「現実を2通りに生きる」
昨年の8月から、1年半の間に発表した作品をリストしてみたら、およそ20篇あった。自分自身の作品を、距離をとって読んでみると気付くことがある。自分は現実を2通りに生きているらしい。多分、自分の体質はこれだ。親兄弟が生きてきたような生き方、それに私は、いちばんお金のかからない、机の上の、ペンと紙の世界、現在はパソコンとのハイブリッド、の現実を載せた。やがて同胞的現実への敗北感が強くなると、しだいにペンと紙の現実が肥大化してそちらのほうの充実感に浸った。しかしいつももう1つの現実への視線は怠らないできた。もちろん能力の範囲内でだが。もうこれで最後まで行くっきゃあるまい。
詩誌『現代詩図鑑』2011年晩秋号から:
「線分」 真神博
空に線を一本引いたものが
私の身体であるとしたら
ちょうどあそこから あそこまでだ
引かれた瞬間
誰かを損なったか
空は 何かが続いているわけではないのに
ずっと空
地上では
降りしきる雨の中
私は蜉蝣の身体で
人工物に止まり
翅を震わせているが
空では線分として
はっきりと目に見えている
全力でそこにいる
地上の私が滅びそうな時に
近づいて来る
しかし私には
自分が空と言っているものが
いつ発見されたのかも分からない
そこに自分はずっといるのに
時間の形では
地上に身体を持っている
空は別な意味を持ち
さらに
別な意味を持つ
全身で空を感じながら
私はまだなのかと思う
そして
何がまだなのかと思う
(全文。原詩は縦書き)
同じ号の中で、川沿いの自転車走行を描いた岡島弘子の「永い日」にも同様の空間を感じた。
いくつもの詩集も印象に残った。詩の引用に行数を使ったので、そのことは次回に譲る。みなさま、お元気でよいお年を。