戦後俳句を読む(第4回の2) ―テーマ:「死」その他―

―テーマ:「死」その他―

執筆者:池田瑠那・飯田冬眞・北川美美・堺谷真人・深谷義紀・岡村知昭・横井理恵・

(戦後俳句史を読む)筑紫磐井・北村虻曳・堀本吟

永田耕衣の句/池田瑠那

生は死の痕跡吹くは春の風

どすっ、という鈍い衝撃音と共に、砲丸がグラウンドに落下する。土煙が立つ。間もなく砲丸は運び去られ、グラウンドに残ったへこみも、絶え間なく吹く春風に少しずつ削られていく。そんな景が思い浮かぶ。生とは、死という厳然たる質量を持った砲丸のような何物かが、ある運動エネルギーをもってこの世というグラウンドに落ち、めり込んで出来たかすかな痕跡……、そのイメージは何故か、殊更に奇想とも思えず、むしろ「ただごと」のようにふっと心に入って来るのであった。

掲句は耕衣句集『殺祖』(昭和56年刊)冒頭の一句であるが、実は句の前半部「生は死の痕跡」というフレーズは、これに先立つ随筆集『山林的人間』(昭和49年刊)中にも見られるものである。耕衣は齋藤茂吉の短歌「赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり」を「生と死の接近痛感、その危機を避けられぬ思いが、ある悟達底をはらむ快感として、この一首は歌われているのかと思う」と評し、その少し後でこう述べている。

「死そのものを、生における無の現前形態とするならば、死は生そのものの無の形であると言えよう。われわれは、生においてこの無の世界を、一瞬自得する境にめぐまれ、永遠を感取し、永遠の本質ともいえる無限の寂しさを満喫することが出来る。この満喫が生の快感として身心にひびきわたるのである。有限者が無限者のふところに包摂される快感は、つまりは、妄想の巣である人間の自己否定を体質とするカタルシスの認識であるにすぎない。このような通俗的な意味で、私は、『生は死の痕跡である』と一瞬思い留めたことがある。」

死とは、われわれ生きて在る者たちの世界から見れば、余りになまなましい「無」である。その「無」の世界の痛切な自覚は、死の危機を擦れ擦れのところに感じつつ、生きて在ればこそ生じてくる。とはいえ無論、生とは避け得ない死の恐怖に曝されるばかりの、死への猶予期間、という訳ではない。むしろ有限者としての己の限界を越え、無限なるもの、永遠なるものに触れる(「有限者が無限者のふところに包摂される快感」を味わう)契機とするために、われわれは無の世界の自覚を必要とするのであろう。

なお『殺祖』では掲句から二句置いて、次の二句が並んでいる。

生に死のおもむきは在り春の風
死に生のおもむきは在り春の雨

まさしく死は生の、生は死の鮮やかな裏返しなのである。そして生者が感取する「永遠」、満喫する「永遠の本質ともいえる無限の寂しさ」とは、案外にも掲句で取り合わせられた季語「春の風」のように、明るく軽やかなものなのかも知れない。(一方、死者の世界から見た「生のおもむき」は「春の雨」のように、ある湿度を持ったものなのかも知れない。)
 生と死の接近痛感が、そこに立ちのぼる生の快感が、しかと捉えられた一句である。(昭和56年刊『殺祖』より)

齋藤玄の句/飯田冬眞

白魚をすすりそこねて死ぬことなし

昭和55年作、遺句集『無畔』(*1)所収。掲句は〈死期といふ水と氷の霞かな〉および、前回の感銘句の3句目としてあげた〈死が見ゆるとはなにごとぞ花山椒〉の間に記載された齋藤玄の絶句3句のひとつである。初出はともに玄の主宰誌「壺」誌6月号。そのときの表題が「死期」であったことを考えると、玄にとってもはや「死」および臨終は近しいものであったといえよう。

表題句ともなった〈死期といふ水と氷の霞かな〉は、永田耕一郎が言うように「風土感覚と季感を合一し、すべてを大自然のあるがままの姿にゆだねた、崇高な作品」(*2)、ととらえることもできる。病床に明け暮れた晩年の玄にとって、〈死期〉すなわち臨終とは単なる命の終わりというよりも空中に浮遊する水滴が日の光をうけて天空を赤く染める霞のようなものだったのである。水と氷が太陽の光という条件によって霞になるように、死もまた、生命の一過程をあらわす状態に過ぎない。臨終を実感したことがなくともそうした認識を読むことで読者は来たるべき自己の死を仮想体験しつつ、日常から解放された気分を味わう。そこに詩を読む快楽がある。それこそ、永田がいうように「大らかさと、やすらかさ」(*3)をこの〈死期といふ水と氷の霞かな〉から感受することもできるだろう。

