日めくり詩歌 短歌 高木佳子 (2012/05/17)

コピー機のひかり行き来す教師らの突き出た腹のベルトのあたり   染野太朗

『あの日の海』(2011年、本阿弥書店)より。

この人は結社『まひる野』に所属していて、早くから実力を顕している若い歌人である。この歌集によって、日本歌人クラブ新人賞の受賞が先頃決まった。受賞は歌人として朗報に違いないが、そんな喜びもつかのまなのかもしれないような苦しさが歌集には募っている。

この人は教師である。苦しんでいる。教師という職について。また、思春期のただ中にある生徒たちへの対応や日々について。そしていまだ青年期の途上にある自分自身の存在の疑問について。ひりひりとした日常がこの人の周りを縁取っているようだ。

歌集の一番後ろの経歴を見ると、私立中高一貫校勤務、とあるから、進学を視野に入れたエリート校であるのだろう。ただでさえ、難解な時期にさしかかっている生徒の扱いは容易なことではあるまい。しかし作者は絶えず教師として教壇に立たねばならないのである。

蛍光灯いっぽん切れて教室に雪の死骸のひかりあふれる
鉛筆を持たぬ左の手がどれもパンのようなり追試始まる
白き陽を反しきれない海のような教室で怒鳴る体育のあとは
ケータイの振動音は聞こえないふりでよだかの気持ちを問えり

教師は授業をしに、各々の教室へと向かう。クラスごとの独特の雰囲気がある。明るいクラス、陰気なクラス、いつも眠たげなクラス、奔放なクラス。教師が教室に行って少しほっとするのは明るい雰囲気のクラスだが、だからといって生徒には羽目を外させてはならないのだ。三首目に描かれているような、体育の授業の後は、生徒たちはとりわけ着替えに手間取って授業の準備が遅れてしまうのと、体育後の疲れによって集中力がない。「海のような教室」はたゆたう海にその情景を喩えている。そこへ教師は教師として入ってゆく。この作者は一途に自らの職務を遂行しようとしているのだろう。純粋ゆえの傷みがストレートに伝わってくる歌である。

さて、上に掲げた歌は職員室での同僚を観察した歌である。自分と同じ境遇であるはずの教師がつどう学校組織の中でも、この人はまたもあえいでいる。たとえば看過したり、諦めたりすればうまくゆくことなどであっても、受け入れがたいものとして捉えているようだ。

同僚たちは長年を教師としてやってきた。多くを諦めたり、あるいは怠惰にふるまいながら自らを保ってきたのである。それは結果として純粋を喪い、また組織や生徒を統べ、自らを盤石に鎧することでもあった。この歌のモティーフとなっているコピー機は一寸も違わず元原稿の複写をする。生真面目なほどに忠実に。筆者にはコピー機は作者を投影したものであるようにも感じる。そして、コピー機のまばゆい「ひかり」が行き来する、「突き出た腹」は、澱んでいる側の教師たちの象徴でもあるだろう。ぶよぶよの腹には澱んだものがいっぱい詰まっている。人を教え、育てるはずの職業が孕む矛盾。この人はその部分が持つ「虚」を鋭く衝いている。

そめのさん無理しちゃいけない はつ春の風に目を閉ず副校長は
人間は、否、教師らは諦念をときに誇りて雨に口開く
教師らは教師を妬む カーテンで西日を避けて続ける会議

ストレートな詠風にこの作者の率直な人柄が溢れている。だからこそ読者の心を動かす。読者は共に苦しむように読み進めてゆく。そして、苦悩の果てに、薄陽が差し込むようなゆるやかな希望が記されてこの歌集は閉じられる。

アイビーのさみどりの葉は増えやまず四月半ばを過ぎた頃より
死にたいともはや思わず日の暮れをぼくは茸を鍋に煮る人

苦しみは終わったわけではないだろう。おそらく、教師という職業を続けているかぎり、同じ苦しみはついて回る。しかしこの人には歌がある。歌い続けてほしいと思う。

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