正直、冷や汗をかいている。「好きな詩人は誰か?」私は詩を書き始めて以来、この問いに悩まされてきた。好きな作家も、好きな歌手も、好きな漫画家も、それぞれに思い浮かぶけれど、「好きな詩人」について口にするときは、その詩人の生き方をも愛し尽くさねばならない強迫観念にかられる。話の流れや相手の表情から、相手の期待している答えが見えてしまうこともある。詩人なら当然馴染んでいるはずの固有名詞。それらを咄嗟に語り尽くす饒舌な唇に、その軽薄な賢さに、何度思い焦がれたことだろう。〈好き〉という感情を自信たっぷりに語ってみたい、伝えてみたい。だのに、口にした途端その言葉を疑い始めてしまうので、本当に生きた心地がしないのだ。私が誰を好きでもいいじゃないか。ほうっておいてほしい。
けれど時折、そんな不安をいちどきに払拭する詩句に出会うものだ。
そのとき
さし延べた手のさきにふれる
扉のかたさ
まにあった
という言葉が胸の内で膨らみ
力まかせにひく(渡邊十絲子「九月雨」)
扉の冷えた感触とその重みが、読んでいる私の手にも確かに感じられた。鳥肌が立った。
今年四月、大学の図書館で開いた詩集、渡邊十絲子著『Fの残響』(河出書房新社刊)。固有名詞に疎い私にも、その詩人の名前にはうっすらと見覚えがあった。思い出したのは、高校生の頃、札幌の書店で立ち読みしたエッセイ集『兼業詩人ワタナベの腹黒志願』(ポプラ社刊)だった。詩人である自身の境遇・心境を巧みに皮肉った、かろやかな筆づかいに心が躍った。その本に出会ったことで、私は詩人への憧れをさらに膨らませたのだ。著者の存在を知りながら、長らくその作品を知らなかった自分が恥ずかしかった。
第二詩集『千年の祈り』(河出書房新社刊)は、一九九一年七月――私が生まれた年の月に発行された詩集である。『Fの残響』は技巧的な表現が多く、若さを強調していたのに対し、こちらは言葉が柔らかく、より実感に訴えかけてくる。
そのときわたしはみたのだ。
なにかが一瞬にひどく傾いて、
わらっているわたしのからだが
手足のさきからゆっくりと破片になり、
膝や臂のひとつずつになって
からからと音をたてた。
とびちった音は、
男のひとの顔に
痣となってしるされた。
かなしんでいる男のひとの横顔は、
堕ちていく花束のようにきれいだった。(「転調」)
とおくから来たのではない、
わたしは
さっきまでここで
つかのまの快楽によこたわっていた、と
つよくふりむけば
軸をするりと抜けた両眼のかたむきに
風景がおしよせながら背後へとなだれおち
濃い翳をおりたたみながら
わたしの五月をはかっている(「鏡像」)
著者の作品には焦りが感じられない。ここで踏み切ったな、という詩句は見受けられるが(例えば「力まかせにひく」「そのときわたしはみたのだ」「つよくふりむけば」という一節は、詩に瞬発力を与えていると思う)、あからさまな誘導がない。それでいて、不意に引き込まれる。イメージの中に在る作中主体と、それを一歩引いて眺めている書き手。空間全体を捉えて繋ぎ合わせる手腕があるからこそ、「踏み切り」が生きるのである。無駄を削ぎ落としたしなやか身体で、詩はゆったりと読者を待っている。
一九九五年に出た第三詩集『真夏、まぼろしの日没』(書肆山田刊)は未見(ネット古書店にて注文中)だが、いずれ紹介する機会があればと思う。それにしても、過去の詩集は手に入りにくい。渡邊さんの新しい詩はどこで読めるのだろう……。ご存知の方は是非そっと教えてください。
有山睦
on 6月 16th, 2013
@ :
文月さま
札幌の有山睦と申します。ご紹介されていた、渡邊十絲子さんの「今を生きるための現代詩」を読みました。
これは何度も読み返したくなるとても素敵な本でした。その感激を胸に、ひとこと感謝の気持ちをお伝えしたいと思いました。
ありがとうございました。