一方で掲句には「大らかさと、やすらかさ」といった高みは感じられず、むしろ滑稽な作者の横顔が透けて見える印象の方が強い。それは〈すすりそこねて〉という措辞に作者の慌てた表情が想起されるためかもしれない。〈白魚をすす〉るという行為、すなわち食べるということは、他者の命を奪い、死に転換することで自身の生の連続性を獲得するという峻厳な営みでもある。だが、〈すすりそこねて〉とは、他の命を取り込むことに失敗したのであり、いわば生の連続性が中断されていることを意味している。つまり仮死状態である。だが玄は〈死ぬことなし〉と飛躍する。病者にとって食べられないことは死を早めることに直結する。無理にでも食わねば命を永らえることは難しい。そうした生に執着する病者であるならば、感傷におぼれて甘えることもできたはずだ。しかし玄は自身を凝視したうえで、〈死ぬことなし〉と突き放して見せた。〈死期といふ水と氷の霞かな〉の句を得ている玄にとって死とは、〈水と氷〉が霞になるように存在形態の一変化に過ぎないのである。よって〈死ぬことなし〉とは、そうした死生観に裏打ちされた断言と見ることができるだろう。この断言があることによって、ある種の軽みを読者に印象付けている。さらには〈白魚を〉〈すすり〉〈そこねて〉〈死ぬこと〉とすべてS音から始まる語を文節の頭にすえたことによって、リズムが生まれていることも軽みを印象付けるのに関係しているだろう。末尾の〈なし〉にもS音が使われており、〈白魚〉のS音に戻ってゆくような、ある種の循環構造を持っている。

春の到来を告げる〈白魚〉のぴちぴちと躍動する姿と〈すすりそこねて〉ぼんやりしている病者の対比、哀れさや感傷を寄せ付けない凝視の果てに得た生命観が〈死ぬことなし〉という無欲な断言を生み、それがある種の救いとなって読む者に「死」を実感させる句となっている。玄にとって死とは「時には見え、時には消え、在って無きがごとく、無くて在るがごと」き(*4)ものであった。まさに半透明の白魚のように。


*1 『無畔』昭和58年永田書房刊、『齋藤玄全句集』昭和61年永田書房刊 所載 

*2 『俳句』昭和55年8月号 「斎藤玄追悼」所載、永田耕一郎「水と氷」角川書店刊

*3  同上

*4 『雁道』昭和54年永田書房刊、『齋藤玄全句集』昭和61年永田書房刊 所載 

三橋敏雄の句/北川美美

手をあげて此世の友は來りけり

「あの世」と「この世」。

書かれていないのに書かれているように読める作品。逆転の回路である。読者の中にそれを呼び起こさせようとしているのではないか。概念として投げ込まれた言葉は、個々の読者の中で観念となる。詩歌の本領であろう。書かれていない「あの世」。「あの世」の友は来ない、「この世」の友だからこそ生きて手をあげてくる。両方事実である。

「あの世」の概念は、古代エジプト文明からあり、死後に世界があるというのは、生きるものに「魂」があると信ずる所以であり尊厳である。英物理学者・ホーキング博士が、「天国や死後の世界は実在しない」と述べた記事(*1)は、死んだ本人が「あの世」を感じるかという視点であり観点が異なるが、元も子もなくなる。「あの世」は、残されたものが想う古代からの死生観だ。

作品、風貌からの三橋敏雄は、肉體と精神の「健全さ」が「死」を遠く感じさせ、それ故、「この世」のリアルがある。頑強な體が三鬼、誓子、重信(*2)とは別の大物にした理由の一つと思える。三橋の「死」には、陸・海・空にひろがる大らかなものがある。

死の國の遠き櫻の爆發よ       『まぼろしの鱶』
たましひのまはりの山の蒼さかな   『眞神』
死水や春はとほくへ水流る
散る花や咲く花よりもひろやかに   『長濤』
死に消えてひろごる君や夏の空    『疊の上』
肉體に依つて我在り天の川      『しだらでん』

遠い「あの世」に友がいる。「この世」に残された僕からみえる風景がある。

「この世」により「あの世」を潜ませ、「友」をよりリアルにする。省略、読みの飛躍により、いかに句に現実感を与えるか、それは俳句形式そのものに立ち向かう行為であると思える。三橋作品が、リアリティを持つという実感は、氏が「夢の句」を嫌い、認識の薄い「聖五月」という語を俳句に使用することを非常に嫌ったという証言とも一致する。(*3) 

掲句は、『巡禮』の6句目に収められている。(*4

第二回「腿高きグレコは女白き雷」第三回「山山の傷は縱傷夏來たる」に続き、またも係助詞「は」を使用している句である。


*1)Stephen Hawking ‘There is no heaven; it’s a fairy story’ Sunday 15 May 2011 Guardian, U.K.
*2)西東三鬼、山口誓子、高柳重信。それぞれ療養歴あり。
*3)「三橋さんは夢の句が嫌いだった。」故・山本紫黄談。「聖五月」を嫌ったことは、同じく山本紫黄、桑原三郎・池田澄子からの証言。
*4)『巡禮』製作1978(昭和53)年(1979南柯書局)。一頁一句A6判小句集。偶数頁の右上、奇数頁の左上に、仏頭のような挿絵を置く。永田耕衣の絵である。自ら間奏句集と名付け50句を収録。限定250部。

