戦後俳句を読む(7 – 1)  ―「音」を読む―  楠本憲吉の句 / 筑紫磐井

オルゴール亡母(はは)の秘密の子か僕は

音といって、多くの人に思い出される憲吉の俳句はこの句であろうか。桂信子も憲吉の愛唱句としてあげていたと思う。それにしても桂信子という激しい女流と、いい加減な楠本憲吉が日野草城の同門で付き合いがあったということ自体面白く思われる。ただ桂信子のこの句の解釈は読み違いがあるように思われる。信子が述べているような母恋の句などではないように思うからだ。憲吉35歳の時に母親はなくなっているが、いかにも作りごとのような俳句である。だから私はむしろ次の句が好きだ。

終い湯の妻のハミング挽歌のごと

恐怖心が漂ってくるような句だ。憲吉の家庭俳句は、半分虚構、半分事実であろうし、ことによると沈黙したまま語らない危険な部分もあっただろう。フィクションとしてのクスモト家を憲吉全集からたどることはまことに面白い。ここには何らかの人生の真実がある。

ところである著名な女性俳人に、憲吉の俳句を読むようにすすめたところ、「女や火遊びに自信があるのだろう、読者が男ならおもしろいかもしれないが、女からすると感じがよくない、こんな男の本心が見えたらうんざりでこんな男は敬遠したい」と言われた。以来私の人格そのものを疑われているところがある。あまり人に俳句を読むことを勧めるのは考えものだと反省している。

しかし、源氏物語の光源氏だとて、同時代人だと見たらたまったものではない。憲吉もなくなっているからこそ安心して句を鑑賞できるのだ。

「終い湯」につかっている妻は一見謙虚に見えるが、湯に浸りながら鼻歌で歌う「挽歌」は夫の心胆を寒からしめるものがある。湯船の中で開放された意識の中で、どこかうっすらと夫のなくなったあとの年金や保険金を想像したり、再婚の可能性もまだまだ捨てたものではないと思っているかもしれない、若干の殺意があったっておかしくはない。良妻賢母を詠むことに慣れている俳句に対して、シニカルな真実を憲吉は提供する。川柳とは全く異質だ。笑ったあとで顔面が凍りつくようだ。

おそらくどんなに愛している妻にしても、5%ぐらいはこうした意識があるはずである。ことによると95%納得する妻もいるかもしれない。そうした真実を、ことのほか憲吉は愛していた。憲吉しか詠めなかった世界である。憲吉を読むと、世の常の愛妻俳句など嘘っぽくて読めなくなる。

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