一方井亜稀氏の詩集『疾走光』に収録されている「倦怠」はいくつかの時間が錯綜している。それはあらゆる速度と場合を踏まえつつ、一方で、そこに目配せすることを「待機するため」の時間に思える。たとえば信号機のまえで待っている人々の時間と、街を低空飛行するカレーの匂いの目的地に到達する(あるいは目的地などないのかもしれない)時間はまったく関係を持たないように思える。速度という意味でもその状況ということであっても、それらが交わることはなく、常に隣り合わせで、互いを見つめあうようにしてそこにある。
「倦怠」という作品には、「春の夜更け/雨垂れの音を聞くように/頭半分/のぼせながら/来たのだった」とある。なにが来たのかということが、詩のなかで具体的に語られることはない。ただ、詩集全体を通してそれは朧に浮かび上がってくる。「来たのだった」というときに生じる速度と、それが来るまでに生じるであろう「待機」の時間がそこにはある。
ちらほらと
ネオンがつき始めた街に
カレーの匂いが
低空飛行する
という嗅覚の描写には、速度感が生じる。匂いというものは「ただよう」ものであるという先入観があるため、「匂い」が「低空飛行」するという文章の裏側には、何か、不思議な形容しがたい飛行物体が浮かび上がる。
「倦怠」のただなか、それはたしかに「一年ぶり」に来たのだったが、それにより突如としてそれまでの「待機」の時間が打ち破られる。それは、
点滅する
信号機を振り切って
青年が
道の向こうへ
渡ってゆく
という描写にあるように、本来的には決壊するはずの「待機」の時間である。つまり、同時にそれは「猶予」の時間ではないか。信号が青である時間というのは「猶予」の時間なのであり、来るべきときに備える時間なのだろうか。だとして、青年が渡ってゆく道の向こうには何があるのか。
この「倦怠」という作品の次にある、「雨」という作品では、「少女の死骸」が、「待っている」のである。青年はここにも登場しているが、「待機」の時間はより鮮明に、しかし、その眩しさゆえに奥まったけはいを(奥行を)浮かべている。
春であり、夕暮れであり、雨の降るなかを、「猶予」の時間としてあるということ。すなわち猶予が担保されるのは、そこに予感があるからで、予感をすべての代償として差し出すためには、そこに作品さえあれば良いのかもしれない。
そしてそれらをすべての「速度」と「待機」でまとめあげたときには、いつも予感と、見えない向こうにある淡い希望のようなものが、浮かび上がってくるのかもしれない。