「水素爆発」が前回である。なぜ水素爆発が起きたのか。しかも次から次へと、複数の原子炉建屋を吹き飛ばす。どうして、原子炉サイドや原子力学者たちは、口を噤んで、われわれにその原因を説明しようとしないのだろうか。それによって多量の放射能物質が飛散したことを、われわれは告発しなくてよいのだろうか。爆発が複数あったとは、原子炉そのものが持つ過酷な構造的欠陥であることを如実に意味する。
たしかに、根気よく調べれば、私ども一般人にも知ることのできる事柄はいくらもあろう。だから、かれらは「秘密にしていない」と言い抜けることができる。事故を起こしたのは商業用原子炉であり、ほかに研究用原子炉がどれほどいま稼働中であるか、私には調べられない。大学や研究施設が管理している、それらの原子炉について、安全論議はどれぐらいなされているか。次世代型の高速ガス炉(超高温原子炉)はいまどこまで「開発」されているか。冷却に水を使わない(ヘリウムガスを使う)から「水素も水蒸気も発生させません」と、関係者たちは胸を張って答えるのだろうか。つづく、熱核融合型の「開発」は、関係者に言わせれば、ぜんぜん秘密にしていないつもりかもしれない。それとも極秘のヴェールに包まれているか。横須賀港に寄港する、原子力空母は非常用冷却装置の電源を地上から引っぱってくるそうである。ほんとうか。どこに沈んでいるか分からない原子力潜水艦を含め、原子炉は都会地から遠い「僻地」にのみあるのでなく、東京湾内なら湾内を行き来している……
マルコムXは叫んだ、「卑屈になるな。黒人としての自信を持て。黒人の歴史を、文化を勉強しろ」と。それが一九六〇年代のブラック・スタディーズへと発展していった。いま、われわれにとり、敗北しているのは「歴史」であり、「文化」ではないかと思える。若松丈太郎氏、この表現者について調べていると、歴史、そして文化を大切にすることの原点がわかってくる。鈴木比佐雄氏の解説「南相馬市から原発の危機を発信し続ける人」を引いてみる(若松『福島原発難民』、コールサック社、2011・5・10)。
……若松さんの生まれは岩手県だが、福島大学で学んだことや妻が南相馬市出身ということもあり、相馬市の相馬高校、原町区の原町高校、小高区の小高農工高校などの国語教師になり、多くの若者たちに日本語の魅力や言葉で真実を伝えていく大切さを教えてきた。例えば『和漢五名家千字文集成』の井土霊山、『誹風末摘花通解』『川柳辞彙』を編纂した大曲駒村、日本国憲法の成立に寄与した憲法学者鈴木安蔵など、相馬やその周辺の市町村が生んだ個性的な文化人たちの業績を発掘するなど、他の人が顧みない仕事をやり続けている。また埴谷島尾記念文学資料館の調査員であり、相馬出身の埴谷雄高と島尾敏雄とを後世に残す仕事もしてきた。その意味で若松さんはこの南相馬巾の魅力を異邦人の眼差しで発見し、いつしか真の故郷と感じてこの地を愛し、暮らしの現場から証言してきたのだと思われる。それゆえに、若松さんは福島原発がこの地の根源的な災いを引き起こしかねない存在だと直感し、恐れていたのだろう。(鈴木)
大曲駒村著『東京灰燼記』(東北印刷株式会社出版部、大正12年10月3日)は関東大震災から1ヶ月後という時点で発行された(中公文庫に再録)。壊滅した東京にあり、駒村が残した貴重な記録で、写真のほか、復旧事業の一班に至るまで、大震災の直後にしてこれがあるのかと喫驚させられる。正確な記憶、記録、リアルタイムでの無言の告発、世界への報知、あるいは文学、表現のかずかずが必要な緊急のとき。仙台へ持ち込んで印刷したらしい。『方丈記』は1180年代での震災(ほか、大風、飢饉や遷都など)を記録していることで、いまよく思い起こされる。