台湾という鏡
「台湾の現代詩」
というと、どういうどういう印象があるだろうか。
「台湾の現代詩といわれても」
そういう声が返ってきそうだ。
確かにここ十年ばかり、同じ東アジアの中国や韓国の詩は、日本でもだいぶ紹介されるようになったが、台湾の詩というとあまり印象がない。もちろん、台湾は建国から百年もたってなく、歴史が浅いということもある。しかし、その源泉は中国であり、「聯合文学」を中心に多くの詩が書かれている。日本語訳も、思潮社から「台湾現代詩シリーズ」が現在まで、十冊刊行されていて、いま台湾で活躍する様ざまな世代の詩人の作品を、系統的に読むことができる。実際このシリーズは、一人の詩人の作品をその作品の変遷が、分かるようにあまれていて、それが十人も読めるという、貴重な企画といえる。このようにある国の戦後の詩を、網羅的に紹介する仕事はまれで、総合プロデューサーの台湾文学の研究者、三木直大さんに感謝したい。
しかし、なぜ今時評で台湾の詩を取り上げるのか、疑問に思うだろう。そのことを考えるために、少し台湾の歴史に触れたい。いうまでもなく敗戦までは、日本は台湾を植民地支配していた。
台湾が中国の版図に入ったのは、元代とされているが、諸説があり確定せず、清代が最初というのが定説だ。17世紀前半にはオランダ東インド会社が支配し、後半には、明の遺臣鄭成功が、清朝への抵抗の拠点として統治した。その後は清朝支配下になったが、1895(明治二十八)年、明治政府は台湾に侵攻侵略する。同年に台湾総督府を設け支配を確立。はじめは強硬な弾圧を行うが、やがて、総務長官になった後藤新平が、硬軟あわせた政策に転換。それでも、この間に数千人の処刑を行っている。その後日本の軍国化に伴い、同化、皇民化政策が進み、戦争にかり出しただけでなく、台湾の文化を踏みにじっていく。これは終戦まで続く。
終戦後は中国共産党に敗れた国民党による支配となる。先に定住していた本省人と中国本土から来た外省人が衝突し、内乱となった。そのため、国民党の蒋介石は本省人の弾圧を始め、数万人が惨殺された。二・二八事件である。さらに、国民党の一党独裁の弾圧は続き、約四十年にわたり、何十万人の犠牲者が出たかは把握できない。民主化がなったのは一九九六年とごく最近だ。
紙面の関係で極めて雑だが、台湾の歴史に触れてみた。分かるのは、まず被支配の過酷な歴史が続いたということだ。次に、20世紀の前半のほぼ半世紀は、日本が支配者だったということ。一方、日本は最初は欧米諸国によって、国を開かされたものの、アジアの国々に関しては、植民地支配者の顔をし続けた。敗戦後も経済的な優位を保つことで、支配者の顔をし続けたといえるだろう。いわば、隣国という位置にありながら、まったく正反対の歴史をたどったといえる。そして、当然そのような歴史は言葉にも表れる。台湾の詩の言葉を考えることは、日本の詩の言葉を考えることでもある。
うれしいことに、台湾の詩に関してはただ読むだけではなく、実際に詩人にあったり朗読を聞いたりもできる。2010年から3回、「台湾現代詩シンポジウム」が行われている。これまでに、7人の詩人が来日し講演と朗読を行っている。ただ残念なことにお客さんは、台湾文学の関係者が多い。実にいい企画なので、多くの人が足を運ぶと良いと思っている。
話はそれたが元に戻る。
第一回に来日した向陽(シアン・ヤン)の詩は、日本の詩の言葉との違いが、明確に表れていて面白い。引用からは残念ながら、その部分をうかがい知ることはできないので、引用はしないが、詩には様ざまな言語が詰め込まれている。もちろん日本にも吉増剛造など。多言語的な詩がないわけではない。しかし、それらは実際の生活の場と、つながっているわけではない。言葉の考古学ともいっていいような、古層に降りていくことによって成り立つ多元語だ。一方、向陽の詩はまさに地続きに、多言語が成り立っている。実際、今の台湾は台湾の中国語、中国の中国語、さらに旧支配の日本語、英語など様ざまな言語が交差している。祖の土地の中国本土と生活の場の乖離もある。被支配と国内の分裂と闘争、そのような不幸な歴史が、皮肉にも言葉の厚い層を創り、豊かな詩の言語になったのだ。
