なんでも一番 関根 弘
凄い!
こいつはまつたくたまらない
せっかくきたのに
摩天楼もみえぬ
なにがなんだか五里霧中
その筈!
アメリカはなんでも一番
霧もロンドンより深い
嘘だと思う?
職業安定所へ
行って
試してみろ!
紐育では
霧を
シャベルで
運んでいる!
詩集『絵の宿題』(一九五三年)より
ある時代に評価された作品であっても、時代状況が変化していくなかで、次第に読むに堪えなくなるものがある。その当時は読者に感動を与えた作品が、後年ではどこがいいのかなかなか分からないという事態になるは、詩のみならず芸術作品全般に共通する問題といえるだろう。
関根弘の初期の代表作とされるこの作品も、当時の時代状況の中では新鮮なタッチでアメリカ文明が頭に乗っている様子を寓意的に揶揄しているあたりで喝采を浴びたと推測できる。むろん、簡明な口語の言葉づかいで、実にシンプルに対象を選び取り、直接的なメッセージを語ることなく、アメリカの「なんでも一番」でないと気が済まない尊大さとその文明のありようをオチョクルあたりが面白いのは理解できる。率直に上手いと思うし、もしかしたら、左翼詩人の視座からは、「霧を/シャベルで/運んでいる」というあたりの、労働者が霧(スモッグ)をシャベルで運んでいるというナンセンスが重要だったのかもしれない。しかし困ったことに、現在の感覚で読むと、書法にさして特徴も感じられず、揶揄にしてもこの程度でいいのかしらと感じてしまう。状況が推移するのは残酷なことだ。
作品はその時代のさまざまな制約の中で作られる。だから、その制約を前提にしなければ見えてこないものがあるし、逆に言えば、その制約を理解しようとしながら読めば当時の輝きをそれなりにリアルに味わえるということだろう。クラシックといえる作品が現在でも人々を感動させるのは、普遍性といった便利な言葉を使ってもいいのだが、それよりも作品の中に現在の人々が共感できる要素がどれほど存在しているか否かにかかっているのだと思う。この「なんでも一番」を目にするたびに、作品の持つ現在性という問題を考えずにおれない。