自由詩時評 第3回(福田拓也)

 第49回現代詩手帖賞を取った榎本櫻湖の「陰茎するアイデンティファイ ――あらゆる文字のための一幕のパントマイム――」(『サクラコいずビューティフルと愉快な仲間たち』第二号、2011年3月20日)は、晦渋な中にも鮮烈さ・みずみずしさを湛えた長編散文詩だ。

 デュシャン、エリュアール、シャールばりのそれ自体一行の詩になっている長い題名のついたいくつものパートに作品は分けられている。「《記号と非記号のはざまで割れる柘榴、よりも》」と題された最初のパートは次のように始まる。「……蠢動と顫動のさなかに滴る蜜月の、海洋へととめどなく流れゆく吐血による櫛水母の残骸を集め、瀕死の刺胞生物から他の刺胞生物へと伝達される、ありうべき脱臼、帯状に引き延ばされていく虚ろな風浪は、剥落する樹皮の内側でどよめく樹脂に絡めとられた華やかな石化しゆく糸、波濤から波濤へと伝播する、分泌の論旨に、〈つまり陰茎は覚束ない花器として一輪のカーネーションを挿されて佇んでいる〉のであり、並ぶ死滅の瓦壊に畏怖の亀裂を目撃し、抉られた鼠蹊部の暗澹と落ち窪む猶予をひときわ勤しむ……」

 「陰茎するアイデンティファイ」という題名自体が「陰茎」を「ファルス」とすれば(しかし実際はそうではないところが重要だ)既にフロイト=ラカン的であるが、「瀕死の刺胞生物から他の刺胞生物へと伝達される、ありうべき脱臼」という部分は、「シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を表象する」というラカンの命題を思わせる。「主体」は「ありうべき脱臼」として、あるいはラカンの言う「シニフィアンの連鎖の中を滑走するもの」「ひとつのシニフィアンを特徴付けるものと他のシニフィアンとの間の仲介的効果」としてある。実際、このテクストに於いては、「瀕死の刺胞生物から他の刺胞生物へと」「波濤から波濤へと」、「死滅」から「死滅」へと、シニフィアンからシニフィアンへと、あるいは「文字」から「文字」へと主体は「伝達」・「伝播」されるが、その主体が何らかの最終的意味を保証するかに見えることはない。生まれかけた意味は、単なる「仲介的効果」として廃棄され、その「瀕死の」「文字」から他の「文字」へと受け渡されるだけである。作品末尾の「*上演に際しての但し書き」は、このような滑走、あるいは「変容」について語っているととりあえずは考えられる。「あなたがたは、それぞれが独立した一個の文字としてあるべきで、文字はつねに蠕動する主体として蠢き、それであっても舞台のうえにおいては、ときどきはなにかしらの意味を持たされて束の間、文字としての本来の形状に固定されるのだが、果敢なく動きまわる文字群の波に呑みこまれて、その小さな期待は奪い去られ、しかし文字群は静止することを許されてはいないため、たとえ恰も停止しゆくかのように見えたのだとしても、それでも緩やかに変容しつづけているのだということを忘れてはならないし、[……]」

 「文字」から「文字」へのこのような「変容」、滑走がこのテクストでの榎本の詩であると言える。滑走としての詩は、ここで今現に書かれつつある詩を自己表象し、隠喩化している。しばしば今書かれつつあるテクストの自己表象によって隠喩を展開したシュルレアリスムの自動記述との近親性をここに見ることもできるであろうし、ドイツロマン主義、ハイデガーの「解釈学」、そして無意識について語る言説の中に無意識があるとするラカンの理論へとつながる一つの系譜の帰結をここに読み取ることもできるだろう。詩的滑走の隠喩として機能するのは、「帯状」のもの(「帯状に引き延ばされていく虚ろな風浪」)、「糸」状のものだ(「華やかな石化しゆく糸」)。そして、この紐状のものは、別の部分で「蛇のようにのたうつ露悪的な器官」と書かれた「陰茎」でもあり得る。

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One Response to “自由詩時評 第3回(福田拓也)”


  1. 自由詩時評 第7回 福田拓也 | 詩客 SHIKAKU - 詩歌梁山泊 ~ 三詩型交流企画 公式サイト
    on 6月 10th, 2011
    @

    […] 自由詩時評 第3回の続編になります […]

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