「人間活動としての面白さをどう面白がるか」
週刊俳句の記事「俳句は人間活動として面白い」。
朝日新聞の宇佐美貴子氏へのインタビュー。
これが興味深い。
インタビュアーは上田信治氏。
(上田)──俳句と短歌の現代における存在感というか、ここにそういうものがありますよ、っていうプレゼンスが、新聞に支えられてる部分って多いと思うんですよ。
穂村弘さんも、そのことは、囲碁将棋になぞらえて言ってましたけど、他にもアマチュアスポーツとか、けっこうそういう、ジャンルの命運を新聞が握ってるというケースってある気がするんですよね。
で、昔はプロレスの試合結果が新聞に載っていたけど、今は載っていない、というような変化は常にあるわけで……。
そこで、若干の心配と共にうかがうんですが、将来、新聞から俳句欄がなくなっちゃうことってあるんでしょうか。
(宇佐美)うーーん。私の実感では、そういうことは、なさそうですね。
(上田)──そうですか!
(宇佐美)はい。読者がなくさせないし、縮小をゆるさないんじゃないかな。
数の推移はあるんですが、今「朝日俳壇」には毎週5000~6000通の投句がありますし、そこに毎週必ず新規の投稿者がいて、もっと言えば毎週必ず「初入選」の方がいらっしゃるんですよ!そのことには、ちょっと驚いています。
宇佐美氏が驚いているのは、次の理由による。
(上田)──毎週、何句入選されるんでしたっけ。
(宇佐美)選者一人10句ですから、40句です。その中で多い時は10人くらいの初入選の方がいるというのは、すごいことだと思うんです。新陳代謝があるということでもあるし、この欄への強い期待があるということを感じます。
だからこそ、選者の方にも、週一度集まっていただいて、全投句に目を通していただく共選という形をとっているわけですし。
上田氏は、「ここにこういうものがありますよ」というプレゼンス、つまり作家側からの情報提供の手段として、新聞というメディアの影響のありかたを問いかけているのだが、宇佐美氏は、読者=投稿者=作者という図式で対応し、その裾野の広さ深さに感銘を受けているようである。
投稿欄への関心の強さ、多さ、それがそのままま、読者からの支持として新聞俳壇の力になっているという考え方だ。
そりゃそうだ。
新聞が成立するには、購読されることがまず前提にある。
作者が想定するのは作品に対する読者であるが、新聞の担当者が想定するのは紙面に対する読者ということになるだろう。
このことをあげつらうつもりは無い。
今回の記事で最も興味深かったのは、次の点だ。
(宇佐美)現在を生きる読者が「読もう」と思えるものを、今の俳句としてピックアップしていきたいと、考えてはいるんですよ。伝統とか前衛とか、作者が若いとか高齢であるとかに関係なく、そういう作品。
記事にする場合は、切り口というか、取り上げ方にもかかってきますね。
(上田)──つまり、現在の俳句としてビビッドなものを、作品としても現象としても取り上げていきたいということですね。
(宇佐美)はい。それが、新聞における俳句ジャーナリズムの使命かな、と。
(上田)──スター俳人の人が、何年ぶりに句集を出しました、だけでは、ちょっと足りない?
(宇佐美)たとえば、その俳人が今の人である、という手応え、今の作品であるという手応えがないと、会いに行けないんです。俳句の蓄積がないから、もっと勉強しないといけない、ということかもしれませんが。
「現在を生きる読者」が「読もう」と思えるものを、今の俳句としてピックアップしていきたい。
このフレーズをどう捉えたらよいのか。
(上田)──俳句ジャーナリズムの、あるべき形についてどうお考えですか。あるいは、そこで、どういうことをしていきたいと思われますか。
(宇佐美)現在行われている俳句の活動は、句集のような形では残るけど、一般の人の目に簡単にふれるものではないですね。でも、新聞記事になるということは、多くの読者にふれる機会が生まれるということと、データベースとして残るということに意味があるんじゃないか、と新聞記者として考えています。
2011年8月現在に、こういう俳句があった、あるいはこういう俳人がいたということが記録として残っていく。それが実は一番大事なことじゃないかな、と思うので、なるべく取材して書いていこうと思ってるんですね。
宇佐美氏は、むしろ、俳句に接したことも無いような一般の人が新聞を通じて作品に出逢い、そのことで現在の読者のみならず、未来の読者へも時代を提案しようとしているようである。
通時的な視点から、この時代ならではの作家を見届けようとするのは、かなりムズカシイ作業に違いない。まして、現在を生きる読者が読もうと思えるものとなると、先述の投稿者たちも含めた嗜好の先に何を押し立てるべきものなのか、これは厄介そうである。
(宇佐美)たとえば、その俳人が今の人である、という手応え、今の作品であるという手応えがないと、会いに行けないんです。
「今の人」「今の作品であるという手応え」
これはとりもなおさず俳句形式にかかわる作家が、必ずしも「今の人」ではなく「今の作品」を獲得しているわけではない、ということでもある。そういう過去からの投影をいやおうもなくひきずりがちなジャンルである。であるからこそ、そこから、きれいにキレている人、もしくは過去の作品の価値を再点検したくなるほどの視座を与えてくれる人、それが「今の人」の内実ということになるのだろうか。
そういう視点に立つならば、ひとまず「過去」というものを検証しなければならないことにもなろう。
