自由詩時評 第65回 小島きみ子

現実と幻想の境界を跨ぐ「モノ」

*「現代詩」とは何か
ロンドンオリンピックが始まって、猛暑が続いている七月の午前二時半、激しい悪寒に襲われて、布団を被っても治まらずに嘔吐し三九度の発熱。朝六時に再び悪寒に襲われて、時間外の緊急外来で、血液検査の血を採られて、ミネラルの点滴をしてもらうために、ベッドに寝かされていた。リアルな夢の中で「惜しいな、せっかくここまで現代詩について書いたのにね」と何度も思った。詩を書いてwebへアップするたびに、その新システムでは読者の「パチパチ」という絵文字拍手が劇場の拍手のように鳴り響くのだった。拍手はいいな、《現実と幻想の境界を跨ぐ「モノ」》をいま、書いているしねと、熱病の夢の中で思って、快楽のように絵文字拍手の音を聞いていた。あ、コメントが入った。(現代詩とは戦後詩の後からを言うのだよ)(近代詩と現代詩の境目は朔太郎ではないのか)(跨いでいるのは心平だよ)幻想の出来事が信実であるのは、緊急外来の高額な領収書二枚が現実の証拠として残っているだけだ。新しいメールが来た。(ゆっくり休んでください)

*人間と獣の「マスク」を被って
詩人とは、幾種もの人間と獣の「マスク」を被って詩を書く人のことかもしれない。興味深い詩集や、雑誌が届けられる。それらは、その詩人の個性がたった一種類の人間の種族の皮でできているのではなくて、もともと神話の時代は両性であった人間の一種類ではないセックスを表現し、動物や植物のDNAが、フォン・ユクスキュルの言葉による「内的環境世界」として、日常言語と重なって詩の世界を創造したとき、言葉は新たな「驚き!」を読者に伝えてくれるはずだ。言葉の美しさとは、直線的な時間をなぞらない、なまなましい新鮮な現実が文字で表現されている、ということだ。間違えてはならないのは、それは個人の病状の心的告白ではなく、表現者としての「内的環境世界」に「発話する主体」が生まれていることだと思う。一九世紀のフランス象徴派の詩人ランボーがハシシュによって見た幻覚ではなく、複雑な精神の襞を持つ現代人は、人間が制作したバーチャル世界を通して、見ることができる。いま、言葉を通して/現実と幻想の境界を跨いでいる人がいる。

*煩悩の無い奴は人間ではない(吉本隆明)
首相官邸を取り囲むデモの参加者がどんどん増えている。大規模な国政への抗議デモというと六十年・七十年安保闘争のデモを連想する。市民が子連れで参集するのは、暴力に訴えないからだ。「ことば」の呼びかけに応えて集まる人々。こうした人々の姿が、「原子力は安全」と思わされてきた日本人の言語感覚をどう変えていくことができるか。3・11の苦しみを経て、日本人の言語体質が「変容」するときが来ている。吉本隆明を読むことにした。日本を支えていた団塊世代の人々が退職をして数年過ぎた。この世代は、安保を経験し、吉本隆明に影響を与えられた人々の時代だったと思う。七月前半は、『〈信〉の構造 吉本隆明著・全仏教諭集成19445~1983・9 春秋社』を読んだ。『歎異抄』の解説はたいへん丁寧で、親鸞への洞察は鋭い。「悪」とは何か、「善」とは何かに迫っていると感じた。「歎異抄について」のなかで、親鸞という一個の人間に衝き当るために、『僕たちは弥陀とか、往生とか念仏とか云ふ一見重要に思はれる概念を捨ててゆかねばならぬ。さあれ僕は来世などを信ずる気にはならぬ。生きることが死よりも遥かに辛く悲しいことを少しも疑わない。僕たちの感官は「所労」のために痛まず、むしろ精神のために痛むからだ。煩悩の無い奴は人間ではないと親鸞は僕たちに繰り返してやまぬ。いやむしろ煩悩のない奴は人間の資格がないと、僕にはそのやうに聞こえてくる。』などは、現在の「いま」に通じるほどに「生(なま)」な言葉だ。吉本隆明の『〈信〉の構造』の良寛の捉えかたも優れていると思う。吉本の〈信〉を巡ることが、人間の意識の起源を巡っていくこと、意識の歴史性を巡っていくことに出会えるといいと思う。

