鳥葬のごと音楽を浴び母よ 冬野 虹
音楽は、具体的な空気の振動という物質性に依拠するが、時間を組織立てた抽象的な構造体である。いわば別次元の現実であり、そこにおいて「永遠」に関わる。
「鳥(の声)」と「音楽」、あるいは「鳥」と「あの世・魂」とのアナロジー(類推)であればどうということもない。
この句の見所は、音楽を浴びる身体を、そのまま他界への参入とみなした点にある。
そしてその身体は、語り手自身ではなく「母」のものだ。
「母」は今、天上の至福に浸っているのか、鳥たちについばまれる残酷な他界参入に戦慄しているのか。
そのアンビギュイティ(曖昧性)が、語り手の感情にもそのまま跳ね返り、愛憎いずれともつかない、憧れとも怖れともつかない重い手応えを句に含ませる。
「母」は語り手をこの世に送り出した通路でもある。
その「母」が「鳥葬」と「音楽」との飛躍・統合の中に取り込まれているのを見て、何とはなしに、未来派の詩人フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティの「アナロジーとは、遠く隔たった事物を結びつける巨大な愛以外の何物でもない」という言葉を思い出した。
この句の明るみは、モチーフも、その描き方も、この世ならぬ「愛」に浸されているところからきている。
句集『雪予報』(沖積舎・1988年)所収。