先月は様々な機会に恵まれて、一月の間に三度も旅に出ることができた。最初の旅は、中国の杭州へは現代詩シンポジウムのために、二つ目は、東北へは震災と津波の後いち早く復旧した三陸鉄道に乗るため、三つ目は、アンコール・ワットがどうしても観たくてシェムリアップに行った。
まだ大学生だった時分から、お金と時間を作っては旅ばかりしていて、在学中には内モンゴル自治区やウイグル自治区や、東南アジアの諸国に行った。国内旅行は思い立ったらその日のうちにでも出かけてしまい、広島や岩手が特にお気に入りで、新宿から22時前後に出る夜行バスの空席がいつも気になっていた。
ほとんど旅依存症とも言えるほど、常に常に、どこかへ行くことを考えてしまう。これはもう、たぶん脳ではなく心臓あたりが考えているように思われる。社会人になった今でも、三ヶ月続けて同じところに帰り、眠らなければならないとしたら、かなり気が滅入ってしまうと思う。
旅(ことに見知らぬ人どうしの旅や、一人旅)の良さは、そこが一番純粋に自分でいられることだろう。
通常の生活のなかで出会う人々は、その土地(あるいは自分の行動範囲)にある程度固定されているので、関係は自然と、線、ひいては面になる。
これからもお付き合いしなければならない人たちと、そこから派生していくだろう人たちとの関係のために、通常生活での人間関係は、最初から慎重にならざるをえない。常にどの会話もどの行動もどの好意もどの嫌悪も、継続する可能性を持っている。また繰り返し関係することにより、わたしという像が相手の中で育っていく。その像はしばしば、現在のわたしよりも巨大化しており、たとえわたしが昨日は緑で、今日は赤かったとしても、彼らにとってはどちらもわたしであり、また推測をすることにより紫でもあると思われて、どんどんわたしは、人の目を通して得体が知れなくなっていく感じがする。
一方、旅での関係は、点である。
常にその場かぎりで、あらゆるものは独立しており、存在の出所は、内部より表面が強くなる。すべてはわたしの内と外とを通過していく。自分の中身が空っぽなのを許されている気になるし、お互いの接点は一瞬なので、すべては一瞬で交換され、それっきりになる。好意は好意として独立し、嫌悪は嫌悪として独立して、駆け引きをしない。
それから旅先では、肉体と荷物でしかない「わたし」とふいに出会う。日常生活では、あまりに「わたし」は拡大されすぎている。家や会社までもが「わたし」の輪郭線の内側になり、まるで手に負えない肥大化したわたしが、幽霊のようにぼんやりしている。それが旅先では、急に自分がここにいることがはっきりとする。それを始めて味わったのは今から四年くらい前のことだが、物凄い感動だった。わたしはわたしを指差して、これがわたしだ、と断言することができた。わたしはわたしをしっかり見ることができた。大げさに言うと、「わたしはここにいて、生きている」と思った。
今でも旅先の、着の身一つの感じはとても好きだ。頼るものは自分しかおらず、自分で自分の分だけの責任を持つことのこの上ない自由。困ったときは、どんなことでも実に素直に人に訊く。教えてもらったら、出来うる限りの笑顔でお礼を言う。
わたしにはそれしかなく、わたしはわたし以外のなんでもなくなる。
いつも、他人がまったく他人であることを、忘れないでいたいなと思う。誰よりわたしこそが傲慢なので、すぐに家族や友人に対してわかったふりをして横暴な真似をしてしまうのだが、旅から帰ってきた後は少しの間だけ、彼らがまったくの他人であることを意識できる。完全に触れること、理解することが不可能なものだと意識して、はじめて、無償の関係は成立することができるような気がする。