吉増剛造の詩集『裸のメモ』所収の「『折口信夫会』講話――人も 馬も 道ゆきつかれ死にゝ けり」というテクストに於ける「歌の休止」の決定的瞬間、「そのシーン」との「遭遇」は、次の数行に書かれている。
ソシテ、〝フミシダカレテイロアタラシ、(踏みしだかれて色あたらし。)〟こうして、折口信夫のもっとも深い歌の休止が、……だな、……それが、ガレキ(……というのは、とってもシノビナイノダガ、……)、折り重なり、ミタコトもない宇宙の波模様と化している、イロ(色)とキズグチ(傷口)そして、とっても強い、フミニジラレテ、……そう、世界の血の色のようなものを、滲ませる、……そのシーンに、このメモは遭遇していた、……。
折口の言葉の引用・書き換えによって差し向けの網の目を形作り、それによってついに折口的な「歌の休止」に辿り着いた果てに、編み上げられた複雑なテクストの錯綜を破る形で全く折口的でない「歌の休止」、折口的言語による言語化・象徴化を拒否する「沈黙」としか言いようのない大地震そのもの、大津波そのものが闖入したと言えるのではないか。折口的な言葉を「ガレキ」と化さしめるような未曾有の「災厄」、その痕跡が、言語化を拒絶する「沈黙」とそれによってテクストの網の目、言語的・象徴的なるものの中に開いた傷を言語によって塞ぐべく発せられた「ガレキ [……]、折り重なり、ミタコトもない宇宙の波模様」
という全く折口的ではない未知の歌、未知の詩、未知の美を孕んだ詩語の唐突な出現ではないのか。また、大地震・大津波による言語の身体の傷に言及する折口的であると言うよりは遥かにランボー的であると言える「イロ(色)とキズグチ(傷口)そして、とっても強い、フミニジラレテ、……そう、世界の血の色のようなものを、滲ませる」
という断片との「遭遇」ではないのか。
言語化を拒むもののテクスト内への露出である「歌の休止」に関わる数行の後、吉増の「メモ」は、博識を駆使して折口はもちろんメルロー・ポンティやディキンソンを引用し、また「石庭」に言及するなどし、最後に「白桃」のイメージに至る。吉増はここで、再びテクストからテクストへの差し向けの網の目を紡ぐことで、テクスト内に突如出現した言語化出来ぬ大地震そのもの・大津波そのものによって出来た破れ目・「傷口」を塞ごうとしているかのようだ。
折口のテクストの引用・書き換え・註釈によって、テクスト間の差し向けの網の目を織り上げ、3.11の大地震・大津波を言語化し、そのことによってそれを無力化することを目指すことで始まった「メモ」のさなかに言語化を拒む大地震そのもの・大津波そのものが露呈する。そのことによるテクストの破れ目・「傷口」を大震災のさらなる言語化・無力化によって塞ごうとする試みにも拘わらず、テクストを破る形での大地震・大津波の露出とその痕跡としての「ミタコトもない宇宙の波模様」という詩的破片の創出という点に、「『折口信夫会』講話」というテクストの、そして『裸のメモ』という詩集の出来事性を見るべきではないだろうか。