「人間を超えて」
2000年9月刊の拙詩集『雪柳さん』中の「波」と題する6行の詩。いきなり自作詩の引用お許しください。
朝起きると
波が逆巻いていた
「荒いね」
紅茶のカップを前にしたむすこにつぶやいた
黙っているむすこの手許にしぶきがかかった
もうここも引き払わなくてはなるまい
この作品以来、私は家庭崩壊の瓦礫の上で漂い続けた。去年3月、沖で瓦礫の上に乗った犬が救われたとテレビで報道されたとき、おもわず自分の姿と重なった。震災以前に私はすでに漂流していた。ここでこの詩はこの現実に流れ入った。
大震災以来、変ったと感じられることの1つが、時間の進み具合が人間が制御できる範囲を超えてしまったという感覚だ。時間はこれまで人間にとって優しい、人間が社会や環境から負った傷を癒してくれる疑う余地のない味方と感じられていた。《時間がたてば治る》、《時間をかければできる》と、人の生き難くさも時間という母の胸で癒されるのだと信じられてきた。その時間が人間を捨てて走り出した、そう感じられる。時間に見捨てられた人間をわたしたちはこれから生きていく。
昨年後半に読んだ詩集のうち、印象に残っているのは渡辺玄英『破れた世界と啼くカナリア』、小島きみ子『その人の唇を襲った火は』、伊藤悠子『ろうそく町』、谷口謙『大江山』…。暮れにお目にかかって少し雑談をした新延拳さんの『背後の時計』も再読して、やはり手ごたえがあった。全21篇中の7番目の作品「旅立ちは夕暮れが」は1世代をこえる距離があってもなお自分を取り囲む世界に対する日常の疎外感を切実に共有することができる。書く人の切実さと読む人の切実さがぱっと重なり合った瞬間にこそ、「詩」活動の収穫が実行されるだろう。詩の価値は個人対個人でしかありえないと思う。
「現代詩手帖」2012年1月号の作品ラインナップから、藤井貞和の「メモへメモから」、佐々木幹郎「声たち」を読んで、ベンヤミンが詩人とは文明のごみを拾い歩く乞食であるという意味のことを言っているのを思い出した。ここで詩人たちはまさしくそういう姿に見える。《サムサノナツハオロオロアルキ/ミンナニデクノボートヨバレ》賢治は早く亡くなったが、今もくっきりと生きている。谷川俊太郎の「庭」は自家の庭の詩だが、しんしんと地声が聞こえてきた。