戦後俳句を読む( 8 – 1 )  ―「肉体」を読む―  楠本憲吉の句 / 筑紫磐井

散る柳スリムK氏の背に肩に

昭和54年、『方壺集』より。

肉体といった場合に、楠本憲吉の全身をどのように表現するかは難しい。「我」では、精神的な意味が強いであろう。ところが、憲吉は不思議な表現を発見する。掲出の「K氏」である。もとより楠本憲吉氏の略称であるから、それ以上の情報が付加されているわけではないだろうが、彼の作品の中では「K氏」は妙に痩身の自己の肉体を際立たせているようなのである。

K氏が帰る愛と死をその双翼に
不惑K氏に夕陽全円熟れて落つ
蟻が蟻の屍運ぶ参道 K氏が去る
秋嶺見ゆ白面K氏の肩越しに
蟇とK氏の隠微な散歩で夏逝く森
中共見ゆ脚長K氏の双脚越し
眼(まなこ)窪ませてK氏の避暑期去る
金星泛べK氏山荘は四月尽
冬灯ちりばめK氏遺愛のボールペン

こんなたぐいなのである。確かに、「我」というよりは、小説の中の主人公のように客観化された存在が浮かび上がる。「A少年」「少女B」なら一層現代的だろうが、それだけ人の特定は難しい。「K氏」は目をつぶれば確かにそのシルエットが浮かび上がりそうな人物である、特に「K氏」の表記は軽薄な感じが楠本憲吉以上にふさわしい。ちなみにショートショートの神様星新一は、大半の主人公を「エヌ氏」にしている。中性的な感じがよい、「N氏」ではダメだというのである。ということで、昔の小説であれば、『阿Q正伝』の「阿Q」に相当するものといっておこう。

「柳散る」は秋の季語。芭蕉に、「庭掃いて出るや寺に散る柳」があるが、あまり上々の句とも言えない。もともと、連歌では「一葉散る」といい桐の葉と柳の葉を広・細一対にして初秋の風情としたが、前者には「桐一葉日当たりながら落ちにけり(虚子)」の極め付けの名句があるのに対して、後者にはない。案外この句など、芭蕉に匹敵する句と言ってもよいかもしれない。

なお参考までに。「我」に独特の表記をしている歌人に前田透がいる。

中国に行かぬ太郎が歩みおり今日乾き明日も乾かん舗道
企業使用人太郎が出口に佇ちおれば平俗米人笑みつつぞ来る
硝子かがやく資本の城に日が照りて太郎の負える責もむなしき
<我、汝に何を為せばぞ>斯く三次(たび)打たるることを太郎は許す

前田透の場合「太郎」が我である。膨大な全歌集を読み通すと、我の中に(歌人は、俳人に比べてはるかに我について語ることが多いのだ)時折、「太郎」が登場する。企業や資本主義の中での疎外された自己を歌うとき突然「太郎」が現れるようなのだ。

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