―テーマ:「死」その他―
執筆者紹介:仲寒蝉・筑紫磐井・吉澤久良・しなだしん・藤田踏青・清水かおり・土肥あき子
赤尾兜子の句/仲寒蝉
月光に握る母の掌あゝいまはの 『稚年記』
『稚年記』の最初の方にある句。昭和19年、19歳の時の作である。兜子は母を19歳、父を22歳といずれも若いうちに亡くしている。母の死は彼の一生に大きな影を落とし、最後の句集『玄玄』にも
冬葵亡母の躾絲切るや否
わが乳首腫れし母の忌霜降るか
母は亡し賜ふままかり母人へ
と一般的な母ではなく明らかに自分の母を詠んだ句がある。また父についても
花あしび西国好みは父譲り
山鳥の骨敲きうちし日父ありき
鱧きざむうしろすがたの亡父とゐて
の句がある。流石に妻や子を詠んだ句に比べればはるかに少ないけれども、30年以上経っても亡き父母がその俳句に登場するのである。
『稚年記』の巻頭には「いたつき頓に重くなりぬれば、母のこといまさらはげしく思はれてならず」の前書が置かれ
ものなべて枯るゝ月夜を逝くべきか
をはじめ5句、次に「つひに一月二十七日、うからに囲まれて母みまかりたまひぬ」の前書があって掲出句はじめ4句、さらに「明くれば葬」の前書の後数句、母の死に関連した句が並ぶ。つまり『稚年記』の前半は母へのオマージュなのだ。さらにしばらく経ったあたりに「その後日を経るまゝに母を恋ふことしきり」の前書があり、その6句後に置かれた若き兜子の秀作
にも母のイメージが揺曳しているように思われる。
『稚年記』は暗い句集である。それは死の影が通奏低音のように漂っているからであろう。時代もまた昭和19年から20年、戦争は末期的様相を呈し、そんな中で前途ある青年の身が兵隊に取られてゆく。他人事ではない、作者自身が出征したのである。この時兜子はまだ20歳でしかない。前半は母の死、後半は自身の死を見つめたこの句集が暗くない筈がなかろう。
今回のテーマは死。死はいつの時代にもあるが当り前のように大勢の、しかも日常では死ぬ可能性の少ない若者が死んでいく戦争という事態は真に異常と言わねばなるまい。たしかに今回の大震災のような天変地異も異常事態である。万を以て数える方々が日常生活の途中でその生を中断せしめられるのだ。しかし先の大戦での日本人の死者は軍人230万人、民間人80万人と言われ桁が二つほど違うのである。さらに日本人が殺した他国人となるとこれはもうとんでもない数字になろう。
だが死はそれがおのれ自身と関わりを持たない限り身を切るような痛みには繋がらない。『稚年記』に出て来る死のうち母の死はたった一人の死であるが、兜子にとっては後半の多くの人々の死をすべて合わせたよりも重かっただろう。そうして彼自身もその数多くのうちのひとつの死の仲間入りをするべく出征していった。よもや生きて帰れるとは思わなかった。だからこの句稿を遺書として父に預けて行ったのである。
背に亡母われは征く身ぞ冬日中
「母亡き出征」と前書のある句集の最後から2番目の句である。『稚年記』の兜子の俳句は声高に叫ぶことをしない。ただ掲出句の「あゝいまはの」とこの句の「われは征く身ぞ」だけは珍しく感情を露わにしているように見える。それは死を最も身近に感じた瞬間だったからであろう。
むしろ生きて帰った後に作った字数の多く破調の句(『蛇』や『虚像』の句)の方が激しい感情をむき出しにしているように思われるのは面白い現象である。
楠本憲吉の句/筑紫磐井
新涼や「死んで貰う」と高倉健
『増補楠本憲吉全句集』<拾遺作品>に載っているが制作年代不明。
俳句では、「新涼」は秋の季語。「涼し」は夏であるのに、「新涼」は秋の季語であるのは不可解である。暑いのは夏、涼しいのは秋に決まっている。俳人の因習はかくも怖ろしい。
問題は、そんな季語論ではない。この「新涼」は、一般人の「涼しいこと」だと仮定しても、それは何となく映画館の大画面にふさわしい季節の言葉である。特に野外であると、それも夜の青葉の騒ぐ広場であると一層効果的だ。
そこで健さんが極めつけのせりふ、「死んで貰います」とつぶやく。こんな映画をリアルタイムで見ていたころ、楠本憲吉がまだ存命で俳句を詠んでいたというのは不思議な感じがする。もっともっと昔の人のような気がしていたからだ。