堀葦男の句/堺谷真人

陰画学級透し視れば革命前の鏖死(おうし)

 句集『火づくり』所収「祖国愛憎」の句。

古色蒼然たるネガフィルムに写った級友たちの集合写真。透かし見れば毬栗頭の少年たちがまだあどけなさの残る顔でカメラのレンズを見据えている。しかし、それら友垣の多くは、あるいは戦陣に死し、あるいは不治の病に斃れ、若くして世を去ってしまったのだ。あたかも革命の成就を見届けることなく弾圧され散っていった志士たちのように。

「鏖死」とは見慣れない熟語であるが、「鏖殺」が「みなごろし」であるから、「鏖死」は「みなごろしにあう」というほどの意味であろう。「横死」と同音なのは、不慮の死、非業の死というニュアンスが込められているものと解したい。

掲句が作られたのは敗戦から遥かのち『火づくり』出版直前。一方、同じ句集の開巻第一章「風の章」(1941年から1948年までの作品を収録)には、「母校旧情(神戸一中同窓会誌に)八句」と前書きされた一連の作品がある。過ぎ去った学生生活をなつかしく回思する7句のあと、締めくくりにさりげなく置かれた句がにわかに読む者の肺腑をつかむ。そこには戦没者300万人余という大量死のone of them には決して還元することのできない一回限りの個人の生と、それにまつわる輝かしい記憶が鮮烈に刻印されているからである。

タックルを振り切り駆けり戦死せり  『火づくり』

 ここで改めて年譜を繙くと、青年期の葦男は近しい肉親との死別を立て続けに経験している。1937年8月13日 父・駿次郎 急逝。1942年7月 4日 兄・進 病歿。1944年7月 7日 弟・治 戦死。この間、1941年10月には胸部疾患の疑いで葦男本人が日本赤十字兵庫療養院に入院。以後1年をここで過ごし、兄・進の新盆も病院で迎えることとなった。

新盆のすぐ飛ぶ紙の位牌かな     『火づくり』

病癒えて社会復帰を果たし、1944年6月にめでたく婚約した葦男を次に待っていたのが、海軍主計少佐としてサイパン島にあった弟・治の戦死の報である。

簾押して弟めける夜風かな      『火づくり』

 葦男は理智の人であった。かけがえのない人たちの死に際しては、哭泣するよりもむしろ透き通るように静謐なかなしみをその大きな双眸に湛えて微笑していたように思う。行年91歳で最愛の母・あいが他界したときの句は、とりわけその感が深い。葦男は多くの愛する人たちの「それぞれの死後」を大切に生きたのである。

灰に帰しいまふくよかな母のこる   『堀葦男句集』

成田千空の句/深谷義紀

人が死にまた人が死に雪が降る

句集「人日」所収。

千空には、個別の人間の「死」を対象とした作品が多数ある。例えば、若い時分に指導を受けた吹田孤蓬の死を詠んだ、

こほうさんと言ひて泣きけり梅雨の家    「白光」

や、夫人の母親が101歳の天寿を全うした際の、

雪よりも白き骨これおばあさん       「十方吟」

などである。さらには自身の辞世の句とも言える、

寒夕焼けに焼き亡ぼさん癌の身は

も記憶に残る。

だが、こうした個別の人間の死ではなく、雪国とりわけ津軽の厳しい自然環境のなかで懸命に生き、そして死んでいった有名無名の人々の死を対象としている点で、掲出句は異なる意味を持つ。

この作者らしく、句意は平明である。だが一句に籠められた想いには深いものがある。

上五から中七にかけての「人が死に」というフレーズのリフレイン、そしてそれをつなぐ「また」という措辞に、この土地で生き抜くことの厳しさを受け止める覚悟が看て取れよう。しかし、そうした各々の死、あるいは残された人々の悲しみとは無関係に、今日も津軽に雪は降り積もる。読後、何ともいえない切なさがこみ上げたことを覚えている。しかしその感情を喚起したのは、掲出句が持つ、謂わば“乾いた抒情”である。こうしたごつごつとした手触りの、しかも抜きん出て骨太の句こそが、却って最も抒情的だといえるのではないだろうか。例えば、同じ内容を現代詩で表現しようとすれば、たぶん可能かもしれないが、恐ろしく長いものになるだろう。掲出句はそれをたった17文字で描き切った。俳句形式の底力を見る思いがする。

そしてこの句の背景には、何と言っても津軽の風土が控えており、それが一句を支えている。何より人の「死」が生の営みの終焉である以上、大なり小なり「死」はその風土を反映したものになる筈である。だから「死」をテーマとした作品は、風土と直結し、風土そのものを詠んだものとなる場合があっても不思議ではない。掲出句はその好例である。結局、津軽の風土に生涯拘り抜いた千空にとっては、「死」も風土の一部だったといえるのではないだろうか。

