「聖なる淫者の季節」 白石かずこ
男とねていると わたしはすぐ
10年くらい ねむる
男は ねむりである
セックスは薬である 麻薬である
愛は憎しみであり 骨である
嫉妬の先に ブラサガッタ恋が
宇宙のオモリである
ようやく わたしを
めざめへと 猛進させる(259行-267行)
…
男とは 通りすぎていく影である
影が真実であるか フィクションであるか
だが
生きてすぎていく
男たちは 影である(321行-325行)
思潮社現代詩文庫125「続・白石かずこ詩集」(1994年刊)より
詩人白石かずこはヒジョウニ誤解されている、と私は思う。白石自身《わたしほどconservativeなヒトはいないのに》と時折話されるほど。ここで いう“conservative”の意味するところは、《いいうちのお嬢さん》ほどの意味で、じじつ生誕地カナダ・バンクバーの小学校にオーガンジーのひ らひらのドレスで通学し、みんなにスカートをツママレテイタ。そんなお人形さんのようなお嬢さんが帰国子女として日本の大学生になって、詩を書き、そのあ まりの日本語の奔放さと輝かしさに周囲を驚嘆させた。おまけに押しも押されぬとびきりの美女なのだ。周囲の驚きは美意識の面だけではなかった。彼女の男性 観の自由さにも。そしてセンセーショナルなネーミングがプレゼントされた。性に関する言葉を発するタブーの侵犯者として、詩人自身は認められるまで長く辛 い時期があった。今読み返してみると、白石の詩は愛と決意の詩であることがわかる。愛が決意となるときそこに性がある。そして性から精神的エネルギーが活 性化される。白石詩の最も大きなテーマは精神的禁止への挑戦だろう…。
全7章1500行を超える長詩から成る詩集『聖なる淫者の季節』 (1970年思潮社刊)はそのスケールの壮大さ、形式の斬新さ、愛の思念の深さ、自意識と直結した自由闊達な語法、感覚の贅沢さで群を抜いている。この詩 において白石かずこはみずからは傷付きながら女性から長いこと奪われていた性の言葉を取り返す。女性のひとりひとりがこの先輩詩人が決意として獲得した財 産を自分自身の人生において有効活用し、自分自身の愛の中で性を求め、また克服すべきは自分自身の内面にあることに気付こう。
私にとって最も大きな影響は白石詩の現在性(presensiteプレザンシテ)である。いまここ、現在進行中の言葉を日常語で発し続ける。それでいて十分に観念 的である。現代詩が世界中の因習に対してショックを与えることをその本質とするならば、白石かずこの詩はすべての面においてその典型であると言えるだろ う。