今回の主題「死」で詠まれた俳句16句の中で最も軽やかな俳句が楠本憲吉のこの句ではないかと思う。憲吉にとってはこの程度の死がちょうどよい。重苦しい死はふさわしくないからだ。この時殺されるのが天津敏だとすれば、シリーズの次の回ではまた不死鳥のように生き返って健さんに殺される宿命にあるのだ。死とはいっても1回限りの死ではないから、実に軽やかである。どうやって美しく死ぬかに監督も俳優も工夫を凝らす。そうした「死」なのだ。
「死んで貰ふ」ではなくて「死んで貰う」もいい。決して健さんは、「死んで貰ふ」とは言わないからだ。「明治一代女」のようなせりふは健さんにはふさわしくない。俳句とはこのように細かく読むものなのだ。
* *
先日、楠本憲吉が創刊した雑誌「野の会」の創刊500号記念大会に招かれて出席した。「詩客」で久しぶりに俳句を発表された安井浩司氏も、遠く秋田から来られていて久しぶりの話をさせていただいた。その後挨拶のために壇上に上がり見わたすと、一面華やかな感じがした。参加者も多かったが、参会者に女性が多く、その女性が皆それぞれに高価そうな和服を着ていたからだ。俳句の会でこんな和服の花盛りを見たことはない。いかにも、灘萬専務(長男だが社長でなく専務)の楠本憲吉らしい会と思われた。
時実新子の句/吉澤久良
花火の群れの幾人が死を考える時実新子
この句にはいくつかの対比がある。一つは、花火の華やかさと花火が終ったあとの暗闇。視覚的な明と暗であるとともに、聴覚的な騒と静の対比でもある。それらの対比は、おのずから生と死の対比へとつながっていく。ただし、ここまではすでに多くの文芸作品で書かれてきたことであり、ありふれた情緒である。そこから先が新子作品の個性になる。
この句には、花火を見ながら死を考えている作中主体と、死など考えもしない多くの群衆という対比が書かれている。作中主体の群衆に対する違和感がこの句の感情である。その違和感の正体は、花火に死を見ることもできない群衆への軽侮の念、同時に群衆に溶け込めない疎外感だろう。花火見物を素直に楽しめる群衆への嫉妬と羨望があったかもしれない。自分の感性が鋭敏であることの自尊とその裏返しとしての孤独。このプラスとマイナスが、時により情況により交互に明滅して、作中主体を苛む。一見単純に書かれたように見えるが、掲出句にはそのような心理的ドラマが読み取れる。このあたりの懐の深さが、新子作品の魅力だろう。
もう一点、対比をあげておきたい。「花火の群れ」の句の「死」は、新子作品で詠まれている「死」の中ではむしろ例外的な「死」であるということだ。
死ぬ虫の何キラキラと打返す
河口月光十七歳は死に易し
満月光やがて月光死は軽し
新子作品に「死」という句語は頻出する。それらの「死」の多くは、「十七歳」という語が象徴するように、青春の感傷に近い。「死ぬ虫」の句をはじめとする掲出三句の「死」が、なんと「キラキラと」輝き、美しくうたわれていることか。これらの「死」は、例えば戦争文学に出てくるような、泥の中でのたうつ無様な「死」でもなく、不治の病に苦しむ「死」でもない。作品中に登場する「死」が作者の実体験に裏付けられる必要などないが、「死」が掲出三句のようなイメージで表現されていることは、新子作品の個人的な問題であると同時に、川柳における私性の問題と深く関わっている。ただ、私性の問題は話が大きすぎるので、また別の機会に取り上げることにして、新子の「死」に話をもどす。
新子作品における「死」という句語は、「花火の群れ」の句の「死」と「死ぬ虫」以降の三句の「死」とを両極端の振り幅にして、その間のどこかに位置する。多くの場合、後者の「死」に近い。「死」は現実の「死」ではなく、観念的な「死」である。観念的な「死」が高度な表現技巧とともに感傷的に作品化されるとき、読者は現実の「死」の重苦しさややりきれなさを感じることなく、甘美な痛みとでも言うべきものに浸ることができる。この甘美な痛みの正体は自己愛惜である。セリフにすれば「ああ、かわいそうなこの私。」とでもなろうか。新子はおそらく意識してそのような「死」を詠み、読者は意識してか無意識であったかはわからないが、「死」という句語をそのように感受したと思われる。作中主体の自己愛惜が読者にとっても自己愛惜になりうることを、おそらく新子は充分すぎるほどわかっていたのだ。それが新子作品が多くの読者に支持された理由の一つではなかっただろうか。