青玄系作家(日野晏子)の句/岡村知昭

口授くじゅに非ず黙々と亡つまの稿うつす    日野晏子

 いつかはこの日が来るだろうことは十分に覚悟できているつもりの彼女だった。戦争が終わりようやく落ち着いた日々が訪れると思った矢先に病を得てしまい、遂にはすっかり寝たきりとなってしまった夫。すっかり一変してしまった一家の生活は妻である彼女なしでは立ち行かなくなり、そのために自らのための時間を捧げて日々の生活にあたらざるを得なくなった。だがそのような生活は決して失うことばかりではなかった、夫という存在を目の前で病者として意識する毎日の中で、夫のために尽くさなくてはという使命感、さらには身近になった夫と共に過ごす時間を生きる昂揚感は、これまで以上に夫という存在へのいとおしみを彼女に与えたのだから。俳人の妻だった彼女が俳句を書き出したのも、より深く夫とともにあり続けたいとの思いからだった。そのように過ぎていった病める夫との日々も遂に終わりを迎えた。いま彼女は残された夫の原稿を清書するため、ひとり机に向かっている。夫が生きていたとき、彼女は口述筆記で夫の言葉を書きとめ、日々の生活のための時間に追われながらも、いまと同じように机に向かって清書していたものだった。いま彼女が原稿を写しながら思うのは、病床から自分が書きとめなくてはいけない言葉を発してくれる夫がいないこと。わかってはいたのだ、いつかはこの日が来るということは。だが原稿に残されているまぎれもない夫の言葉を写すたびに改めて不在を思い知らされ、心締め付けられる思いに駆られる自分もいる。だからひたすらに黙々と、この仕事は自分の手でやらなければと言い聞かせながらの作業となるのだ、それこそが夫の思いを世に伝えることにつながるのだから。

 この1句は日野晏子の没後に刊行された「日野晏子遺句集」(平成7年)の「昭和三十一年~昭和39年」の章の所収。夫であった日野草城の死の衝撃からはじまるこの章には、上掲句と同じように「亡夫」に「つま」のルビを振った作品を見ることができる。

亡夫の衣のあらぬ箪笥の鐶鳴らす
花八つ手外出るも帰るも亡父に告ぐ(*外出る→でる)
薊濃し亡夫想ふ雨銀色に
眼を病めば仕草亡夫めく遠蛙
亡夫恋し明治の髪を短く剪り
亡夫と言いかはせしは夢露万朶

 「亡夫」という書き方を通じて描かれるのは、落ち着きを取り戻したかのように見える自分の生活のなかに不意に訪れる、夫を失った喪失感の大きさだ。「眼を病めば」の句には毎日見たであろう夫の病床での姿が、いま自分自身にあることへの喜びすらうかがわれるし、「言いかはせしは夢」の句は時間を経てもなお尽きない哀しみを、それこそ存分に出し切ろうとする作者の姿がある。彼女にとって「亡夫」の俳句は「喪の時間」を送る妻としての重要な作業としてあり続けたのではないだろうか。

中尾寿美子の句/横井理恵

霞草わたくしの忌は晴れてゐよ   中尾寿美子

 「死」というテーマを与えられた時、最初に頭に浮かんだのは「時代の死」であった。

「戦没の友のみ若し霜柱(三橋敏雄)」「前ニススメ前ニススミテ還ラザル(池田澄子)」

 死者が近しい人であれ見知らぬ大勢であれ、戦没者たちはある時代の象徴であり、それぞれの個を太い筆でべったりと塗りつぶされた存在に見える。時代に殺サレタ人々への思いは同じ色調を帯びるように思われるのだ。今回東日本を襲った地震と大津波による死者もそうだ。誰かの友であり誰かの家族であり、一人一人に紡いできた物語がありながら、あの黒い、あまりにも黒い海の水に巻き込まれ、全ての人が一色に塗り込められてしまった。「時代の死」は私たちに問いかける。「おまえに責任はないのか」「なすべきことは何か」と。答える術のない問いをつきつける――それが「時代の死」だと思う。

 寿美子の句にはその意味での「死」は見られない。寿美子は敗戦引き上げを体験した世代であるが、俳句をはじめたのは戦後であり、日本の高度経済成長期である。最も「時代の死」から遠いところで寿美子は生き、作句していた。だから、今回のテーマでは書けないのではないかと最初は思った。しかし、よくよく考えてみると、「死」とはきわめて個人的なものである。むしろ「時代」によらない「死」こそがあるべき姿なのかもしれない。

時代背景を無視することはできないにしても、生者は時代に塗りつぶされることなく自らの物語を紡いでいく力を持つ。戦後を生きた女性としての寿美子は、きわめて純粋に個人的な「死」を見ていたと言えるだろう。そんな一個人における「死」をテーマに、寿美子の句を見てみよう。