『方丈記』が千古に古びない表現記録であることを認めることにおいて、私は人後に落ちない。しかし、蓮胤(鴨長明)が執筆したのは、鮮明であるにせよ三十年経ってからの、古い記憶を再構成してみせる迫力であった。三十年後を思い見ることの大切さはあるにしろ、大震災後にただちに表現活動するという、表現者にとってのしごとを支える何かは、若松氏の場合、早くから用意されていたとみてよい。歴史を、文化を学ぶと言うことは一朝一夕にあることでない。推測ながら、若松氏を支えてきた一端に、大曲駒村が『東京灰燼記』を緊急に残したことから学ぶところがあったのではなかろうか。
田口空一郎氏に誘われて、一般社団法人フューチャー・ラボ設立シンポジウム(2012/11/16)のセッション「3.11 後の文化、詩、科学技術」に出るための、ハンドアウトを田口さんに送信する。『東京灰燼記』についてや、若松「神隠しされた街」(『いくつもの川があって』2000)などを、とりあえず入力し、送信したあと、駒村について、もう少し調べたいと思っていたら(泥縄である)、当の若松さんが「大曲駒村」を、新刊の『福島自由人』27(北斗の会、2012・11)に、18ページにわたり掲載している。これにも度肝を抜かれた。
若松「神隠しされた街」(『いくつもの川があって』2000)をもう一度、引きたい(第3回で引用した)。
四万五干の人びとが二時間のあいだに消えた
サッカーゲームが終わって競技場から立ち去ったのではない
人びとの暮らしがひとつの都市からそっくり消えたのだ
ラジオで避難警報があって
「三日分の食料を準備してください」
多くの人は三日たてば帰れると思って
ちいさな手提げ袋をもって
なかには仔猫だけをだいた老婆も
入院加療中の病人も
千百台のバスに乗って
四万五千の人びとが二時間のあいだに消えた
鬼ごっこする子どもたちの歓声が
隣人との垣根ごしのあいさつが
郵便配達夫の自転車のベル音が
ボルシチを煮るにおいが
家々の窓の夜のあかりが
人びとの暮らしが
地図のうえからプリピャチ市が消えた
チェルノブイリ事故発生四〇時問後のことである
千百台のバスに乗って
プリピャチ市民が二時間のあいだにちりぢりに
近隣三村をあわせて四万九千人が消えた
四万九千人といえば
私の住む原町市の人口にひとしい
さらに
原子力発電所中心半径三〇㎞ゾーンは危険地帯とされ
十一日目の五月六日から三日のあいだに九万二千人が
あわせて約十五万人
人びとは一〇〇㎞や一五〇㎞先の農村にちりぢりに消えた
半径三〇㎞ゾーンといえば
東京電力福島原子力発電所を中心に据えると
双葉町 大熊町 富岡町
楢葉町 浪江町 広野町
川内村 都路村 葛尾村
小高町 いわき市北部
そして私の住む原町市がふくまれる
こちらもあわせて約十五万人
私たちが消えるべき先はどこか
私たちはどこに姿を消せばいいのか
事故六年のちに避難命令が出た村さえもある
事故八年のちの旧プリピャチ市に
私たちは入った
亀裂がはいったぺーヴメントの
亀裂をひろげて雑草がたけだけしい
ツバメが飛んでいる
ハトが胸をふくらませている
チョウが草花に羽をやすめている
ハエがおちつきなく動いている
蚊柱が回転している
街路樹の葉が風に身をゆだねている
それなのに
人声のしない都市
人の歩いていない都市
四万五千の人びとがかくれんぼしている都市
鬼の私は捜しまわる
幼稚園のホールに投げ捨てられた玩具
台所のこんろにかけられたシチュー鍋
オフィスの机上のひろげたままの書類
ついさっきまで人がいた気配はどこにもあるのに
日がもう暮れる
鬼の私はとほうに暮れる
友だちがみんな神隠しにあってしまって
私は広場にひとり立ちつくす
デパートもホテルも
文化会館も学校も
