四十八番 回す
左
なわとびで冬空回すよ昼休み 吉川泰代
右勝
東山回して鉾を回しけり 後藤比奈夫
左句は、「円錐」誌最新号の時評欄で見つけました。同欄は味元昭次さんの執筆で、お題は「類句に関して」。筆者の篤実な人柄がうかがえる点は結構ながら、話題としては退屈さを否めません。加えて、類句とパロディーを〈度合い〉の差とするような認識も、お粗末と言わざるを得ない。それはともかく、類句の事例として、味元さんの地元の小学校の文集に載っていたという左句と、俳文学者・小室善弘の
縄跳びの子が夕焼けをまはしをり
が、並べて挙げられていたのが目を引きました。
後者(小室の句……引用者注)(は朝日新聞の『折々の歌』で大岡信氏が取り上げておられた句。平成10年刊の句集『西行桜』所載で、「学者の余技を抜けている」と結ばれている。ご存知かも知れぬが、小室善弘氏は著名な俳文学者である。小室氏の一句に先行する類作があったことを非難するのではない。……ただし、この一句の視点または発想は、①吉川泰代さんから小室氏の間に存在する無数の俳句作者の、誰かによって書かれても不思議でないという事実。②もし小室氏が事前にこの小学生の一句を知ったなら、句集に収録されることはなかっただろうということ。このようなことを思うのである。
うーん、そういうものですかねえ。当方などは、「無数の俳句作者の、誰かによって書かれても不思議でない」ような句はそもそも“類句”という問題をさえ構成しないのではないかと思うのですが。つまり類句というのは、もう少しばかりはオリジナリティやクオリティを云々できる水準においてはじめて問題になってくるのではないか、これ程レベルが低い場合は類句とかなんとか検討する俎上に乗せる必要はないのではないか、と。ですからもちろん、小室先生は「この小学生の一句」を事前に知ったからといって、句集に入れる入れないでお悩みになる必要はない。それ以前に、このレベルで句集出すなよという話なんであって……おっとまたしても失言ですね。取り消させていただくことにしましょう。
さて、お口直しではないですが、これら縄跳びの句と同様に、「回す」対象に眼目がある句として、右句を思い出しました。「ホトトギス」派の当代の名人を捕まえてなんですが、小学生とも俳文学者とも全然、出来が違いますね。一句の姿の良さとかはひとまず脇に置いて、根本的な違いはどこにあるかを考えてみると、右句では「回す」対象である「鉾」も「東山」も本当に回っているのに対して、縄跳びの句では「冬空」も「夕焼け」もじつは回っていはしないことではないでしょうか。両句の「回す」は、単に「縄跳び」につきものの単語であることにしか根拠がないのです。それでも小学生の句の方は、やや特殊な遊び方をした場合には実際に冬空が回る可能性があるかも知れませんが、俳文学者の方は遊ぶ子供たちをはたで眺めているのですから夕焼けが回る気遣いは皆無と思われます。
要するに吉川・小室の句は、悪い意味での言葉遊びに終始しているのです。実体を超えた次元で華麗なるイメージのアクロバットを見せるわけでもなく、かといって実体を伴なった発見があるわけでもなく、縄跳び→回す→背景(である冬空、夕焼け)というルーズな言葉の並びの中で、回す対象を縄から背景の方にすりかえる工夫がなされた。この工夫がつまり悪い意味での言葉遊びということです。これに対して右句は、「東山回して」が一瞬、言葉遊びの誇張表現のように呈示されるのですが、しかし鉾を動かす人、鉾に乗る人の視野の中で事実、東山は回るのです。構成が、一種の倒置法になっているのもとても効果的ではないでしょうか。
季語 左=冬晴(冬)/右=秋の風(秋)
作者紹介
- 吉川泰代
詳細不明。掲句は、一九八一年の高知県大豊町川口小学校文集「かわぐち」所収。但し、
引用は「円錐」第五十一号(二〇一一年秋号)より。
- 後藤比奈夫(ごとう・ひなお)
一九一七年生まれ。父・夜半より「諷詠」主宰を継承。掲句は、第四句集『花匂ひ』(一九八二年 牧羊社)所収。但し、引用は『後藤比奈夫七部集』(二〇〇〇年 沖積舎)より。