 人は生きていれば必ず誰かの死に出会い、やがては自らの死を迎える。寿美子の句において最初に出会った「死」は俳句開眼の師高木風駛の死であった。

冬ばら抱き男ざかりを棺に寝て     『天沼』

 「高木風駛師急逝一句」という前書きのあるこの句の破調は、定型という器に納まらぬ溢れだす哀切の響きを持っている。人は死ぬときを選べない。生きてあることは親しい人の死に出会うことと切り離せない。俳句によって「今ここを生きる」道を歩み始めた寿美子は、そのことをかみしめていただろう。

第二句集『狩立』から第三句集『草の花』にかけて、寿美子の句には「老婆」が多く登場する。鷹羽狩行は、「寿美子には老婆の句が多い。それのみならず、自分を老婆と類客観視する。」と書いている。そして同時に「死」という文字を句の中に入れた句、「自らの死」をモチーフにした句を作り始める。

咳けばまさしく日本の老婆風の中     『狩立』
梅林の余白に婆の影法師      
死なば樹にならんと思ふ朧の夜     
婆の死後野の涯にさく白菫        『草の花』
  桜冷ゆ瞑ればすぐ死ねさうに
  死後の景すこし見えくる花八ッ手
  冬耕のいつしか風になる老婆

 「生老病死」の「老」と「死」を見据えながら生きる寿美子であるが、これらの句は受け手にとってちょっと重い。見る目が据わっているかのようだ。それが、軽やかで楽しげな視線に変わっていくのが次の第四句集『舞童台』である。

余生とは菜の花に手がとどくなり      『舞童台』
老人も鶯である朝な朝な
つばな笛黄泉明るむと思はずや
鶯やことりと吾れに老いの景    

 明るく光のさす句が並ぶ。そして、第五句集『老虎灘』を象徴するのは「白桃」である。

夢の世やとりあへず桃一個置く        『老虎灘』
白桃にならんならんと鏡の間
媼いま桃のひとつを遡る
天元に白桃ひとつ泛びゐる

 みずみずしい「白桃」とその萎びかげんは、ユーモラスでまろやかな感覚に満ちている。自嘲的だった「婆」も今や雅びやかな「媼」となり、晴々と世界と交感しているのである。

そして、掲句。

霞草わたくしの忌は晴れてゐよ

 やがて来る自らの「死」を、寿美子はこんなに晴々とうたっている。今をしっかりと生きていれば、死でさえもこんなに晴々と思い描くことができるのだ。寿美子の句はそのことを教えてくれる。私たちは「時代の死」に立ち会わなかったことを、死者に含まれなかったことを気に病む必要はないのだ。あくまでも「個人的な死」を意気揚々と迎えることこそ、真に生きることなのだから。

第4回戦後俳句史を読む(風景)/筑紫磐井・北村虻曳・堀本吟

筑紫:今回から「戦後俳句史を読む」の体裁を変え、それぞれの発言を充実する編集にしてみたい。とりあえずひとつの提案として、この「戦後俳句史を読む」を16人の行う「戦後俳句を読む」と同様、テーマを設けて論じてみたい。その第1回は「風景」とした。「死」も風景とすれば、以下で述べる風景論は多少「戦後俳句を読む(死)」と重なることがあるかもしれない。

北村:今回の話題の与えられたテーマは「風景」である。私の貧しい知識で山口誓子に見当を付け、朝日文庫『現代俳句の世界④:山口誓子集』()を中心に作品を少し読んでみた。日野草城のときもそうであったが、戦後というくくり方からは少しはずれることになる。風景とは「何らかの余裕のある人間が、見ることによって感知する、結合した自然の物体群の醸すアトモスフェア」とでも言っておこう。誓子は、俳句の詠むものはものとものとの新しい関係と言うから、ミニマルな風景。したがって以下、「風景」もいくぶん偏る。

 誓子は、ものとものの関係に接したとき刺激を受ける。そのときのその「ものたち」のシチュエイションを詠みとどめれば読者は同じ心の動きを体験できるであろう、といった趣旨のことを述べている 。代表作

① 夏草に汽缶車の車輪来て止る     『黄旗』・昭和8年
② 夏の河赤き鉄鎖のはし浸る      『炎昼』・昭和12年

など、彼の作品についての、諸賢のオブジェ性や無機性の指摘が記憶に残るが、よく見ると繊細なものの関係の描写がなされている。それによって直接の言葉がなくても、彼が何に心を動かし、感興を覚えたかが分かる。

③ 男の雛の俯向きたまひ波の間に    『黄旗』・昭和8年
④ 蠅憎めばすこし離れしところにゐ   『激浪』・昭和19年
⑤ 行くにつれ奈良へ退く奈良の月    『一隅』・昭和41年

これは特に動物を詠んだ句に著しい。彼は動物固有の動きの一瞬を写生できるのである。

⑥ するすると岩をするすると地を蜥蜴  『炎昼』・昭和10年
⑦ 諸処にとび終に一なる揚羽蝶     『激浪』・昭和19年
⑧ 稲雀汽車に追はれてああ抜かる    『激浪』・昭和19年

