自由詩時評 第50回 金子鉄夫

今回も金子の時評の時間である。ナマな現代詩に対して何を書いてよいのやら、最近ますますわからない。脳みそトロトロ、さらにバカになってんじゃねぇかと自分自身でもヤバいと感じるぐらい呆けているので多少の破綻は許してくれませんか、と愚痴っていても何も始まらないので、今回も、わかば(どこもかしこも不景気だ)に火をつけてあっぷあっぷ書きはじめてみようか。

ここ最近の現代詩の主脈のビッグな話題として、凛とし過ぎてまぶしくステキな暁方ミセイ『ウィルスちゃん』の中原中也賞受賞や、ますますその怪異でいて職人的な書法に脂がのりまくっている廿楽順治『化車』のH氏賞受賞や、もはや僕が語るには及ばない数々の偉業を成し遂げたうえでの傀儡的な二人の詩人、藤井貞和、野村喜和夫の鮎川信夫賞受賞など煌びやかな話題を殊更にチープな僕が書くまでもなく、少し視点をズラしてみて、ちがう面から現代詩を眺めてみよう。六十年代、数々のカルチャーが爆ぜた時代、われらが現代詩も吝かではなかったが、それからずいぶんと長い間を経て現代詩の不景気が嘆かれて久しい。しかし書店を眺めてみれば、まだまだ現代詩を必要としている媒体を数ある。そのなかでも存在自体が異貌な雑誌、その名も『trash_up!!』という雑誌の現代詩に対する把握の仕方が面白いので今回、紹介したいとおもう。まぁ、僕、カネコテツオも書かせてもらっているから手前味噌になるが。まず、この雑誌、屑山屑男とゆうケッタイな名前をもった編集長が主催している雑誌なのだが端的にいってしまえば表現の裏街道で犇めいているコアなカルチャーの紹介を主軸とした日本でも他の追随を許さないグチャグチャな雑誌である。ひらいてみればホラー映画や、インディーなロックやらなにやら生臭いことこのうえないのだが、そのグチャグチャに紛れて現代詩が、これまた少しイカれた詩人たち(褒め言葉)の作品が掲載されている。広瀬大志、小笠原鳥類、伊藤浩子、榎本櫻湖、橘上、鈴木一平などの書き手の作品である。

血みどろのハードボイルドな世界、『trash_up!!』のコンセプトに最もマッチしているとおもわれる広瀬大志。説明するまでもない偉大な詩人だ。八十年代に『洗濯船』という伝説の同人誌をやっていて、その詩歴も長い。現代詩は小難しいヤワだなんておもっている輩は是非、一読を。その世界に畏怖すること間違いなしだ。

次にゼロ年代現代詩が彼からはじまったといっても過言ではない、サブなジャンルからの支持もアツい稀代の詩人、小笠原鳥類。その名が示唆するように、小笠原鳥類の言語領域には無数の生物が巣食っていて、まるで言語のアマゾンである。読んでいるこちら側もトリップしてしまいそうだ。小笠原鳥類を読むということは、その言語的アマゾンにラリることだ。

伊藤浩子は、『詩と思想』の編集にも携わっている真っ当な詩人だが、『trash_up!!』に紛れてしまうと、その資質であるのであろう清冽な狂気とでもいおうか、ひとつチガッているポエジーが全開。そして榎本櫻湖。前年度の『現代詩手帖』の投稿欄が言語のプラズマ状態(野村喜和夫)というべき様相を成していたと個人的にもおもっているのだが、そのプラズマ状態を最も過激に体現していたのが榎本櫻湖である。そのエクリチュール中毒とでも言えそうなめくるめく耽美的言語のメタボリックに眩惑しそうだ。また広瀬大志とは違った側面から『trash_up!!』のコンセプトに過剰にマッチしている。

橘上と鈴木一平に関しては、個人的に密な付き合いもあるので、少し言及することが憚られるが、天然物の詩的感性を所持してボーダーレスに横断する橘上、まだまだ小僧的な面は拭えないが(弱冠二十歳)、その秀才的な形式に対する鋭い批評を感じさせる技法が冴える鈴木一平、この二人も『trash_up!!』のライトな部分を充分、担っている。

今、ざっと駆け足で、『trash_up!!』に現在、掲載されている詩人を紹介してみたが、わざわざ僕が説明するまでもない詩人たちばかりだ。このメンツが掲載されているだけで屑山屑男編集長の現代詩に対する一筋縄ではいかない意気を感じて頂けるかとおもう。

詩は死んだ?そんな素人臭いものに貶められた言い分をまだまだ我もの顔で言っている輩に最近もちらほら出会う。くだらねぇな、おい。詩が死ぬのも生きるのもてめぇの勝手だ。少なくとも僕の目にはリアルに詩は生きている、と僕が息巻いてもしょうがないが現代詩が他ジャンルと交接してトランスしている『trash_up!!』の誌面を眺め見て直にそうおもったりもする。誌面に施されている、アナーキーでキュートなデザインから、その交接が顕著だ。

とにもかくにも『trash_up!!』はvol.11まで絶賛発売中!!是非、一読を。

さて、また自ら何が書きたくなってきたかわからなくなってきて混乱してきたが、今回も字数の不安に苛まれ、ここから付け焼刃的になってしまうが前回の時評で昔は今なんて言ってしまって、あれからどう収拾をつけようか頭を悩ませてきたが(悩む頭もねぇんだが)、まだ収拾がつかないので、僕が紹介したい昔の詩を今に(本当に付け焼刃だ)

よびかける よびいれる 入りこむ。
しの。
吃るおれ 人間がひとりの女に
こころ地平線を旋回して迫っていくとき、
ふくよかな、まとまらぬももいろの運動は
祖霊となって とうに
おれの囲繞からとほうくにはみでていた。
(岡田隆彦『史乃命』より抜粋)

岡田隆彦、六十年代、現代詩が及ぼす影響が吝かではなかった時代、その激烈なラブ・ソング集『史乃命』を上梓した、主格の「おれ」の使い方が、とてつもなくカッコ良い詩人である。この詩を現在に還して少し、僕はおもうことがあるのだが今の現代詩に欠如しているのは誤解を恐れずに言ってしまうが「ラブ」じゃないのか。それも激烈な。この岡田隆彦が史乃という何もにもまして尊い対象で一冊の詩集を書いてしまった狂気ともいえる侠気が。結句、詩はいつだって、ラブ・ソング(それは男女という閉域などを超えた)でなければならないと言い切ってしまおう。

 、とずいぶん大胆なことを書いてしまったが、今これを書いているのは午前五時にもなりそうな白けた時間帯だ。とにかくクラクラだ。筆もヌルヌルに滑るはずだ。

 森川氏から聞くところによると、この『詩客』も第二期に突入するという。第二期も時評担当をまかされたのだが、これからもペーペー詩人金子鉄夫のグダグダに悶絶する様をさらしていきたいとおもっています。桜も散り始め、新しい年度になってしまったが、まだまだ恥を上塗りに踏み外して生きてくんだぜ。べいべぇ。

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