ピラカンサまたはピラカンサスといふ冬の視界の隅にあるもの
『離れ島』(石川美南 2011年 本阿弥書店)
しばらくぶりにこの歌集を取り出して読んでいるうちに、昨年、初めて読んだときとは別の感興がまた湧いてきたのだった。ひとりぽっちというのか、異世界の入り口らしいところに石川さん自身が立って、ぽつんと手招きしているような、石川美南さんという人の内部の間口の広さと、彼女が奥底にしんとして持っているさみしさのようなものを改めて感じるのだった。彼女が立つ背後には、広大な、見たことのない世界が拡がっている。彼女は園丁のように独りでそれを豊かな土地にしていっている。収められた歌々はその土地に立てられた杭であり、樹木であり、息づく人々でもあるのかも知れないと思う。ここまでを書いて、ああそうか、「島」なのだったと気がついた。
掲出歌は「影」一連より。ここで詠われている「ピラカンサ」はバラ科の植物で、正確にはトキワサンザシ属の総称だという。総称というからには、トキワサンザシを指したり、あるいはタチバナモドキを指したりすることもあるとされていて、「ピラカンサ」はそれらを括るための名前なのである。
Pyracantha(ピラカンサ)は、 ギリシャ語のpyro(炎)+ acantha(刺)が語源で、本来はラテン語読みにすると、「ピラカンタ」と読むのが、英語で読むと「パイラカンサ」とか、「ピラカンサ」となるために、それを日本ではこの植物の通称としたという説がある。英語で、「ピラカンサ」の仲間を総称して、複数形でpyracanthas と言ったものを、日本で「ピラカンサズ」とは読まずに「ピラカンサス」と読み、それを複数の種を指して言う場合のみならず、単体の植物を指す場合にも用いたものであるというのである。
詳しくは植物図鑑の解説を読んでいただきたいが、「ピラカンサ」の名称は、非常に包括的で、「ピラカンサス」といいなおしても、その包括の力の云々は左右されることはない。そうしたコンテクストを持つ植物を「または」という接続詞で並置して、「冬の視界の隅にあるもの」として描き出す。並置について着目した詠み方もできるけれど、総称としての植物を「冬の視界の隅にある」として、なお大きくそれらを包括してしまう作中主体のスケールの大きな視点が面白く作用していることを改めて発見する。
歌集を見渡すと、植物にまつわる歌がいくつかあって、非常に興味深い構図が浮かびあがってくる。
ドルーリィ・T・グレシャム氏、木蓮の雑種にSayonaraと名付けたる
暗緑の森から森へ続きゐる点線をつないだらく・ま・ぐ・す
ベゴニアの新種生まれてSunbegobi,Sunbegobupiと春を咲くなり
一首目は名付けの妙である。木蓮の雑種にすぎないものが、叙情を含む名をもらったことで、詩的要素を増したことを詠う。二首目、粘菌の研究に生涯を捧げた南方熊楠のコンテクストが含まれる。三首目、こちらは掲出歌と同様の発想が見て取れる。綴りの表記的なおもしろさ、韻律も計算されている。
私たちは「島」の入り口にやつとたどり着いただけなのかも知れない。彼女の「島」の周囲をめぐるには、さらに長い時間が必要なのだ。