翻って日本はどうだろうが。先ほども書いたように、常にアジアに対しては、支配者の表情を見せてきた。「脱亜入欧」という近代日本のスローガンが、よく表している。そしてそのことが、自らの言語を狭め、多様性を奪ってしまったといえないだろうか。そのため日本の詩は外に向ってではなく、内側へと屈折していく傾向が強い。萩原朔太郎における言語の女性性や、吉増の一連の仕事はその典型であり、もっとも日本語を内側に広げたといえる。
今年も十月一日にシンポジウムが行われ、 鴻鴻(ホンホン) 、許悔之(シユ・フイチー) 、陳育虹(チェン・ユィホン)の三人の詩人が来日した。前の二人は六十年代の生まれで、陳さんだけは五十年代だが、詩が評価されたのは二〇〇〇年代で、台湾でも新しい世代の詩人たちだ。それぞれが、『新しい世界』『鹿の哀しみ』『あなたに告げた』という撰詩集が「台湾現代詩シリーズ」に入っているので、最新詩集から引用する。ちなみに、『新しい世界』と『あなたに告げた』は、今年刊行されたばかりだ。
逃げるパイナップルは油絵の中に隠れ
逃げるブタは家のうしろで
月を恐れている
ああ、ざわざわと身震いする一面の稲穂は
まるで予感しているようだ
明日の朝の鉈を(鴻鴻 三木直大訳「田園詩」部分)
その直後、ぼくは星の輝く下
砂浜に乗りあげた鯨のように
顔を寄せてあえいでいる、巨大な肺腑と
心臓は溶けて水となり
天に昇り昇って雲となり
空の涙を飲みつくし、雨となって
果てしなく広がる大海に降り
やわらかく韻をふみながら降りそそぎ
海のように広がる胸に降る(許悔之 三木直大訳「昨日ぼくは悲しみを感じた」部分)
町にはそこの沈丁花と
いばら草、堀と橋
明け方と夕暮れがある
そこの愛、欲望
そして痛みがある(陳育虹 佐藤普美子訳「町」部分)
これらの詩には顕著な多言語性はない。翻訳の問題もあるが、朗読を聴いた限りでも、まったくとはいえないがそれほど強くはない。しかし、言語の層の深さは現れている。言語の深さは思考の深さであり、いかに多くの他者として自らの言葉を捉えること、といえないだろうか。これらの詩に共通するのは、主体は主体であってな他者である。ひとつの風景としてありながら、間違いなく一人の人間の声としてある、ということだ。
もちろん、台湾の詩のごくごく一部に触れただけだし、日本の詩もすべてひとからげにすることはできない。しかし、3人の詩と、90年代2000年代の多くの日本の詩に、特長として見られる部分を考えてみると、その違いは明らかだ。反論もあるだろうが、90年代以降の日本の詩は全体的に、3人と比べてみて、読者の想定範囲が狭いような気がする。それだけ、時代の特殊な情況の感覚を背負っている、といえる。90年代はよりメディアの意識に近接し、2000年代は個人の感覚を大切にした、という違いはあるが、特長として、
「等身大の私の擬態」
を感じる。その擬態そのものを描くことと、擬態した私の原型をたどっていく、というような詩が多いように思えるのだ。もちろん自分も含めてであるが。前者は川口晴美や三角みづ紀や文月悠光に、後者は野村喜和夫や岸田将幸に、その優れた表現を見ることができる。もちろんこれらは、現在の日本の詩の高い達成ではあるが、外的な情況との接点のうすさは免れない。つねに内部へと向かう広がりである。
しかし、今立ちどまり、内側から腐っていく木のように、すでに内側は空洞なのでは、という思いがわいてくる。
「台湾の詩を鏡として、見えてくる私たちの現在」
いま突きつけられている問題が、朧に現れてくる。