落書が紙幣にありて敗戦忌 土生重次
『花神現代俳句 土生重次』(花神社 1998年)より。
ときどき、書き込みのある紙幣をつかまされることがある。多くは、鉛筆の小さな字で、意味のわからない数字などが書いてある。金融業者かなにかの符牒なのか、或いは誘拐の身代金、いやそれだと犯人にバレバレだろ、と想像力が掻きたてられる。あきらかに電話番号をメモったらしきものもあるが。
この句の場合は、落書と言っているから、絵かなにかが描いてあったのだろうか。そんな目にあうような札であるから、新札ではないだろう。使い古されて皺や折り目のついた古札だ。こんな札を手にして、取り合わせで一句を作ることにしよう。落書された古札が呼び寄せるのは、暑さのイメージ――それも残暑のイメージだ。そして、その札を持って汗をぬぐっているのは、松本清張ドラマに出てくるような開襟シャツの、現代から見ればおじさんと言うべきか若者と言うべきかよくわからんまあどっちかと言うとおじさんに近い男性であろう。なんか昭和じゃないですか。そうなると季語は終戦記念日で決まりだ。
と言うのは、私のいつもの俳句の作り方なのだが、もちろんこの句が、こういう安直な発想で作られているとは思わない。
この句では、粗末に扱ってはバチが当たるとされる紙幣が、権威を失ってしまっているが、それは同時に紙幣に価値を賦与している国家の権威の失墜でもある。落書きをされたことで、紙幣がただの紙であるという本質が露呈してしまったように、戦争に負けることによって、自明の存在であった国家もまたその存在の不可思議さが意識されてしまった。この句における取り合わせと言えば、むしろ人間世界の約束事の不可解さと、それを焙り出してしまうような残暑の取り合わせと言えるかもしれない。
『花神現代俳句 土生重次』には、他に終戦記念日の句が二句ある。
敗戦忌肉屋は鋼で刃物研ぐ
炊飯器に粒のよく立ち敗戦忌
終戦ではなく、敗戦という表現を用いるところに、思い入れがあるのだろうか。作者は、敗戦直前の1945年7月に堺市の空襲を体験している。肉屋の句のまがまがしいイメージ、炊飯器の句の戦後の日常生活、いずれも取り合わせではありながら、敗戦の実体験への通路が確保されている。
歳時記を見ても、終戦記念日の例句の多くは、作者の実体験を感じさせる句である。ただ、全く知らない名前の人は、年齢もわからないわけだから、そのへんちょっと微妙であるが。1945年の8月15日から67年経つわけで、終戦記念日の季語としての用いられ方も変わって行くのだろう。