笑ウトモ泣クトモ無重力ノデブ 田中信克
少し前、レディー・ガガの体重増加が話題となったが、肥満という概念はいつ生まれたのか。
一説によると、肥満は古代ギリシャ時代以前から存在していたそうだ。しかし、平均寿命が短かった当時は、成人病等が問題にならなかったため、肥満は豊かさの象徴であり、誇るべきことだった。国の豊かさの指標として、国王の体重が毎年国民に公開されていたこともあったらしい。
しかし古代ギリシャ時代を迎えてから、人々の考えは一変した。「精神と肉体の調和」という思想が生まれ、肥満は軽蔑の対象となった。
その傾向が、現代社会まで続いていることは、衆目の一致するところである。一般的に、肥満は成人病の増加につながり、社会医療費が圧迫されることから、あまり歓迎されない。「デブ」が蔑称であることからもわかるように、ぽっちゃり型の人間は、自分の欲望に忠実な(悪く言えば負けてしまいがちな)傾向があると評価されやすい。反面、実際以上におおらかな人間と思われる場合もあるようだ。良きにつけ悪しきにつけ、実際以上に周囲から先入観をもたれやすい。
でぶが、それぞれ時に応じて人々のうちに引き起こすもの。それは滑稽味であり、幻滅であり、憐憫であるとともに、栄光であり、美であり、好奇心であり、善意であり、同情である。(注)
肥満をテーマにした文学作品は少ない。例えばモーパッサンの代表作である『脂肪の塊』は、主人公の豊満な体型が、彼女のおおらかな人柄や肉体的な魅力(あるいは周囲の人々の侮蔑)を表してはいるが、題名と違って、肥満そのものが文学作品のテーマになっているわけではない。美術の分野でルーベンス、ボテロといった肥満愛好者(?)がいるのとは対照的だ。
俳句作品も例外ではないようだ。
八月十五日真幸(まさき)く贅肉あり 池田澄子(『ゆく船』)
池田には「戦場に近眼鏡はいくつ飛んだ
」という秀逸な反戦作品があり、そちらに目が向きがちなのであるが、この句も身近な視点から深いテーマを呼び込む、池田らしい佳句である。太平洋戦争後の混乱期、闇米の配給を拒否して栄養失調死した山口良忠判事のように、飢えに苦しんだ人々はたくさんいたはずだ。「贅肉」は食べ物を思いのまま口にできる、幸福の表れなのだ。
花舗(かほ)
香(かを)る
あまりてなどか
腹(はら)の肉(にく) 林桂(『銀の蟬』)
この句の「あまりてなどか」は百人一首39番、参議等の「浅茅生の小野の篠原しのぶれどあまりてなどか人の恋しき
」を借用したと考えられる。本歌は「(忍ぶ心を)がまんできないで」といったニュアンスだろうが、この句は、「どうして(腹の肉が)余ることがあろうか」といった、反語の意味で使われていると読み取れる。忍ぶ恋から「腹の肉」への転換の妙味。あえて自分にこう言い聞かせなければならない、肥満中年の悲哀を感じさせる。「花舗」が、逆説的に「加齢臭」を感じさせるのもこの句のポイントだ。だが、この句の「腹の肉」は、本人にとっては屈辱であっても、周囲の人間にとってはさほどインパクトを与えない程度のもののように思われる。
前置きが長くなったが掲句。
「万有引力とは 引き合う孤独の力である
」有名な谷川俊太郎の詩の一節だ。地球から脱出し、無重力空間に遊泳するデブ。デブが存在するのは、「引き合う孤独の力」すら存在しない宇宙空間。デブは選ばれた存在=宇宙飛行士、ではない。莫大な予算がかかっている宇宙開発事業は失敗が許されず、宇宙飛行士候補者は体力、知力、健康、人格面から厳しくチェックを受ける上、ハードなトレーニングも待っているからだ。彼(彼女)は、民間宇宙遊泳が可能になった時代の一旅行者である。
茫漠たる、孤独な宇宙空間。そこで自分の存在の儚さを全身に感じ、デブは心を強く脅かされる。心身共に孤独に押しつぶされそうになる。しかし全力で泣いて喚いて宇宙空間と対峙しようとも、デブの叫びは地球に届かない。
この句は主人公が「デブ」でなければ成立しないだろう。十七音しかない俳句形式は、読者にある程度自由な読解を保障するが、この句では肥満にまつわる先入観が、よい意味で彼(彼女)に人間味を与え、評釈に幅を持たせるのだ。彼(彼女)の持つ存在感が、この句にリアリティと厚みを加える。
作者、田中信克は1962年生。掲句は『二十一世紀俳句ガイダンス』に収録。
電極を胸に六千回の夕陽 信克
衛星に囲まれ不遜なる授乳
(注)『でぶ大全』ロミ&ジャン・フェクサス著 高遠弘美訳 作品社