…… (以下略)
若松「原発地帯に《原発以後》なし!?」(2010)には天城南海子氏からの引用がある。
……
安全という名の地獄を引きずり
腐蝕の世界へ急ぐ蜃気楼
No5・No6・の増殖炉の彼方
わたしは視る
五十年後の廃墟の俯瞰図を。 (「燃える蜃気楼」部分)「燃える蜃気楼」は、一九七九年に原発構内のショールームを見学した天城南海子(本名・吉田操、福島市、一九一五年~二〇〇一年)の詩である。彼女は《五十年後の廃墟の俯瞰図》を視ているが、第一原発一号炉は一九七一年三月に稼働を開始して以来、三十九年を経過していて、その《五十年後》は、あとわずか十年ほどのちにはやって来るのだ。
第一原発の他の全原子炉も三十年以上も稼働しつづけていて、高経年化原子炉の廃炉と放射能低減までの放置(廃止措置)というまだその具体的道筋が確かではない問題にそう遠くない将来に直面することになる。そのとき、立地自治体にどんな負担が及ぶのか、まったくの闇のなかである。
天城は、若い世代を励まし、やさしく見守る人だった。二〇〇〇年に書かれ遺作となった次の短歌二首には、未来を見つづけてきた彼女の思いとは逆に、絶望的な思いがあふれでているかに感じられてならない。
二十世紀は目に見えない汚染で幕を閉じるのかチェルノブイリの子供たちよ
原発銀座を擁して息づくわれら子孫に残す何あるというか(「無風」から) (若松)
短歌「原発銀座を……」は、私の連載第1回に引いた、みうらひろこ氏も文末に引用している。
……
私は湾岸戦争のあった翌年の県詩集で「ゲーム・ボーイ」にまさに今を予言するような作品を発表していました。また二〇〇一年号の「ニュースの日」では元会員の故天城南海子さんの遺稿から引用させていただいた作品を発表してます。天城さんの早くからの警鐘でした。
原発銀座を擁して息づくわれら子孫に残す何あるというか
(みうら「(寄稿)原発難民・そして差別」『福島詩人会会報』102、2012・2・1)
同会報では若松氏も書いている。
当初伏せられていた事実があきらかになるにつれ、わたしは確信を抱くようになりました。日本国は国民の安全や健康は二の次にして国家と企業の保全を優先し、原発周辺住民は過去も未来もいっさいを奪われ棄民されたのだと。 (若松「生きる力を得るために」,同)
若松氏の、「二月十九日、ダイアログ・フェスティバルでの子どもたちが知りたいこと」をも引用しよう。
いつになったらプールに入れますか 小5
海や川で遊べるのはいつですか
いつ、釣りができるようになりますか 小5
雨でもサッカーができるようになりますか
いつになったら雪にふれていいんですか? 小3
すなあそびができるようになりますか
ほうしゃせんを気にせず外で遊べるのはいつですか? 小5
飼い犬は屋外で放し飼いにしていて大丈夫ですか
20㎞内の動物の命は?
いつまでこの状況が続くのですか?
事故はいつになったら終そくしますか
原発の状態はほんとうはどうなっているの?
今度、津波や地震がきても大丈夫なのか?
原発はもう爆発しませんか? 小5
危くなったら次の避難指示ができるのか?
放射能はいつになったらなくなりますか
私たちが生きているうちに放射能問題はなくなりますか?
いつになったら友達が安全に帰って来れるのですか 小5
けいかいくいきの中の自分の家に帰れますか? 小3
讐戒区域解除後、住民はもどってくるのか 小5
帰れない人はどうすればいいんですか
安全というけれど、本当に将来安心してすごせるか!
30㎞以内に子どもがいていいのか?
原町の小学校に子ども達を通わせて本当に大丈夫なのでしょうか
ここに住んでいて本当に大じょうぶなの? 小5
いつになったら南相馬で農業ができるのですか?
