日めくり詩歌 短歌 さいかち真 (2012/05/25)

あとすこし、すこしで星に触れそうでこわくて放つ声――これが、声

ハンカチをひらけばうすくひるがえり横切る夜を堕ちないで、鳥

ひと茎の尖のしずくをわが嘴にのこせりきよらなる夢魔

佐藤弓生歌集『薄い街』

 佐藤弓生の『薄い街』にごつごつとした指では触れない。この悲歌の洪水のような一冊全部が、まるで危険物のようなものなのだ。たとえば「パレード・この世をゆくものたち」という三つめの章のタイトルを見るだけで、痛いほどに伝わって来るものがある。生きることは、かりそめの時間だという感覚。任意の頁を開いてみる。

定型は守っている。「あとすこし、/すこしで星に/触れそうで/こわくて放つ/声――これが、声」。句読点やハイフン、それから一字あきが、視覚的に読みのリズムを調整し、それが実際の句またがりと軽く衝突しながら、切迫した危機的な魂のありようを伝えている。空無に向かって呼びかけ、振動しながら、身もだえしている悲劇的なもの。その「なにか」を詩のことばで、ネガとポジが反転するように縁取りして示している。「星に触れる」というのは、宮沢賢治の「よだかの星」をいま記憶のストックのなかから引き出したが、至高のものに触れることであり、同時にそれは生と引き換えでなければ手に入らないようなものに触れてしまうことでもある。

二首めは、「私」は実際にハンカチを拡げているのだ。そのハンカチは、鳥の羽のようにひるがえっているのだ。「私」の思いの鳥は夜空をいま羽ばたいている。ここで詩のテキストのなかで天駆けるということをしている「鳥」は、書いている「私」自身でもあるのだ。

三首めは、「尖」に「さき」、「嘴」に「はし」、「夢魔」に「インクブス」と振り仮名がつけられている。この三首は、まとめて読むべきなのだ。ここまで読んできて、夢の歌なのだなとわかる。もしくは夢のイマジネーションの歌なのだなとわかる。フロイト的に言うと、「ひと茎」は、草の茎であるとともに、ペニスを連想させる。夢は性夢にちかいものであったのかもしれないが、空とぶ鳥のように「私」はのぼり詰めているのだ。ここでこの「私」を単純に女性である作者と一体化させて読んでもかまわないが、実はここまで作品化した時に、これが「よだかの星」の宮沢賢治の禁欲によるイマジネーションをメタファーとして読み解くことにもなっているという、このテキスト自体の持っている重層性を指摘しておきたい。

 

(この文章は、浅川肇氏らによる歌誌「無人島」に掲載したものを、一部改稿したものです。)

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