて、なんとなくノスタルジックな雰囲気を纏っている。時代を切り取りながらも、柔軟な印象の一句だ。

    砂丘有情お前と月の出を待とう
    極月やわが父の死を立話
    月光に眠れぬ新しい墓石
    昼の月瓢湖に映る力なし
    月天心男が出会うたのは男
    月赤しわれも傾く三宮

    他に月の句語を使った句を句集から引いてみると、どれも私性の濃い句のように思う。この頃「私」を詠むことは川柳の主流になりつつあった。

    句集『古稀薫風』は平成7年に発行された薫風の最後の個人句集で、見開きは師であった麻生路郎の「視野無限 この言葉に尽く」という言葉で飾られている。薫風にとって「無限」とはこれ以上はない称賛の言葉であったのだろう。まだまだ書くのだという意志が伝わってくる。あとがきには、同じ関西の俳人、伊丹三樹彦氏の紹介によって沖積舎からこの句集が発刊されたとある。川柳のネットワークが全国的に機能し始めたのは近年のことで、作家個々の活動のほとんどが生活圏内であった時代、同じ地域で活動する俳人や歌人は今よりももっと密接な隣人だったのかもしれない。


    楠本憲吉の句/筑紫磐井

    月下美人展くや熟年めく恥らい

    「野の会」昭和56年6月号より。全句集には収録されておらず、『自選自解楠本憲吉集』に収録。

    日本的な季語である「月」はあまりにも日本的情緒のまとわりついているせいか、憲吉には名句が少ないようである。憲吉の句に「月」の句をまれに見ても日本的情緒を排除している句が多い。

    月爪のごとしこの恋泥のごとし
    残忍にひらく月下の恋いくつ
    羸痩わが胸に影して月の山毛欅

    一方で、「月」のつく「月下美人」というサボテン科の花には、憲吉の想像力を羽ばたかせるものがあるのか、題材としてしばしば詠んでいるようである。作品そのものも無理なく憲吉調を発揮している。

    妖と開き煌と香りぬ月下美人
    月下美人かっと目ひらき明日フランス

    掲出句に戻り、「熟年めく恥らい」という把握はいかにも憲吉らしいものがある。熟年になれば恥じらいがないのではないかという常識的な解釈は憲吉の取るところではない。若い女性の鈍感さを、憲吉ほどになるとよく分かっている。厚かましいように見える熟年女性に、ある瞬間、恥じらいの表情が素通りして行くことがある。それを妙と思っているのである。こうしたところに憲吉の独自性がある。

    最近のお笑いでいえば、一時、綾小路きみまろが中高年の女性をいじっていたのが、このごろはピースの綾部、オードリーの春日、ロバートの秋山などが熟女好きを芸にしている。楠本憲吉は20年早かったのだ、芸人としては。

    (修正)前回の、「戦後俳句を読む」(17-2)で、

    翼重たくジャンボジェット機も花冷ゆる

    をあげて、ジャンボジェット機を取り上げた初期の句(45年7月でJAL就航)と述べたが、この句は昭和50年の句であった。しかしこれに先立つ昭和46年の句に、

    秋暑しジャンボジェットが人吐きおり

    があったことを見落としていた。訂正し修正する。


    (戦後俳句史を読む)「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会⑩

    • 10.あなた自身は遷子から何を学んだか?

    筑紫は次の2点を挙げる。

    ①戦後俳句史をどのように構築したら良いのかということ。既存の戦後俳句史に対する新しい戦後俳句史観、すなわち「社会的意識俳句」時代のあとに伝統俳句の時代が新生したという流れ。――ここで詳細を述べるのは適当ではないが、はしょっていえば〈角川源義などの前衛俳句・現代俳句協会と対立した政治的な「伝統派」の主張者に対し、この時期そうした政治的な動きから疎外されていた草間時彦・能村登四郎・飯田龍太などが実践していった伝統俳句の新しい運動(「新・伝統俳句」といえようか)〉が起こったと考えられるが、それは〈「社会的意識俳句」のそれを精神的・内面的に深化させたものであったといえるかも知れない〉と言う。