以前のような生活を送ることができます?
まだ見つかっていない行方不明の人! はやく家族のもとに帰したい!
病院がいつもどおりに戻るまでどのくらいの時間がかかりますか
いつになったら仙台までの電車が動きますか 中3
6号線はいつ全面開通しますか
福島の電気を使っていた都会では道路などがますます便利になるのに、電気を送っていた福島相双では万が一のための郡山や福島への道路が満足でない! 見捨てたのですか?
国が福島のために何をしてくれているのか? 政府は本当のことをかくしていたのか?
放射能除染の効果が本当のあるのかどうか
放射能はどのくらいあびると危険なのですか 中3
将来、がんになりませんか?
私達が将来白血病、ガンなどになる確率は何%ですか?
甲状腺ガンは、福島県内でいつなってもおかしくない、私たちを死に追いやる病気なのですか?
私たちは悪いことをしていないのに、なぜ同じ日本国民からまでも死の町などと呼ばれなくてはいけないのですか? 中3
将来、子供が産めますか? 中3
僕はいつまで楽しく生きられるでしょうか
水道水を飲んでもいいですか
じいちゃんのうちのすいかをたべてもいいですか
東電と保安院とがついたウソの数
原発は本当に必要なのか?
これ以上、私たちを苦しめないで!
地球はどのくらいまでもちますか?
(若松さんからもらったプリントコピー、2012/3)
和合亮一もまた、『After』や『入道雲、入道雲、入道雲』といった詩集のある、ちからをつけてきた書き手であって、そのうえにツイッター詩による活躍がある。反原発、脱原発という言葉は定着しているが、もう一つ、廃炉という言葉、廃原発という考え方が、福島ではつよいようで、和合さんは「廃炉詩篇」という作品を書き続けている。けれども、これは全くの推測を含めて、福島県内で、何かますます、深刻な言葉のタブーが進行している。2年目にはいり、しばらくすると3年目で、どうしてよいかわからない、解決のしようのない放射能災害や、風評被害や、内部被曝のおそれが拡散するなかで、その「放射能」という言葉も飲み込まれる。これはたいへんなことになってきている。私は類推する方法もないけれども、沖縄戦の直前や、沖縄戦のさなか、住民たちが「集団自決」させられた悲劇を、記憶のなかにとじこめたのを、教科書や大江さんの裁判のなかで、子供たちに〈真実〉を語り伝えなければならないと、生き残されたかたたちが、重い口を開いて〈証言〉しはじめる。
いま、福島では、それと逆の事態が進行しているようなのだ。何が〈真実〉なのかわからない、どう〈証言〉すればよいのか、言葉が失われ、高齢者のかたたちは先祖への申し訳なさで、加害者になったような思いもあり、お母さんたちは子供の将来を思うと、ますます重い口が重くなり、しかも、福島県外、全国からはますます切り捨てられるかのような不安でいっぱいだ。3月11日から数日、福島県東部のかたたちは、逃げられるだけ逃げた(みうらさん、あるいは武藤類子氏の記録を見よ)、それを沖縄戦に重ねあわせたひとが、沖縄県のなかでは少なくなかったと聞く。それは一時の、やや不謹慎な類推だったかもしれない。しかし、1年経ち、2年が経って、故郷を去ってもう帰る事が出来ない(細見和之氏の言葉で「ディアスポラ」と言いたい)、なぜ、そのような仕打ちを受けなければならないのか、いったい何が〈真実〉で、どう〈証言〉したらよいのか、とくに子供たちの真剣な問いに対して(若松さんのプリントを参照)、大人としてどう弁解できるのか、みなますます押し黙るという現在のありようが、もっとも深刻な意味で沖縄戦と類推できる状況に来ているのではないか。
