福島県浪江町の詩人、みうらひろこ氏の一文を引いておこう。
浪江町長は、東電からは何の連絡もないまま、パソコンのメールで、菅首相から避難命令を受け、十二日早朝、各地区の区長を通してただちに避難せよとの通達を発したのです。家畜やペットを置き去りにして、着のみ着のままで、浪江町民二万二千余人の大移動が始まりました。その日午後三時、原発一号機の水素爆発がありました。東電側では、地震で通信回線が切断されたため、浪江町には連絡出来なかったのだという釈明なのです。あの日、仕事や外出先から、陥没した道路や、倒れて道路をふさぐ樹木や石塀を避けながら、みんな必死で自力で家にたどり着いたのです。
東電には地理に<わしい地元の社員もいたと思うし、十キロも離れてないのだから、車がダメなら自転車やバイク、それもダメならメロスのように人を走らせる方法もあっただろう。とても危険な状態だったのだもの、それ位の知恵や誠意を示しても良かったろう。
一方、バスで運ばれた立地町の避難者達は、暖房のきいたホテルで、シャンデリアの光輝やくテーブルで、デザートつきの温かい食事を提供されていた。
我が浪江町民の避難者の多くは、廃校になった小学校に入れられ、壊れたガラス窓からの冷たい風、床にダンボールを敷き、支給された薄い毛布にくるまり、冷たくなった小さなお握り一個、ある日はメロンパン四分の一切れという食事。「避難」とはこういうことなのかと思いながら、寒さと窒腹に耐えていたのです。このあと県内の学校の体育館をはじめ、あらゆる集会所や施設に移り、町によるとその数三百五十ケ所に分散しての遭難生活となったのです。各地で受け入れて下さり、支援していただきありがとうございました。
東電から受けた差別と仕打ちを、県内詩人各位に知ってほしいです。
(『福島現代詩人会会報』〈一〇二〉より、二〇一二・二・一)
(2011年)三月十一日、四つの集落が大津波に呑まれ、家並みが消えた。九百八十余名の行方不明者の安否確認、倒壊家屋からの住民の救出、道路の補修に町職員はとりかかり、一般住民は散乱した家のなかを片付けながら、隣町の原発への不安は、だれもがあったようだ。でも、そのころ、立地町の双葉、大熊、富岡のひとたちが、茨城交通などからチャーターされたバス百二十台により、その日の夜までに、県内や隣県の観光地のホテルや宿泊施設に避難していたと、浪江町民はゆめにも知らなかった。
どんな論評もむずかしい。私には論評すべき言葉が自分のなかに見つからない。立地町の住民はシャンデリアのもと、デザートつきの食事。私たちは吹きさらしの廃校でメロンパンを四分の一。うらやましいな。いち早くなぜ、私たちにも避難をさせてくれなかったのか。一人の「走れメロス」も東電にはいなかったのか。みうら氏の文にはにじみ出るユーモアがあり、何度読んでも心を動かされる。
福島県内からは、これから気の遠くなるような時間の除染、もうふるさとへ帰れないひともいると、「岩手・宮城の三陸沿岸」の力強い復興への取り組みに、自分たちを引き比べる言い方も、目にする。無論、念を押すように言えば、「うらやましい」というような本音ではない。
被災地間の食い違いとか、温度差とか、ましていがみあいとか、そんなことでもさらさらない。日本社会ぜんたいの冷たさ、冷ややかさ。いや、ちょっと違うな。福島県が日本社会から切り捨てられ、これから見捨てられようとする、そのことの「うらめしさ」、届けたい心の声とあきらめと、いや、あきらめないでというもう一つの声、ともあれ温度差というなら、絶対温度差(という概念があるのか知らないが)のような冷たさには、福島県民をいま追い詰める、もの凄い強度がある。福島と沖縄とを類推する声があちこちから聞こえるのはわかる気がする。
吉本隆明氏がわりあい、日本の変わりようをよく押さえている。
情報やデータを並べて専門的なことを言うことはできません。また、僕は災害の現場を見てもいませんから、どんなイメージで捉えると的確かは心配なところです。自分が寝起きする場所からの印象でしかありませんが、まず意外に思ったことはあります。東北の三陸海岸あたりがもっとも大きな地震や津波の被害を受けたのでしょうが、関東平野と接している福島県の海沿いも相当ひどい状況で、津波で港が水没し、家が流され、原子力発電所が爆発して放射性物質が漏れて、さぞ大騒ぎで東京方面に避難してくる人たちもたくさんいるに違いないと思っていました。ところが存外シーンとしていた。テレビのニュースを聞いて想像するだけですから、具体的なイメージをよく捉えることができないのかもしれませんが、大きな害であり事故ですから、どんな騒動が起こり、人々はどんな顔つきで逃げているのか日本列島中にもっと鮮明に伝わって、異様な状態になるものかと思ったのですが、意外に東北は東北で、東京は東京で、地域が個別的に動いていて、あれこんなものかと感じた。災害らしい災害も受けなかった東京などは少しばかり停電があったり流通が滞ったりしたのでしょうが、あたかも普段どおりに暮らしていた。東京から西はさらに平常だと思いますし、こんなものではないという想像がはぐらかされました。