感傷的な句には感傷的な句なりの効用があるので全否定するつもりはないが、私は興味がない。新子作品の「死」の多くが感傷的であるのに比べ、「花火の群れ」の「死」は、かろうじて感傷を脱することができているように思える。それは作者が、群衆の中で作中主体と他者とを両方視野に入れていたからだろう。その相対化もしくは鳥瞰化が、感傷を抑え「死」そのものを対象にすることを可能にしたのではないかと思う。その構図設定は見事である。
上田五千石の句/しなだしん
上田五千石の死の一句といえば〈萬緑や死は一弾を以て足る〉を挙げるのが順当であろう。だがこの作品についての評はすでに潤沢であり、その評の大半を占めるであろう“「死」と生命力の象徴である「萬緑」の鮮明な対比”に対して、私は反論も、新しい論拠も今のところ持ち合わせていない。
五千石は「死」を忌み嫌い、「萬緑」の句の自註に“「死」はわが俳諧の忌字”と記し、句集『田園』のあとは「死」という言葉が表出する句は作らなかったというのが定説だ。それは父を早くに亡くしていること、戦時という死と隣り合せであった生い立ち、それに起因する人生観、宗教観に関係するところかもしれない。
ちなみに『田園』では〈萬緑や死は一弾を以て足る〉となっているが、自註での表記は〈萬緑や死は一弾を以つて足る〉と「つ」が足されている。これでこの句の読みが〈もってたる〉であって、〈もてたりる〉ではないことが明確になっている。また、この句の表記で「万緑」となっているのは誤りである。
◆
さて、次の4作品は、句集『天路』の巻末に並べられたものである。
九月一日 四句
夜仕事をはげむともなく灯を奢り五千石
芋虫の泣かずぶとりを手に賞づる
色鳥や刻美しと呆けゐて
安心のいちにちあらぬ茶立虫
詠んだ日は、平成9年9月1日。つまり五千石が、突然に死を迎える前夜の作品なのだ。
『上田五千石全句集』(*1)の上田五千石年譜(上田日差子編)の平成9年の項によれば、
2日夜、自宅で原稿執筆のあと倒れる。同日午後10時10分「かい離性動脈瘤」のため、
杏林大学付属病院で逝去。満63歳10か月余。
とあり、また『天路』の上田日差子によるあとがきには、
父のあまりに早すぎた他界ではありましたが、俳句と師との出会いにより、いのちに生かされ、俳句を信仰することで幸せな生涯を全うしたのだと、今は思うばかりです。(中略)
亡くなる前夜作の父の句を揚げて、父の「生きるをうたう」よろこびを偲びたいと思います。
とある。
この“「生きるをうたう」よろこび“とは間近で父五千石を見て育った、日差子氏ならではでの言葉である思う。実は「生きるをうたう」こそが、五千石の「眼前直覚」の秘められたテーマであると、私は思っており、それがこの〈あとがき〉から十分読み取れるのである。
◆
〈九月一日 四句〉は、五千石の作品として見ると取り立てて秀作といえるものではないだろう。ただこの作品が奇しくも遺作になることは、本人も夢にも思っていなかったことが、逆に死というものを如実に顕しているようで、ぞっとする。
人間は死をまぬがれない。そしてその「死」は時に唐突に訪れる。それは大震災や日常に起こる様々な事件事故に係わる可能性が、誰にもあるということ。常に「死」と隣り合わせにある命、その命を精一杯燃やすことが、いのちある者の使命といえる。
*1 『上田五千石全句集』 平成15年9月2日 富士見書房刊
近木圭之介の句/藤田踏青
漁村で酒と蟹を食べ自殺論聞きながら 昭和53年
ストア派の自殺容認論とは異なり、ショーペンハウアーの有名な「自殺論(自殺について)」では「自殺のもたらす個体の死は、決して意志の否定による解脱を達するものではない」「虹を支えている水滴が次々に交代しても、虹そのものはそのまま残るようなものであって、自殺は愚行に過ぎない」と説かれている。この自殺論をそのまま掲句に適用は出来ないが、薄暗い漁村での1シーンが自殺を客観的にみるか、自己の背景に刷り込ませるようにみるか、という両方の面で表現されている。しかし「世界が私の表象であるかぎり、いかなる客観であっても主観による制約を受けている*」のであれば、やはり後記の如く読むのが妥当であろう。「漁村」「酒と蟹」「自殺論」という言葉の流れから湿潤的なドラマの展開も予想される。「小指がきれいだ 死ぬことないのに(昭和63年)」の作品が其れに近いものかもしれない。