福島県内から、どういう言葉が生まれたかというと、〈原発難民、福島難民〉という言葉が生まれた。昨年の「3/11」が、まったく収束していない、そしてこれから何年も、もしかしたら何十年もの影響をひかえて、何か、フレーズというか、言葉を産み出したろうか。表現者としての詩人たちが、たとえばみんなに勇気を与える言葉を発したろうか。そう考えると、若松さんが、『福島原発難民』という一冊を、震災から直ぐに出している。福島の方たちがみずからを難民として位置づける、この〈原発難民、福島難民〉という語は、悲痛な言葉であるにしろ、福島のなかから生まれた語として、県内で広く支持されている。しかし、とても勇気を与える語でなく、悲痛な現実をそのままあらわした語だ。
無論、原発の立地県や立地町村だけでなく、津浪の被災地全体を襲う、難民の発生であり、しかし言葉のような、この起きた事態を受け止める器のような、言い回し、表現が何もない。阪神淡路大震災は、献身的な救助活動を始めとして、全世界から救助の手がさし延べられた。そのころから、「ボランティア(リズム)」という語、「心のケア」、あるいは「癒し」という語が、好き嫌いはべつとして、日本語のおもてに出て、定着していった。断層が淡路島の北部を走った。もし、淡路島の上に原発が乗っかっていたら、どうなるのか。神戸大学の石橋克彦氏は、地震のまえにも、そしてあとも、地震学者として精力的に取り組まれたわけだが、はっとかれは気づいた。というか、私の想像ながら、淡路島に原発が乗っかっているという悪夢を見て、汗びっしょり飛び起きた。そして「原発震災」という語を作り出し、今回の「3/11」を予言する、重要な言論活動に邁進してゆかれた。
東日本大震災のうちがわからは、そのような語が生まれない。外部からはいろいろ、たしなめるような言葉がいくつか拾えるかもしれない。私は福島県の土地勘がない「異邦人」だ。言葉に携わるはずなのに、東北語をよくわからない。だから、内部外部という分け方でいえば、発言権はない。しかし、内部と外部との温度差というか、福島県と県外とのあまりな温度差、ますます進行する全国的な仕打ちと、福島県の置いておかれ方とのひらき、ということでは十分に私にも、テーマにできることがあると思える。「ディアスポラ」とか「難民」とか、厳密に定義としては国境外へ出ることをいうので、そういう場合、注意するひとがきっといる。福島県民はそうしてみると、定義からも疎外されて所属を喪う〈二重の「ディアスポラ、難民」〉ということになろう。
(附記)『方丈記』について
言いたいことのなかから、3点を補足する。(1)大火、大風、大飢饉、大震災をつい昨日のごとく鮮明に書く筆者の筆力に感嘆する。しかし、三十年まえのことを鴨長明は書いているのだ。現在、二十歳の青年が、五十歳のあかつきにこの大震災を鮮明に描けるか。六十歳のひとでも、九十歳で、この地上がなくならない限り、存命の方は少なくないと思われる。いや、長明の教えはその逆であるはずで、われわれが三十年後を思いみることができるかどうかを問いかけている。(2)平家政権から源氏政権(鎌倉幕府の誕生)という、歴史的転回を、長明は大震災、飢饉、遷都などもて書き記した。歴史への想像力をわれわれへ試しているのが『方丈記』である。すでに役割も原子炉としての生命も終えているはずなのに、利権にしがみついてきた原子力ムラや行政を、歴史がどうこれから断罪するか。(3)近代以前、日本で言うと、太古から徳川社会まで、九十何パーセント、太陽エネルギーを活用してやってきた。薪炭のたぐいも太陽のめぐみから森林を介してもたらされる。しかし、『方丈記』はそのことを訴えているのではない。例えば大飢饉は最低三年、続くのが原則である。1年目の太陽エネルギーの不足や不調が、2年目の深刻な飢餓を人類にもたらし、3年目以下へと続く。だから、太陽のめぐみが順調な時を基準に考えるのでなく、つねに災害時を考え、その災害を最少にくいとどめる方法を基礎にして、われわれは社会を思いみよという、これは「災害史観」なのである。