芝生 谷川俊太郎
そして私はいつか
どこかから来て
不意にこの芝生の上に立っていた
なすべきことはすべて
私の細胞が記憶していた
だから私は人間の形をし
幸せについて語りさえしたのだ
(詩集「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」(1975年刊)所収)
簡潔明瞭なこの書き出し。「どこかから来て」「不意に」「芝生の上に」突っ立っている人。このわずか三行のシンプルなイメージが、どれほど多くを語って、想像力を刺激することか。この「私」は、いつどこから来たのか分からない状態で、つまり「不意に」いきなりここに出現したかのようだ。まるで記憶喪失のように、過去の人生といったものからの断絶があって、いや、断絶といった言葉が担ってしまうドラマからさえ無縁の存在として、「私」という人は読者の前に提示されている。
しかも、立っているのは「芝生の上」だ。芝生。切りそろえられシンプルで人工的で日の光をあびる空間。庭木や石が自然を模して配置され、高低が日陰をつくり、湿度の高い日本的な庭の対極が「芝生」といえるだろう。作者、谷川俊太郎は当然、日本の伝統的な時間や空間から断絶した象徴空間として「芝生」を採用したに違いない。この作品での彼のシンパシーはあきらかに「芝生」にあるはずだ。「私」が立つにふさわしい場所だったのである。
もしかしたら、その断絶は、日本の歴史や伝統的な日本の感性、あるいはいわゆる戦後詩との断絶の意識だったのかもしれない。それは特定できないが、重要なのは唯一、谷川俊太郎という詩人が描く「私」が、「芝生」という象徴空間の上に立つのが相応しいと、作者に認識されていたということだろう。「私」は記憶喪失のように背負うべき過去を失って、しかし、「なすべきことはすべて」「記憶して」存在していたのである。
ここに「私」への肯定感覚が見て取れる。と同時に、「私」に対するまるで他人を見つめるような醒めた視線があることに注意したい。「細胞」という科学的視線。「人間の形」という「私」への客観めいた認識。そして冒頭から表明される、記憶喪失のような「私」の存在感。おそらくそこから読みとれるのは、「不意に」切り離されて存在してしまった戸惑いと孤独。自分の存在すら他人のように見ることしかできない寂しさ。といったものだと思う。細胞単位では「なすべきことはすべて」「記憶して」いようとも、「幸せについて語」ることができようとも、この人は寂しげに芝生の上にただ立っているのだ。