死んでうしろ姿のいつまでも見えて 行く昭和15年
種田山頭火が松山の一草庵で死去した際の悼句であり、当然「うしろ姿のしぐれてゆくか」の山頭火の句が下地にあり、先にも述べた山頭火のうしろ姿の写真も二重に被さってみえてくる。そして一字空白がもたらすものは、此岸と彼岸との別れであり、去ってゆくうしろ姿をも示唆しているかの如く。
天に独り龍にてあり水に独り月にてあり 昭和51年
この年、師である荻原井泉水が91歳で逝去し、「龍翁井泉水逝く」と題した悼句である。龍とは圧倒的な定型俳壇の中にあって、自由律俳句を主張し続けた井泉水の孤軍奮闘の姿を示しており、その昇龍の様をも示しているのであろう。そして「空を歩む朗々と月ひとり 井泉水」の作品をも踏まえてもいる。
井泉水は長生であったが、圭之介はそれ以上に長生し、平成21年に97歳で没した。しかしその最晩年まで創作力の衰える事は無かった。
己れは己れへ消えるため 風むきえらぶ平成19年
今を生き。それだけに生き 終るか平成19年
私という単純にうごく 影だった平成20年
あれは船 海峡へ来た一つの月平成20年
前二句は圭之介95歳、後二句は96歳の時の作品である。空白や句読点の使用法など、晩年に至る程に詩的傾向を示しているのも見逃せない。そして既に「死」を意識した自己存在というものに静かに向き合っている姿がそこにある。「船」はかつて金沢から下関へやってきた自己そのものであり、「月」は関門海峡に永遠に留まる自己というアイデンテイテイなのであろう。
戦後川柳/清水かおり
おれのひつぎは おれがくぎうつ河野春三
(1902年~1984年)
強烈なメッセージを放つ一句である。読者は自分が納められた棺を覗く自分の姿を一瞬だけ思い浮かべるだろう。勿論、ここで「棺」に納められている「死」は肉体のことではない。作者の精神活動や思想を意味している。
河野春三は戦後の川柳革新運動に心血を注いだ作家として知られている。春三について私達後進の者には、川柳を短詩の一分野として確立しようとした運動家という認識が濃くある。作品をもって作家活動とするだけではなく、川柳を運動として追求していく姿勢は全国の革新的柳人の注目を集めた。春三は昭和25年に創刊した「人間派」で『短詩無性論』を展開した。自己の魂の記録として短詩は生まれるものであり、川柳と俳句に性格の差はない、とした彼の論は、詩性川柳の推進と川柳の伝統的な要素などの排除とを意味するもので賛否両論があったが、その後の革新の流れを牽引する役割を果たしたといえる。掲出句「おれのひつぎは おれがくぎうつ」が詠まれた時、春三は川柳革新運動の真っ只中であった。強い意志の言葉はこの頃の作者の決意ととれる。作家にとっていつか訪れるであろう精神の衰えは、肉体のそれよりも死のイメージに近かったのかもしれない。昭和36年刊行の句集『無限階段』には春三の代表句といわれる「水栓のもるる枯野を故郷とす」と共に「死蝶 私を降りてゆく 無限階段の 縄」が収録されている。
この「死蝶」もやはり作者の思想を提示しているようだ。言葉は詩的であり、先のひつぎの句と同様、非定型である。無限階段という句語に、社会のひずみに落ちていく個人の意識を張り付かせている。しかし、ひつぎの句と比べるとこの句は慰撫の空気を纏っていることに読者は気づくはずだ。春三の川柳革新運動という精神性に忍び寄っている翳りを仄かに予感させているように感じる。今回のテーマ「死」には本当はこちらの句のほうがいいと思ったのだが、春三個人の感傷がやや強いため、ひつぎの句を揚げた。
『無限階段』が刊行された昭和30年代には、塚本邦雄『日本人霊歌』(昭和33年)、加藤郁乎『球體感覚』(昭和34年)、春日井建『未青年』(昭和35年)、などが相次いで刊行されている。川柳界で句集を出しても人の目に触れる機会が極端に少なかった当時、同時代の俳句界や短歌界を春三はどのような思いで見つめていたのだろう。時代は60年安保の騒然とした社会に文学が曳かれている状況があった。60歳を目前にした春三の社会を見る成熟した視線と川柳に寄せた情熱は、彼の内側で激しく葛藤していたのではないだろうか。河野春三の川柳革新運動は戦後のあの言いようのないエネルギーを背景に持ちながら、30年代の社会のうねりに呼応したように燃焼していったと思えるのである。