    ②我々が死ぬときは残るものは何か。視覚も薄れ、論理さえおぼつかなくなっても意味など失った「ことば」だけが残る。〈だから俳人は死ぬ最後まで言葉にこだわる、亡くなる人で最後まで活動できるのは俳人ばかりだ〉と述べ子規と遷子の最期に触れる。

    さらに〈こう言っておきながらも不思議なのは、風景俳句、生活詠、行軍俳句、開業医俳句、そして療養俳句を離れて遷子の作品は不思議な魅力をたたえている〉と述べる。

    例として

    雛の眼のいづこを見つつ流さるる

    を挙げる。ユニークな画家である智内兄助(ちないきょうすけ)氏はこの句に触発され、作品「雛の眼のいづこをみつつ流さるる」を発表した(少し仮名遣いが違うが)。

    そこに描かれたおどろおどろしい少女の姿は、遷子の心の深淵をのぞきこむような不気味さをたたえている。さらにこの絵が坂東眞砂子のホラーノベルの傑作『死国』(四国高知のある村で起こる死者の怨念とよみがえりの物語)の表紙絵となっているのはさらに驚きだ。端正な遷子の像からは思い及ばない結末である。

    は〈いまだに捉えきれずに〉いると言う。

    中西は〈死の直前まで俳句を続ける精神力〉、〈自己の生き方の思想的部分を扱っていること、特に無宗教の身の処し方を描いているところ〉に感心し、真似はできないと述べる。

    深谷は遷子研究を始めて〈自分の想いを作品にしたいという気持ちが強くなった〉ことから〈自分の俳句の作り方が変わった〉と述べる。

    は遷子の冷徹な目が〈科学者と文学者という一見正反対の立場を結び付け〉、焦点がぶれることのない一貫性を以て医業と俳句の両方に接したと言う。その〈真摯に、ほとんど求道と言ってよいストイックさで対象に向かう姿勢は羨ましい程〉と述べる。〈学んだもの、自分も身につけたいものとしてこの「冷徹な目」を挙げたい〉と言う。

    • 10のまとめ

    筑紫は戦後俳句史の構築に関する示唆、俳人として死んだ後に何を残すかということを学んだと言い作者の思いもよらぬ所で後世の人間がその作品からインスピレーションを得るという幸福もあると画家智内兄助の事例を紹介する。

    は遷子をまだ捉えきれない存在と感じている。

    中西は俳句を死に至るまで続ける精神力、無宗教の身の処し方に注目する。

    深谷は作者の思いを俳句に表現するという作句態度に共感する。

    は医療にも俳句にも同じ「冷徹な目」を持って臨んだ生き方を学びたいと述べる。

    • おわりに

    所属する俳句グループも住居や職場などの環境も全く異なる5人が遷子という一俳人を研究し、その作品と生き様に感動し、『相馬遷子―佐久の星』が生まれた。今回その5人が再び集い、「遷子を通して戦後俳句史を読む」という試みを行った。

    遷子を読み込んだ人達ばかりなので遷子俳句の特徴や魅力については各人の主張を持ちながら、全員が殊に医師としての生活を詠んだ句(医師俳句)と晩年の療養俳句についてもっと高く評価されてしかるべきと考えていた。

    戦後俳句史を読むというテーマに即して言えば、遷子は孤高の作家でありその俳句世界は独特であるとの認識が大勢を占めたが、一方で「社会性俳句」の潮流とは別の実生活に根を下ろした「社会的意識俳句」とでも呼ぶべき傾向の句(医師俳句も含まれる)を遷子が多く残したことは同時代、またその後の同傾向の俳句を見直すことにつながるとの見方もあった。

    この座談会が従来の戦後俳句史からほとんど抜け落ちていた相馬遷子という清澄な星を星図の中に位置付けるのに多少なりとも貢献できていればと思うばかりである。

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