朝食 藤井貞和
ぱんのあな、ぶつぶつ
かわいいねえ
あなのひとつひとつに
イーストきんがすんでいてさ
おうちをつくっているわけ
ぼうやがでてきて、ふくらんで
イーストのパパは
たたかうのさ、ボクサーみたいに
それから
ぱんやききで、やきころされる
イーストのパパと
イーストのママと
イーストのぼうや
そのしがいのつまったアパートを
ちぎってたべる
なんて、できないよ
ちょうしょくのぱんはだいきらい
それなら
おとうさんの、すきなものは?
うん、ボクサー
なにがすきなの?
パンチとパンツ
こわくないの?
こわいよう、15ラウンドがおわって
16ラウンドのゴングがなったら
こわいね
詩集『ピューリファイ!』(1984年)から
漢字を使わずにひらがなとカタカナで書かれた、まったくの会話体の語り。いや、もしかしたら会話じゃなくて、ひとりごとの呟きみたいなものかもしれない。しかも内容が、おさない。「やきころされる」等の残酷な言葉もあるにはあるが、これも幼児性が呼び込む無邪気な残酷(大人視線での)といえるだろう。作品に流れているのは、「ぱん」をめぐる他愛のない想像の羅列だ。
感心するのは、作品の風貌からも、語りからも、内容からも抑圧が解除されていることだ。抑圧がない状態というのは、自由ということ。普段、わたしたちが「作品」を成立させるときに、そこに詩的な外観やこざかしい知性、これ見よがしな感性を、しらずしらずに付加してしまう。自由な表現というフリをひとまず装いながら、そうした詩らしい制度を採用してしまうのだ。この作品は、その制度からどれくらい自由でいることが出来るか、という取り組みと言ってもいいかもしれない。むろん、表現である限りはまったくの無抑圧とはならないのは仕方のないことだが。
しかし、この詩を読んでいると、わたしたちのなかの知の鎧みたいなものが無効化されていく気がするのは確かだ。その面白さを純粋に楽しみたい。ナンセンスに紙一重の自由な語りだけでなく、ここでは「かわいい」、「たべる」、「すき」、「きらい」、「こわい」といった原初的な感情に属するもののみが尊く、作品を動かしていく。