蜥蜴の句、「するする」を間を置いて繰り返すことにより、間歇的に動くトカゲの動作が手に取るようである。対象を眺めて自由にさせ動きを見守り、ときに応じて干渉する。志賀直哉『城之崎にて』・大正6年などにも共通する、抑制のある知性人の態度であろう。しかしそれは後を追った、西東三鬼(年齢は誓子より1年上)、永田耕衣の抑制なく自己を押し出す迫力にはかなわない。耕衣となると、もう対象を遊ばせるよりも自らが泥んじるのである。

 いや、しかし若い誓子は、さらに魅力ある世界の入り口に立っていたのではないか。むかし、私には誓子の俳句が今ひとつ分からなかった。しかし

⑨ 終に苦しかやつりぐさの錯綜は    『和服』・昭和24年

を見たときに私なりに了解できた。「かやつりぐさの錯綜」する様は脳内の風景のメタファである。ものとの照応関係を用いて内的宇宙 (inner space: J. G. Ballard) へののぞき窓を作ったのである。この経験は、この句ほど図式的ではなくても、他の景物を詠んだ句を理解する上でも大変役に立った。

 しかしこの句、晩年自身が厳選したという朝日文庫版には収録されてはいない。この自薦句集は三鬼の選とはかなり異なるそうである。

⑩ 麦黄なり屋(や)に竜骨のそびえ立ち    『炎昼』・昭和13年

など抽象性のある一連の麦の句も収録されなかった。その理由は、「終に苦し」がしっくりこないなど句の立ち姿に問題を感じた面もあるかもしれないが、なによりも「我」や「主観性」の出ることを禁忌としたところにあろう。颯爽たる誓子にして、戦後このような地点に行き着いたこと、私には残念である。

筑紫:次回の「戦後俳句を読む」第5回は「風土」について句が選ばれ、論じられることになるが、風土とは何かを少し言及しておきたい。既に「風土俳句」については、前回で定義をくだしたが、これだけが風土の定義ではないことは当然である。一般的に言えば、風土とは自然環境であり、しばしば人を律してゆくものであるから、和辻哲郎のように「風土」は単なる自然現象ではなく、その中で人間が自己を見出すところの対象というふうに拡張することもありえるだろう。その意味において風土俳句も「風土」の1つの表れとしてみておかしくはない。その意味では、そこに住む人間に与えられた条件であり、人間は受動的な役割を果たすにとどまる。風土俳句がごく一時の、ごく一部の人たちにしか適用されなかったのも頷けることである。

さて、近代俳句ではこのような「風土」と違う全く新しい要素が正岡子規によって導入された。それは写生である。明治27年の秋に子規は根岸の郊外をしきりに散歩している。このとき1冊の手帳と1本の鉛筆を携えて次々と俳句を書き付けた。毎日得るところの10句、20句は平凡な句が多いけれど嫌味がなくて垢抜けしたように思って嬉しかったという。これが子規の写生の開眼である。そこでは人間的要素がすっかり捨象され、風土のように類型化されない個別個別の特徴ある純粋客観的な要素が俳句では注目されるようになった。

風土といえないとすればそれは風景と言わなければならないであろう。俳句でしばしば用いられる、「客観写生」(高浜虚子)にしろ、「打座即刻」(石田波郷)にしろ、「眼前直覚」(上田五千石)にしろ、「第3イメージ」(赤尾兜子)にしろ、俳句のキャッチフレーズは風景となじみやすいのだ。

では風景とは何か。北村がいう「何らかの余裕のある人間が、見ることによって感知する、結合した自然の物体群の醸すアトモスフェア」の説明はある程度共感できることである。

私自身、雑誌「俳句空間」に執筆した「風景論」(平成3年)以来、風景という言葉に関心を持ち次のように考えるようになった。風景で重要なことは、風景があって風景思想が生まれるのではなく、風景思想があって目の前の自然から風景を切りとってくると言うことである。風景思想がなくては、風景は存在しない。問題は風景思想がどのように生まれたのかということである。

明治の風景の創始は【注】に試案を述べてみた。戦後の風景は、これからさらに進んで独自の風景論を展開した。

中年や遠くみのれる夜の桃 西東三鬼
陰干にせよ魂もぜんまいも 橋間石
厠にて国敗れたる日と思ふ 能村登四郎
雪国に子を生んでこの深まなざし 森澄雄
白い人影はるばる田をゆく消えぬため 金子兜太
悲しきかな性病院の煙突(けむりだし) 鈴木六林男
さうめんの淡き昼餉や街の音 草間時彦
どの子にも涼しく風の吹く日かな 飯田龍太

見てもわかるようにどこにも風土は存在しない。境川村に住んだ龍太ですら風土は詠んでいない。彼らが詠んだのはすべて風景である。戦後俳句の活動とは、思想を詠むことでもなく、主題を詠むことでもなく、ただひたすら風景を読むことに明け暮れてきたのである。


