守中高明「二人、あるいは国境の歌」より
(これは
どこまでも外へむかって崩れていく
太古の石室に似た私たちの肉体
薄く剝がれるものへの親しさと
影をつくるものへの敵意を孕んだ暗箱なのだろうか
私たちの瞳の写しとるいくつもの命法
曰く
「神と猿人の本性を尊重せよ」
「汝の洞穴を濡らすべし」
「川を焚き、
あらゆる像の源流へと遡れ」
降りしきる寒い灰のなか
物語の骨が露出する
これはもはや朽ち果てた遠近法
すでに人ではない
私たちという音域の交替なのだろうか)
地元へ帰った折、自動車で1時間ほどかけて気仙沼に立ち寄った。昔、中学の部活で行った大会の会場は、山の上にあったのでたぶん残っていた。けれど、毎年のように使っていた民宿は海岸沿にあったので、カーナビを頼りに探してみたけれど、草の生えた基礎しか残っていなかった。こんな時でもなければ思い出さないような昔の出来事だったので感慨深い思いもなかったけれど、思い出の場所が変わっても思い出は変わらない、というわけではないらしいというのが分かった。そういうことを書いていると物の見方が変わった。詩が持っているそういう柔軟性は良くも悪くも、だなあ、と思う。
別に比較したとかそういうわけでもなく書いている今、この時において昨日あった出来事を書いてみただけだった。それでもなんとなくそれなりの体裁に収まってよかったと思った。いろいろと結びつけてあーこれ語りやすいなーと思うこの語りやすさは、出来事と結び付けられる射程距離の広さや抽象言語の使いどころによるのかもしれない。あらゆる文脈においても成り立ちうるような幅の広さは、一方で詩の持つそれじたいの強度(というと逃げてしまっているけれど)や、遠近法として語り手の人格が一人称にならないような、どこか中性的な手つきによるものなのかもしれないと思う。ある種の思想めいた言葉としての抽象的な強度を保つことで、具体的な物語が出現しないこと? それは一方で何も語っていないことに結びついてしまう危うさがある。実際なんかいいこと言ってるような気がするだけで何も言ってないなあという詩もあったりする。その時、書く身としての思わせぶりな態度をどれだけ最後まで突き通せるか、あるいはそれじたいとして文句が言えないようなレベルまで、どれだけ自分の詩を高められるか。反対にしっかりとした主題なり何なりを練ったうえで、それがあけすけに露出しないような態度を持ち続けられるか。それは、初期設定としての語り手の視点の問題もあるのかな。べつにそうすることがいいというわけではなくむしろあんまりしない方が逃げにならなくていいと思う方なんだけど、まあ、そういう詩をそういうものとして見た時のレベルの高さってあるよなあ、と思った。