九十九番 肛門
左勝
肛門が口山頭火忌のイソギンチャク ドゥーグル・J・リンズィー
右
凩の突き当たりたる肛門科 佐藤郁良
この連載も残すところあと二回、どん尻。消化器系のどん尻は肛門。我ながらあきれるほど発想貧困にして上品な趣向と言わざるをえないが、雲古とか肛門とかは私の、ではなく、見ての通り俳句の好物なのだから許されよ。
右句もまた、「突き当たり」なる着眼に、肛門=どん尻という発想の貧しさが浮き彫りにされている。凩→冬の風→一年のどん尻という連想がそこにかぶさる。発想の貧しさなどというと批判しているかのようだが、そうではない。日本の文化は時に言われるように「貧」に基底を置いた文化だろう。日本人には、中国人や西洋人のように、豪華・壮大を価値の究極に置くことがどうしても出来難いところがあるようで、淋しいことであるが、誰の責任でもなく、そうなんだからそうなのだとしか言いようがない。でもって、貧の文化が生んだ言語芸術の粋が俳句である以上、発想の貧しさ自体、大切にされなければならない。今年のはじめに出た「俳句αあるふぁ」の増刊号「わたしの一句 現代300俳人書き下ろし自句自解」で、
月並の大き眺めをけふの月
という自句を掲げた加藤郁乎は、次のように述べている。
俳諧俳句は月並に始まり月並に終わる。詰まるところ、月並に生まれた俳諧はその臍帯感から容易に逃れようはずもない。月並が良いの悪いの云うのは二の次の話で風流罪過にむすびつけるなどはお門違いも甚だしい。
ここで郁乎がいう月並が、当方がいう貧の文化と繋がっていることは自明。右句は月並だけど佳いのではなく、月並だから佳いのである。芭蕉の〈塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店〉が月並だから佳いようなものだ。
しかし、月並にはやはり弱点がある。簡単な話だ。月並は、月並を超えたものと並んだときには光を失ってしまうのだ。これは語の定義からして当然のこと。で、どうでしょう左句。イソギンチャクの肛門がイコール口でもあるというのは、そうした方面に詳しい人には常識なのかも知れないが、とはいえこうして指摘されると意表を突かれる。その面白い事実を踏まえつつ呈示されたイソギンチャクを、なんと山頭火忌と取り合わせてしまう発想の妙。これはどうも月並以上であるし、卑下しながら居直った山頭火のずうずうしいありようが、イソギンチャクの揺らめく姿態の向こうに透けて見えてくるかのようで、アクロバティックに決まった感じがする。そんな次第で右句それ自体は悪くものの、並べると左勝ちではないかと思う次第。
季語 左=山頭火忌(秋 十月十日)/右=凩(冬)
作者紹介
- ドゥーグル・J・リンズィー(Dhugal J. Lindsay)
一九七一年生まれ。須川洋子、加藤楸邨に師事。「季刊芙蓉」所属。掲句は、第二句集『出航』(二〇〇八年 文學の森)所収。
- 佐藤郁良(さとう・いくら)
一九六八年生まれ。中原道夫に師事。「銀化」副編集長。掲句は、第二句集『星の呼吸』(二〇一二年 角川書店)所収。