*「変容」というパッションへの「驚き!」
『思想は散文の中に住むが、ポエジーを手伝い、監督し、またこれを導く』と、ポール・ヴァレリーが言っている。七月に読んだ詩集では、倉田良成詩集『グラベア樹林篇〈非売品〉』が、倉田良成の言葉の野生を表現していておもしろかった。「グラベア」とは解説によると〈神の名づけ〉というものであるらしい。ここは、もう少し詳しく解説すべきだろう。どうもよくわからない。散文詩篇のほとんどが一段組み三〇行内に収められ、二段組み二頁の解説が付くというスタイル。文語文の豊かさというのは、日本の季節感と文字で表す言葉が一体となっていることだと思う。折口信夫の古代篇やモースの贈与論による「祝祭」が、倉田詩篇となって表現されていると思う。ここで扱われる「祝祭」は、もう少し厚みが欲しいと思った。神話における「祝祭」とは、日常と非現実を繋ぐ「仮面のカーニヴァル」なのだから。

榎本櫻湖の第一詩集「増殖する眼球にまたがって(思潮社)」も、おもしろかった。本の装丁とデザイナー、栞文と執筆者、という造本に関わる人々の超贅沢さに眼をみはる。野村喜和夫氏の解説文にあるように、この詩は人間の口から出た言葉ではないと、思えば拒否反応は起きないし、櫻湖という詩人は、二十一世紀の言葉を通して/現実と幻想の境界を跨いでいる人の一人であるかもしれない。野村氏は「正当な異常性」という、ルネ・シャールの言葉を櫻湖に贈っているが、「櫻湖」というペンネームとともに、ここで用いている詩形、現代日本社会の世相など、極めて正常な地平から見た地形を地下に潜らせ腐らせ、あるいは服の中に隠されてあるべきものを、突出させて「見せた」のだった。言葉の繋がり、言葉の意味、というものは言葉を扱っていると、言葉が自由にその人間の意識を深いところへ連れて行くことがある。人間という生き物に潜む多重性に出会うことになる。感情の畸形や怪奇なものは、その辺りに潜む。こうした無意識を詩の「装置」として、詩法に引っ張りあげているように思う。この詩集のもう一人の解説者・福田拓也氏の文章も魅力的で、この若い畸形で怪奇な(賛辞です)詩人へ惜しみない優しさで、空海の文字=身体論との邂逅までを述べている。さて、櫻湖は文字と文字が呼び合う、声の出会う、身体が抱きしめられる境地までたどり着けるかどうか、見つめていよう。

広瀬大志詩集「ぬきてらしる(私家版)」は、こんな奇怪な本を見たことがない。書名からして、何のことかわからない。小説のようでもあるし、「ぬきてらしる」という米櫃に巣食う「コクゾウムシ」の出現事実を、これも時間線を無視して語っている。今は今なのか。過去は過去なのか。「コクゾウムシ」は好きなように出現するのだ。これこそ、人間という種族の精神に飛び移った「ぬきてらしる」の内的環境世界が、広瀬大志という詩人の人間の口を借りて述べられた詩集だった。

最後に、ルネサンスの両性具有神話の反映を見ながら、ルネ・ホッケを孫引く。『生命はそれ自身のうちに男性的なるものと女性的なるものとを結合している。つまり、人間は、もともとアンドロギュヌスだったのだ。だからこそ、彼らは神々にとって危険な存在となった。そこで神々は人間を分割した。』とある。女性なるもの、男性なるもの、その両方の性に自然は自然の性と動物の性の記憶を埋め込んでいる。あらゆる芸術の創造世界の豊かさは、「変容」というパッションへの「驚き!」であるだろう。

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