「過去」をどう受け取ろうとしているかという姿勢において、俳人たちは自分たちの居場所を整理してきたフシがある。(師系とは、師からの教えの系譜ではなく、現在の自分の居場所を自覚するためのインデックスとしての要素が強いのではないだろうか。)過去はイラナイと言い切る場合にも、どの過去を切り捨てることにしたのかの自覚が無い場合、たいてい、いつか来た道へなんとなく流れていってしまいがち。つまり、「今の人」「今の作品」が離陸するためには、それなりに滑走路があるとは思うのだが、その滑走路は「さておき」、現在の読者が今の人の今の作品を求めるとしたら、それはどのようなものになるのだろうか。
俳句作品以外のところ、たとえばその人の生き方や立場が評価の対象になるのだろうか。
俳句作品からうかがい知れる作者の日常が現代的であるということなのか。
ううむ。
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今回のさよならをいふ野路の秋 佐山哲郎 『娑婆娑婆』より
新刊である。
掲句、上五の「今回の」が「今生の」ではないことに、たとえば作者の足運びがある。意味を伝え、人生観を伝えるのだとしたら、こんな足運びはしないでもよろしい。点Aから点Bまで、実務的に移動すればよいのである。実務的な移動ではない足運びとは、いいかえれば、作者は、踊っているのである。かさねていえば、人から踊らされない。読者の笛など聞いていない。自分が面白いと思う足運びでその場を右往左往。歌の文句、そんな俗の地を掻く足さばき。なるほど、娑婆娑婆。
転生しながらさながらないあがら
転生。生の輪廻と尽きない滝の水の立ち姿と。いやはや、そういう意味の直線を、その意味が重たいものになりそうであればあるほど、茶化して踊る足運び。この句の意味は何ですか、作者の人生観はどうなっているのですか、という問いかけをきもちよく置き去りにしながら。
「今の人」である。現代の人かどうかは知らない。
あんたこのチワワ冷房病ですぞ
帯に「句友、酒友の選による十二句」とあるうちの「チワワ」。
たしかに現代人の会話にあらわれそうなフレーズではある。
とはいえ、佐山哲郎の現代性は、そうした「素材」にあらわれているのではない。古典の句をもどく毒に求めるのもそれほど強くは共感しない。「今の人」は、自分というドラマを徒歩で伝えることなんかやめちまって、言葉遊びを踊っている、そんな句の姿に最もよくあらわれている。現代を象徴、そんな面倒なことはしない。どの時代でも、遊ぶ人が「今の人」としての顔を持つ。その遊びを共有する読者がいようがいまいが、句集を出す。言葉遊びの面白さを、内なる読者がダメ出ししなければ、それでいい。
そんな姿勢の句集。
過去を踏まえつつ、過去に重くれず。
「今の人」ではあるけれど、これが「現在を生きる読者」が「読もう」と思う作品かと聞かれたら、きわめて慎重に回答しなければならないところだろう。
俳句作品以外の作者の活動を知った上で、興味をかき立てられ、それをもって「現在を生きる読者」が「読もう」と感じることがあるかもしれない。個人的には、そういう情報なんかうっちゃっておいて、一緒に踊るのにふさわしい出来上がりの句集だと思うのだが。
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前回、この場でもご紹介したが、その後も快調更新中。
たとえば8/21の記事にはこうある。
青大将箪笥の前で臈たけぬ
いつも芝居がかっているのね
臈たけるというきわめて人間ならではの行為の主語として青大将。その遠くなりがちな虚、ともすれば喩として読まれてしまいがちなフレーズを「箪笥の前で」が、この世の俗に引き戻す。
青大将を性的なメタファーとして読みたい人は読めばよい。作者は、事柄を指し示すのではなく、指し示しきれてしまう意味の世界に対して屈折やら崩壊やらを与えてそれを見届けようとしている。その居住まいのからくりを「いつも芝居がかっているのね」と自前で突っ込む視座が添えられていて。読者へのサービスではない。自らの句を読みながら、意味として読まされてしまった部分への自戒、むしろそうした気配。
百歳だから注視するにあらず。
作品を守ってもおらず、作品に守られてもおらず。
おのれの知の立つところを固定させないように、あえていえば、俳句形式は自らを縛るものではなく、むしろ意味の条理のがんじがらめを断切るための武器として選択されていて、その武器にアクやら錆やらがついていない、そんな作家のつぶやきとして拝読している。
金原まさ子さんが百歳だからということで、現在の読者たちが読もうという意欲を寄せることは少なからずあるだろう。しかし、彼女に対しても、そうした取り上げ方をすると、面白いところを見そこなってしまうような気がするのである。
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極端なことを言ってしまえば、俳句作品は作者の人生をきりはなして味わうことで、「今」であり続ける。作者の人生のなにがしかを象徴させるような解釈は、ロマティックな人間観を求める近代的知にはごちそうなのかもしれないけれど、かならずしもそれのみが俳句の「今」ならず。
文は人なり、たしかに、人なくんば文あらざらん。しかし、文は文、と割り切ってみる涼しさを、とくに読者が持つことが、言語芸術としての俳句を見いだす上では重要になるのではないだろうか。まあ、それほど気張って述べることではないけれど。
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この半年、注目すべき句集の出版が相次いでいる感あり。
ついせんだってまでは興梠隆句集『背番号』にしばらく浸り、此岸へ戻ってこられず。
愛すべき句集に翻弄されているのもあるが、8月は個人的に忙殺されることがあり、脳もすくなからずボウとして。
気がつけば、夜は虫の声。すこしは焦点が合いそうなところへ来て、本日、青山茂根句集『BABYLON』到来。
また此岸への帰投、しばし遠のく気配。