日めくり詩歌 自由詩 岡野絵里子 (2012/9/6)

日めくり詩歌 自由詩 岡野絵里子 (2012/9/6)

わたくし・広島  鈴木ユリイカ

わたくし・広島は白いキョウチクトウの花の 
隣の青いキョウチクトウの花にある 
わたくし・広島は歌を歌うと 
声は上の方にのぼっていく 
そして白い雲の下にある 
わたくし・広島の胸の上を六つの川が流れている 
橋の上をさまざまなことをくぐり抜けた人々が通る 
わたくし・広島は祖母の灰の上に 
横たわっている 
時に 少し苦しい 
わたくし・広島は息をしている 
わたくし・広島は白い雲の上からわたくしを見る 
わたくし・広島はまだ体のどこかが痛いときがある 
時々わたくし・広島は眠っているとき寝違えて 
はっとする わたくし・広島ははんぶん 
消えかかっているのではないだろうか? 
それから わたくし・広島は魚が泳ぐ川と海に触ってみる 
わたくし・広島はまだ女の子だ 
わたくし・広島は歌を歌うと 
声はどこまでものぼっていき 
それから雨になって降ってくる 
わたくし・広島は青いキョウチクトウの花の 
隣の白いキョウチクトウの花にある

something 15号
サムシングプレス   2012年 6月

 かつて井坂洋子氏が鈴木ユリイカ氏について書かれた解説に、こんな一節があった。「私は鈴木ユリイカの詩を読んでいつも感じることがある。口にだしてしまうと陳腐かもしれないが、あえて言うと、こうなると思う。『この人は、たいていの人が信じるのを諦めてしまった、生きていく上でなにかとても大切なことを信じている』」。

 読解が的を射ている上に、「なにかとても大切なこと」と言って、それ以上踏み込まずに、ユリイカ氏をそっとしておく。粋な評ではないだろうか。

 大切なことを信じられる能力とは、イノセンスと言い換えてもよいように思う。家族を幸福にする赤ちゃんの笑顔も無垢そのものだ。だが、赤ちゃんは自分の全てを他に委ねることで、周囲の人々の人間性を照らし出す。無力で無垢なものを愛せるか否かという、いわば試験を大人たちに行なっているわけだ。鈴木ユリイカ氏がそのようなイノセンスの試験紙であるとすれば、これはもう、私たちは彼女とその作品を愛し、大事にするしかない。

 「わたくし・広島」では、広島という場所が生命をはらみ、言葉を発する。この詩人の作品を読んでいると、詩人自身と世界の境界が存在しなくなるように感じられることがある。イノセンスの全能感が呼び込む世界観だろうか、その言葉がおおらかに美しく、生き生きと夢見る力に満ちているのは、詩人が世界と等しいからに違いない。

 この広島も作者によく似た相貌を持っている。歌えば声は空に昇り、雨となって降る。川や海は魚が泳ぐよき場所として認識され、そこに「触ってみる」。つまらない大人になってしまった私たちには、決してできない触り方だ。

 だが、親しい友人たちとの写真に、見知らぬ影法師が並んでいるように、かすかに異質な詩行が冒頭と結びにある。「わたくし・広島は白いキョウチクトウの花の / 隣の青いキョウチクトウの花にある」「わたくし・広島は青いキョウチクトウの花の / 隣の白い花にある」。白い花、青い花と辿っていっても、広島は、いや、詩人はそこにいない。追うほど影のようにうつろい過ぎて行き、結局どこにもいないのである。

 もっとも小さな者の傍にしゃがみ、その涙を掌に受けることのできる詩人が花群を置いて去って行く。「時々わたくし・広島は眠っているとき寝違えて / はっとする わたくし・広島ははんぶん / 消えかかっているのではないだろうか?」眠りのなかで感じた不穏な気配。世界は影に侵食され、消えようとしているのだろうか。広島という傷痕が少女のようにみずみずしく強く再生する前に。世界はもはや、イノセンスの翼が歓喜に舞う場所ではなくなっているのである。私たちは無垢なる存在から、さらに困難な試験問題を出されているのかもしれない。

タグ: None

      

Leave a Reply



© 2009 詩客 SHIKAKU – 詩歌梁山泊 ~ 三詩型交流企画 公式サイト. All Rights Reserved.

This blog is powered by Wordpress