自由詩時評 第36回 金子鉄夫

  • 逸見猶吉

 逸見猶吉という詩人がいた。目がチカチカするようなカタカナの詩「ウルトラマリン」をものにした無頼で大酒飲みの詩人である。あまり有名ではないが局所的には、それなりに名を誇った、破天荒なこの詩人の「初」といってもいいような評伝が刊行された。『詩人逸見猶吉』、著者は尾崎寿一郎、版元はコールサック社である。このような知られざる詩人の詩業が歴史的な観点を参照としながら現代に丁寧に一冊に纏められるのは嬉しいかぎりである。内容はやはり逸見が傾斜していった「谷中村の鉱毒事件」に関して多くのページが割かれているし、逸見詩の純粋な解説とは少し違っているが、鉱毒事件に激しく掻き立てられた逸見の「反抗的獣性」こそが「ウルトラマリン」を書かせたのだ、と納得して本書を書いた尾崎氏の記述魔的な、ある種の偏執を持った仕事を労おう。しかし、見解をズラせば「鉱毒事件」という現代にも通ずる事柄に固執した逸見を社会学(が、どんなものか僕はおぼつかないが)な見地から良い資料とするのは、あまりにも安易過ぎるか。とにもかくにも「ウルトラマリン」をはじめ、史の裏側へ埃を被ってしまった逸見作品を少しでも知りたいとおもえば一読すべきである。こういう「げんだいし」のルーツを探求するような仕事がもっともっと増えるべきである。

気園ヲメグル縦横ノ驕リ ギシギシト凍ル
ウルトラマリン・デイプノ驕リ
兇牙利非情ノマン中ノ誰ダ
喇叭ヲ吹キナラス誰ダ

(逸見猶吉「ウルトラマリン」より抜粋)

 あぁ目がチカチカする。ちなみに「ウルトラマリン」とは、そのままの意味で「深い透明な群青色」である。

  • 去年のこと、「今日の詩」とやらについて

 しかし去年のことを考えれば、「あのこと」を無視して語るのはいささか白々しいし、さりとて語ったところで一段と白々しいのは同じだが、やはり、動揺するしかない。去年一杯、色々なディスクールが巷に氾濫したが端的に言えば僕に言うことはない。が、良くも悪くも他者への想像力というもの考え続けさせられた。いつだって、そうである。他者への想像をやめないかぎり、また違った身振りで捉え直せるのである。 

 しかし、脳が溶けかかっている僕に言えるのはここまでである。、と新年、あけてあけて、あけましておめでとう。ちょっと他の時評者を見れば上記した逸見猶吉と合わせても字数が足りないのじゃないかと心細くなり「今日の詩」(カッコワリぃ言い方だな)とやらを探してみた。

「現代詩手帖」最新号。新年早々、「現代詩手帖」をひらいてみれば作品特集である。数多の名のある詩人が書いている。中には「現代詩」の化石と化したつまらねぇ詩を発表している詩人もいれば(おっと僕はまだまだこれから、「詩壇」とやらで詩を書いていきたい駆け出しのミーハーである)、まさに脂がノリにノッている詩的達成をしている詩人もいて玉石混濁の体である。その中でもグッと摑まれた作品を読んで、十二年、一発目の「自由詩時評」を締めくくろう。本誌で最も面白いと思う「投稿欄」から疋田龍之介で「百脚御殿」である。選者の渡辺玄英氏が評しているように「増殖し氾濫して押し流すイメージが〈現在〉に優れてシンクロして」面白い。変なところで引用してしまうが

湯飲みからも思いっきり脚だ
あちこちで脚の飛び出る
金屏風だって
連続で突出する
脚!脚!脚!
箸のもてない脚の砂!
痒みの少ない闇の脚!
靴のはけない脚の蔵!

(疋田龍之介「百脚御殿」から抜粋)

このように、この後も「脚」という語が頻出し、まるでテクスト全体がムカデにでもなったようにうじゃうじゃと読み手に忍びより毒してしまう痛快さである。疋田龍之介は前回、十年度の「投稿欄」でも異彩を放っていた。僕の知る所、まだ二十代前半の詩人である。モチーフにするのはいささか古臭いというか、江戸風味であったりするのだが(これも少し違うような気がするが)、それを那珂太郎的なリズムを踏みながら、今なデジタルな感覚で新しいとしか言いようがない「今日の詩」に仕立て上げている。

このように疋田龍之介をはじめ僕など「脚」元にも及ばないクラクラする才能が今、水面下で沸々と出番を待っているような気がする。その水面下を少しでも垣間見れるのが「現代詩手帖」の「投稿欄」である。もちろん、それ以外でもクラクラする才能で書いている詩人はたくさんいるが。

最後に独断と偏見で申し訳ないが、詩は、というか詩も、年齢関係なく「若く」ないと面白くないと思う今日この頃である。「若く」て「野蛮」でないと。

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