廿楽順治の詩集『化車』に於けるこの「いつまでもおわってくれない」「ひとのにほんご」を、「わたし」の外側で周囲の者たちが語って来た言葉の断片の集積であるとみなすことも可能だろう。しかし一方で、かつて聞いた様々な声が内在化され、それらが「消化のとちゅう」の「くいもの」の如く、「わたし」のうちから「噴出」していると考えることもできるのではないか。
あるけなくなってもものはくえる。たくさんくえる。おれのどこかが破けているのかもしれない。くいものがわき腹から出てぬれてる。消化のとちゅうでくいものが噴出する。どばどばどば。いっぱい出てる。(「化車」)
実際、「ひとのにほんご」とは、他者の声であり「わたしの現象」ではないにもかかわらず、崩れた不完全なしばしば断片的な言葉によって「わたし」の知覚・感覚を確認したり、「わたし」の様々な行動の可能性を検討・修正するような異質で多数的な声や言葉の寄せ集めとしての内的言語のことではないのか。また、逆説的に言えば、「わたし」とは、「わたしの現象」の終わるところで出会われる様々な声や言葉のパッチワークとしての「ひとのにほんご」の別名ではないのか。
つまり、「ひとのにほんご」とは、「わたしの現象」を構成する言葉の複合体であり、したがって「わたし」にとってもっともなじみ深い身近なものであると言える。しかし、このもっとも親密な「わたしの現象」そのものであるような声たちが詩という器に盛られるともっとも疎遠でなじみのないものとなる。例えば、「だろ?」というような確認の声、「はだしだもんな」というような呟きは、絶えず「わたし」の中で鳴り響いているもっともなじみの声であり得るが、それが詩集の中に入れられると詩の中に詩ではない言葉が闖入して来たかのような効果を生み出す。また、「やちまた/のはてに立つじぶんら/ぶきようですから」(「やちまた」)というような科白や「シラネエヨ/そういう態度はちがうでしょう」(「やちまた」)というような日常非常によく見られるようなやり取りについても同様のことが言える。
異質な声・言葉の断片群から成る奇形的複合体としての『化車』という詩集は、その詩語ならぬ詩語を通して、一番身近で親密なものを一番疎遠でなじみのないもの、「不気味なもの」(フロイト)へと変貌させる屈折の働きそのものである現代詩というジャンルを絶えず浮き上がらせている。ジャンルとしての現代詩とは、フーコー流の言い方をすれば、詩と詩でないものを選別・差別する「諸規則の総体」であると言うことができよう。例えば、「だろ?」、「はだしだもんな」というような一番身近な言葉を詩集の中に置き、それらを詩語としてはかなり異様なものとして現われさせることにより、廿楽は、現代詩というジャンルの所在を読み取らせようとしている。あるいは、この詩集に集められた様々な声と言葉の断片群は、その意味と同時に、詩集に於けるその異様な相貌によって、それらが現代詩というジャンルに属する言葉であることを語っている、と言ってもよい。