(「これから人類は危ない橋をとぼとぼ渡っていくことになる。」『思想としての3・11』河出書房新社、二〇一一・六)
この『思想としての3・11』では鶴見俊輔さんの発言を見ることができる。だれも余裕などなくて、私とても鶴見さんや吉本さんの発言には、縋る思いで、記事を読むというより見つめる感じである。
三月十一日からテレビを見つづけた。地震と津波と原子炉破壊の報せが刻々入ってくる。私の中に、それらが積みかさなってゆき、全体の形をつくらない。
専門家が呼ばれてつぎつぎに出てくるが、専門家は学者として他の学者に伝える言葉を使うので、しろうとの私には、その重さが伝わらない、新聞は総理大臣を批判し、新聞と週刊誌に登場する評論家はそれにならうが、それも、今出てきた総理大臣の言葉尻をとらえて攻撃する、きれぎれのものだ。
もっと大きな形、その中に出来事をとらえる形に出会いたい。
アイザイヤ・バーリン(一九〇九―一九九七)を思いついた。バーリンはラトヴィアに生まれ、父は木材商で、ロシア革命に打撃を受けてイギリスに逃げた。その後イギリスで育つ。白分たち難民を受け入れるイギリスの文化に感謝しながら、しかし自分の出自であるユダヤ人の難民としての性格を捨てることなく、長い生涯を生きた。バーリンのロシアを含むヨーロッパ思想史の著書は多いが、彼の思想の隠されたキーワードは、「難民」である。世界の難民が、バーリンの思索を離れることはなかった。これは、哲学史の中でめずらしい。
(「日本人はなにを学ぶべきか」、同)
難民という語に私は辿りつく。続き――、
人間の歴史の新しい段階に、米国は踏み入ったのである。
これは、何干年かにわたって、勉強好きの人のしてきた科学とは、ちがっている。
原爆投下のつくりだす難民を視野に入れた人間の歴史は、それまでに書かれていない。
原子炉を日本につくる計画がもちうがったとき、原子物理学者武谷三男は、日本には地震がおこり、津波が襲う。こういうところに原子炉をたくさんつくっていいのかね、と、素人にわかる言葉で、私に言った。
難民出身の米国人画家ベン・シヤーンは、ビキニ環礁で被爆した第五福竜丸に取材して、一連のすぐれた作品をつくった。太平洋でのこの原爆実験を入れると、日本人は三度、世界に先がけて、原子爆弾の被害に遭っている。
日本人の上に落とされたこれらの原子爆弾に対して、私たちは応答しないで過ぎてきた。その空白の時間に、今回の地震、津波、原子炉破壊が起こった。(同)
さいごは、
能狂言の身ぶりに戻り、近隣の助け合いと物々交換から再出発に向かいたい。文明の難民として、日本人がここにいることを自覚して、文明そのものに、一声かける方向に転じたい。(同)
難民という語にここで出会う。さきに引いたみうらさんの寄稿は、題名が「原発難民・そして差別」である。福島から発信される語だ。
若松丈太郎氏の言う「原発難民」にほかならない。私はリブロ池袋本店での企画「3・11以後の本と私たち〈未来を拓く本の力〉」(2012・3・01~04・15)に、三冊をノミネートした。
書き出して終わりとする。
- 『福島原発難民 南相馬市・一詩人の警告1971年~2011年』若松丈太郎(コールサック社)
若松さん、あなたの不屈、心の声、届ける言葉、詩友たち。『北緯37度25分の風とカナリア』(2010、弦書房)という予言的な詩集を経て、散文を含む文字通り緊急出版。発行者・鈴木比佐雄氏も詩人の一人。
- 『詩の礫』和合亮一(徳間書店)
『詩ノ黙礼』(新潮社)の深部からわき上がる時間の祈り。『詩の礫』のうちなる詩の発生。伝言という新しいメディアで、記録文学として読まれてもよい。『詩の邂逅』(朝日新聞出版)もある。
- 『眼の海』辺見庸(毎日新聞社)
『生首』(2010)の著者が書いた渾身。『瓦礫の中から言葉を』(NHK新書)に連動する詩書。もしこの『眼の海』がなかったら、と思うと、ぞっとする。辺見さんはあえて「詩集」と名のらず、この一冊をそっと置く。