【注】近代日本にとって重要な契機は、志賀重昂の『日本風景論』(明治27年刊)ではなかったかというのが、私の仮説だ。日本の山岳家の祖小島烏水が『日本風景論』を手に日本アルプスを探索したのはその小さなエピソードに過ぎない。

前出の私の評論と前後して出た大室幹雄の『志賀重昂『日本風景論』精読』(岩波現代文庫)は志賀の業績を矮小化している。その理由を、①根拠なきナショナリズム、②志賀の科学的知識は浅薄である、③風景の本質は日本古来の煙霞僻にすぎない、とあげている。

もともと①について言えば、ナショナリズムはどんなナショナリズムも根拠なきものであり不合理きわまりないのだから、それをもって志賀を糾弾する理由にはならない。また、一方で、明治のナショナリズムが功罪いずれに傾いているかは分からないのであり、現在ナショナリズムが否定されている世界で唯一の国家、戦後日本の評価基準で眺めても意味がないのである。一方、②と③は『日本風景論』の成立の根拠に遡らなければ分からない。

そもそも『日本風景論』のようなものは何故書かれたのか。何を根拠にこんなユニークな本を書こうとしたのか。大室も誰もそのことを教えてくれないので、私なりに類書を当たってみた。英国の政治家・銀行家にして博物学を趣味とするジョン・ラバックが著わした“The beauties of nature and the wonders of the world we live in”(1892年。和訳名『自然美と其驚異』)は『日本風景論』(1894年刊)の2年前に出ている。内容は、動物→植物→森林と原野→山岳→水→河と湖沼→海→天、とミクロからマクロへ視野を広げてさまざまな風景を描いている。内容は科学的記述と文学作品をつづった啓蒙書であり『日本風景論』によく似ている。特に、その「山岳」の章は、『日本風景論』そのままといってよいから、この本の影響はかなり濃密なものがあるといってよいであろう。ところでラバックは、その後、“The scenery of Switzerland”(1896年『スイス風景論』)、“The scenery of Switzerland”(1896年『スイス風景論』)を著わしているが、このような国別風景論は、ラバックに志賀は先立っていることになる。

もちろん先蹤に、地質学者アーキボルド・ゲイキイの“The scenery of Scotland”(1865年『スコットランド風景論』)があったろうが、これはむしろ科学書に近いから科学と文芸の融合はラバックならではの業績であった。

何を言いたいのかといえば、ラバックの『自然美と其驚異』の影響を受けたとはいえ、『日本風景論』は世界で最初の国別風景論の本であったのではないかということだ。思想が風景を切り出す、最初の現場を示してくれているのだ。

大室のいう、②科学的知識の浅薄さ、③日本古来の煙霞僻にすぎない風景観は、啓蒙のあり方、細分化された科学的ディテールから文化への発展を示しているように思われる。大室は、志賀の著書の新しさは、ただ一点、煙霞や雲霧、雲烟ついった古びた死後を水蒸気と呼び直した一点にだけあったのだといってさしつかえない、とこれまた批判するのだが、いや逆に、こうした単純な一元化こそ明治の精神であった。そしてこうした無茶な単純化を経ないでは西欧思想の翻訳は不可能だったのである。今も我々の周辺には単純化の結果の無茶な西洋思想の残骸が残っているではないか。かと言って、科学的知識は大学が機能し始めた当時山ほどあったはずであるが国民を感動させ、動かす知識には全くなっていなかった。無茶な一元化は国民の心を動かしたのだ。そして多分、当時の人々に必要なのは、翻訳された欧米の風景(立ち返って言えば風景思想)ではなくて在来の日本と連続した風景思想であった。それを実践し得たのも志賀しかいなかったのである。

ラバックで思い出すのは英国民の、こうした分化した知識を総合する能力だ。話は飛ぶが、国際連邦を提案したH・G・ウエルズは、そもそもこの運動の前提となる「世界史」が存在しないことに気付いた。このために数十人の専門家に原稿を書かせ、それをウエルズが自らの思想に基づいて、一切専門家の意見を入れず書き改めた。分かりやすい、思想の一貫した啓蒙書とはこのように出来るという一例である(いまなら著作権の関係で決してできない手法である)。これがかの有名な『世界文化史大系』である。英国民は啓蒙書編纂のノウハウをこのように獲得したのだが、一時代の日本中の青年の血を熱くさせた啓蒙書『日本風景論』の編纂もこれに似た方針があったはずだ。「②科学的知識の浅薄さ」はことさらな分化した科学を排除する総合性に、「③日本古来の煙霞僻」は西洋の美意識を日本の山水に融和させる意志とみてよいのだろう。

