八番 しあわせ
左勝
ヒヤシンスしあわせがどうしても要る 福田若之
右
雪見酒なんのかんのと幸せよ 星野椿
「しあわせになる」「しあわせを手に入れる」とは言うが、「しあわせが要る」とはふつう言うまい。いささか不思議な日本語ながら、「手に入れる」対象になるものなのであれば、「要る」と指示することも不可能ではないのかもしれない。そのようにして統辞法の上ではぎりぎり受け入れることが出来るにしても、この左句にはなお奇妙な焦燥感、感覚のねじれのようなものが付き纏っているようだ。
ひとつの理由としては、ここで表明されているのが「しあわせ」の欠損だからということもあるが、どうもそれだけではないらしい。そもそも「しあわせになる」「しあわせを手に入れる」というような定型的な表現の背後には、知的精神的なものであれ、金銭や名誉、異性の獲得を通じてのものであれ、心理的充足感にいたるプロセスへの信憑が感じられるのに対して、左句の「しあわせがどうしても要る」にはそのようなプロセスが見えない、もしくはプロセスへの感受性そのものがあらかじめ欠落しているかのように感じられる。それがこの句のねじれたような印象を生むのではないか。人はしかるべくプロセスを踏んで「しあわせになる」ことも、それを「手に入れる」ことも出来るに違いない。しかし、「しあわせがどうしても要る」という言表と「しあわせ」とを繋ぐ回路が存在するとはにわかに信じ難い。これは、単なる不幸とも異なる、我々の現在の「しあわせ」との乖離感を的確に表現したフレーズなのである。
左句は、上のような一般的解釈でも充分面白いが、今年四月中旬という発表時期からすると、三月十一日以降の状況を背景にして書かれたと推定される。プロセスを消去した「しあわせ」の性急な要請は、従って制作の場に即して見れば、あまりにも大きな不幸を前にしての強迫的な感情の表出ということになる。加えて、震災と原発事故というファクターの読解への導入により、巧妙な言葉遊びの仕掛けが炙りだされるのもまた面白い。すなわち、原発事故の起こった土地の名をパラフレーズすれば「しあわせの島」であり、そこは皮肉にもいま最も「しあわせ」を欠損させている場所であるに違いない。そしてその「しあわせの島」の相対的な貧困と人口の稀薄さと距離(遠さ)が、富と人口を集中させた首都の「しあわせ」を支えるために、「どうしても要る」ものとされてきたのである。ちなみに、この国で二番目に富と人口を集中させた地域の「しあわせ」のためには、「しあわせの井戸」という名の別の土地が用意されている。
「ヒヤシンス」という季語にも心にくい仕掛けがある。三月から四月頃という花季のタイミングや、悲惨を際立たせる艶麗な花の美しさだけから斡旋されたわけではないのだ。花の名の由来となったギリシャ神話の美青年ヒュアキントスの逸話を踏まえたその花言葉は、「悲しみを超えた愛」。この句の文脈に置くと、祈りと皮肉が重なりあって見えてくるようだ。語調からしても上五「ヒヤ」と中七「しあ」の間で、iaの句頭韻となっており、「し」音が全体で三回繰り返されているのも効果的だろう。作者がどこまで意識していたかはともかく、一見したところの放胆さとは裏腹に、強烈な感情表現と文明批評のイロニーが多義的に錯綜する、精緻に作りこまれたテキストとして読める句なのである。
一方、右句の良さはあまり考えこんでいないところにある。正岡子規に、〈母の
毎年よ彼岸の入に寒いのは
という句があるが、右句も「なんだかんだ言っても幸せだよね」というような、我々の誰でもが口にしてしまいそうな(してしまったことがある)紋切型のセリフに、「雪見酒」なる季語を添えて俳句に仕立ててしまっただけのことである。しかし、「幸せ」とはおそらく、このセリフ、雪見酒というこの振る舞いに、共々そなわった凡庸さを受け入れることと多分に重複する何事かであるとも思われ、凡庸さを飄々と引き受ける右句のたたずまいには、それはそれでたいへん心ひかれるものがある。ではあるけれど、比較した場合の優劣となると、これはもうあきらかに左勝なのではあるまいか。
季語 左=ヒヤシンス(春)/右=雪見(冬)
作者紹介
- 福田若之(ふくだ・わかゆき)
一九九一年生まれ。開成高校の俳句部で俳句をはじめる。現在、大学生。掲句は、「週刊俳句」第二〇八号(二〇一一年四月十七日号)より。
- 星野椿(ほしの・つばき)
一九三〇年生まれ。祖父は高濱虚子、母は星野立子。現在、「玉藻」主宰。掲句は、第四句集『雪見酒』(一九九八年 玉藻社)より。