稲垣きくのの句/土肥あき子
ひとの死や薔薇くづれむとして堪ふる
『冬濤』に収められた「ひとの死ー」と前書された5句のなかの1句である。
きくのが生涯を貫いた愛は秘めたるものであったため、恋人の死を待って初めて作品となって明かされた。
きくのは実業界のさる人物に世話になっていた。彼女を住まわせた赤坂の800坪の屋敷には川が流れ、橋が掛かっていたというから、その大物ぶりは想像できよう。しかし、相手に家庭があることで、きくのは一切をベールに覆ってきた。明治初期には妻以外の配偶を法的に認めていた時代があり、「世話をする、される」という関わりを、現代の関係に簡単に置き換えることはできないが、妻と同じような強い結びつきがありながら、決して妻の座につくことはできない間柄が、どれほど不自然で悲しいものであったかは想像に難くない。
恋人が死の間際にいることを知っても、傍らにいることができなかった日々はまさに身を切る思いだったことだろう。恋人の死の寸前に詠まれた7句はかくも苦しく、救いがない。
まゆ玉にをんな捨身の恋としれ(『冬濤』所収)
逢ひし日のこの古暦捨てられず( 〃 )
たまゆらの恋か枯木に触れし雲か( 〃 )
永遠は誓へず冬木雲を抱く( 〃 )
出さざりし手紙ひそかに焼く焚火( 〃 )
忘れよと忘れよと磯千鳥啼くか( 〃 )
冬浜の足跡かへりみる未練( 〃 )
数日後とうとう愛する人が亡くなったことを人づてに聞く。掲句を含め、その5句には悲しみをたったひとりで堪えるきくのがいる。
先立たる唇きりきりと噛みて寒(『冬濤』所収)
残されて梅白き空あすもあるか( 〃 )
ひと亡しと思ふくらしの凍はじまる( 〃 )
ひと亡くて枯木影おくかのベンチ( 〃 )
そして次の1句で、彼女は恋人と永遠の訣別を告げた。
恋畢る二月の日記はたと閉ぢ(『冬濤』所収)
このとき、きくの60歳。こうしてきくのには隠すべく恋もなくなり、あとはひたすら長々と横たわる時間が残された。そして2年後の1968年、
噴水涸れをんなの欠片そこに佇つ(『冬濤以後』所収)
噴水涸れ片身そがれてさへ死ねず( 〃 )
と、水を噴かぬ噴水を見ては、残されたわが身をはかなむ時代を経て、
死場所のなき身と思ふ花野きて(『冬濤以後』所収)
と、つぶやく。
1976年、もっとも仲のよかった弟を亡くす。
うつせみや残されて負ふひとの業(『花野』所収)
花野の日負ふさみしさは口にせず( 〃 )
と、凛と言い放ってきたきくのの口から、ついに
かなかなや生れ直して濃き血欲し(『花野』所収)
という言葉がこぼれた。濃き血とは、夫、子供、孫という平凡な血統であり、結婚や子供という家族を持つことが叶わなかったきくのの、詮無い夢であったのだろう。
自ら選んだ女優という職業、恋人との生活による自由と不自由。生涯を通じて好んで詠んだ牡丹を並べてみると、きくのの化身のように見えてくる。
40代のきくのの作品に登場する牡丹は、華やかに身を持ち崩す。
落日のごとく崩れし牡丹かな(『榧の実』所収)
50代では絢爛たる美しさは輝きを放つ。
牡丹の百媚の妍をうたがはず(『冬濤』所収)
60代になると、牡丹もこれで楽じゃないのよ、という詠み方にしずかに変わり、
牡丹もをんなも玉のいのち張る(『冬濤以後』所収)
忽然とくづる牡丹であるために( 〃 )
70代では、震える姿で現れる。
冬牡丹つひのしぐれに濡るるかな(『花野』所収)
きくのが残した最後の牡丹は75歳の作品である。
寒牡丹五時の門限閉ざしけり(「俳句研究」昭和56年5月号)
生の象徴、女の化身でもあった牡丹はついに、扉の向こうの花となった。
6月10日号 後記 | 詩客 SHIKAKU - 詩歌梁山泊 ~ 三詩型交流企画 公式サイト
on 6月 13th, 2011
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