だから大室の指摘するちょっと変わった煙霞僻の中に明治の新しい精神が息吹いているのである。

○鮭捕り網を斜陽に曝す石狩江村の晩、奥州訛りの漁唱、雪の如き荻花の間に起こる。
○夜雪初めて霽れ、分明に認め得たり屯田村の灯火三四点。

こうして生まれた明治20年代の風景に、俳句の風景も乗らずにはおかない。『日本風景論』以前の、子規の「かけはしの記」(明治24年)、「はて知らずの記」(明治26年)は芭蕉の奥の細道の亜流を一歩も出ていない。しかし、河東碧梧桐の『三千里』(明治39~40年)は『日本風景論』を踏まえ、さらに克服した全く新しい文学であり、風景であった。ここに『日本風景論』の過渡的な意義を認めるべきである。では、虚子は?この間虚子は全然旅行などしていない。風景の主体的な形成に全く没交渉だったのである。明治の精神が作り上げた新しい風景を、受動的に俳句に取り込んでいただけであった。

堀本:

《 風景論の参考書 》

 風景論の参考書としては、まず、明治期、古典的な名著志賀重昂の『日本風景論』(明治27初版・現在近藤信行校訂 岩波文庫)、これは影響の大きい一書であるが、今読んでも愉快で刺激的である。 

一 日本には気候海流の多変多様なる事

二 日本には水蒸気の多量なる事

三 日本には火山岩の多々なる事

四 日本には流水の侵蝕激烈なる事 (『日本風景論』緒論)

 よって、日本風景は「瀟洒、美、跌宕(てっとう=豪放の意)」との特徴を持ち火山や水蒸気に美の根拠を持つ。〈霧時雨不二を見ぬ日ぞ面白き 松尾芭蕉〉(同書)。重昂は、この句を例に出して、霧や雨の水蒸気が生む風景、また見え隠れする景物の趣きを語る。「科学的」説明の間に挿入されるかなりの分量の詩文、俳諧句。この論述構成のあり方は、いささか奇書の感じもするのだが、本書のいわば浪漫的なナショナリズム、これこそ日本固有の風景だという発見と熱っぽい主張が、知識青年達におおきな影響を与えた。
 松岡正剛の『山水思想』(2003・五月書房)『花鳥風月の科学』(2004・淡交社)、には「花鳥風月」などのモードに分けて、日本人の美意識を解剖している。特に「風」」の章の探求が魅力的で、彼によれば、「風」は一種のメディア(情報)のシンボルである。風景とは何か、と言うテーマでの切り口は、諸家によって予想以上に多様である。

《 風景句の戦後性—「焦土」の風景》

 風景の書き方で戦前とあまり変わらないところを抜き出してみた。いろいろみてゆくと、廃墟や焦土にも豊かな景を見出しているところ、感動を覚えるほどである。日本人の精神世界では(少なくとも今までは)あるいはそれが、物質的な貧しさが埋蔵する見えぬ富に気づかせてくれるのかもしれない。

山茶花やいくさに敗れたる国の・日野草城  
明日如何に焦土の野分起伏せり・加藤楸邨 
焦土の辺晩涼は胸のあたりに来・森澄雄 
焼跡に遺る三和土や手毬つく・中村草田男

《風景句の戦後性—川柳集より「富士山」の詠まれ方》

富士山を取り合わせた句は風景句の好例になる。『近江砂人川柳集』(昭53・番傘川柳本社)番傘創立七十周年記念出版より。

お召艦その背景に富士の山   (昭14)
焦土あはれ流聯(いつづけ)をした店の跡  (昭21)
富士山にわが機の影がくっきりと (昭37)
聖火行く富士も声援する中を   (昭39)
元日の富士おごそかにあり石油危機(昭49)

 戦前は国の権威を美しく飾り、戦後は焦土での生活の背景に聳えている。いまならばプチナショナリズム、というところ。富士山の配し絵にすることの気持ちよさ、が伝わる。

《風景句の戦後性—「富士山」の俳句》

 俳句では、おおむね「富士」そのものをおおいなる「日本の風景」として称揚し対象化しようとする。それらの句が類型的でありながら単なる叙景をこえた完成度を獲得しているところも、戦前戦後とも変わらない。

元日や一系の天子富士の山  内藤鳴雪(明治の句)
立秋の麒麟の脚が富士を蹴り 須藤 徹(平成の句)

 須藤徹は戦後世代である。彼のキリンは動物園から抜け出して、巨大な神獣「麒麟」の風格を持つ。しかもウルトラマンのようにこの名山にケリを入れる。(しかし、これもやはり富士山の賛美と読みとられる。)

雪の富士高し地上のものならず  山口誓子
ばら色のままに富士凍て草城忌  西東三鬼
富士秋天墓は小さく死は易し  中村草田男  

 俳人の風景観も「富士」の神聖化からはまだぬけだしていないだろう。「焦土—荒廃」から立ち上がるために、「富士」という永遠の山への詠み方がまもられたのである。これは、俳句の方法的特質とのみはいえない。富士に代表される日本の風景の普遍の美を信じているゆえか、あるいはこれが日本的思考法というべきなのだろうか?


1『現代俳句の世界④:山口誓子集』「俳論 一」

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